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はじまりの夏 series 理性か、衝動か  作者: 日蔭野泉


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1-01. 誘い

 大学四年。就活がやっとひと段落した時期だった。何か月も机に向かい続けてきた時間がいったん途切れ、紗良(さら)には久しぶりに何にも急かされない日常が訪れていた。


大学の図書館を出てすぐのキャンパス内を歩いていたら後ろから呼び止められた。


「日向(ひなた)さん」


足を止めて辺りを見渡すとゆったりと手を振って後輩が近づいてきた。


相馬 嶺(そうま れい)。

高校の部活の一学年下の後輩で、大学でも同じアウトドアサークルに所属している。学部が違うためキャンパス内で会うことは珍しい。


「相馬くん。珍しいね。この辺で会うの」


「小松と約束してるんです」


「そうなんだ」


 小松は紗良と同じ法学部でアウトドアサークルの後輩。嶺の高校時代からの友人でもある。軽く近況報告をし合った後、何気ない口調で嶺が言った。


「来週末、部でキャンプなんですけど、来ませんか」


「でも四年は誰も来ないんだよね?それに直前で人数増えたら困るんじゃない?」


「全然です。今回経験者が少ないし、来てもらえたら助かります」


紗良は数秒迷い、スケジュールを確認した。少し無理をすれば不可能ではない。


「行きましょう」


迷っていると、嶺は軽快な調子でいたずらっぽく笑っていった。強引ではないけど、断らせない空気を感じる。


「うーん。わかった。追加をお願いします」


「ありがとうございます。車、空席あるからどうしようかなと思ってたんです」


 無邪気な様子で喜ぶ嶺を見て、紗良は半ば呆れながら息をついた。こうやって、いつも彼の手のひらで踊らされている気がする。でも、先輩として慕って誘ってくれるのは素直にうれしい。


部の活動へ顔を出さなくなって、もう半年近い。部の予定はグループに流れていたが、ほとんど目を通すだけだった。今回のキャンプについても、募集がかかっていたことは知っていた。誘われなければ参加するつもりはなかった。


でも、大学最後の夏、思い出にちょうどいいか、と思う程度には気持ちが揺れた。静かだったはずの夏が、さっきまでとは少しだけ違って見えた。


       ◇


「小松先輩」


 法学部棟で授業を終えて廊下へ出たところで、後輩の森千晶(もりちあき)に呼び止められた。

振り向いた小松は、足を止めた。ルーズなTシャツにラフなパンツを合わせて黒縁の眼鏡を掛けているのはいつも通り。


だが。明らかに表情が普段と違う。

目元が赤く、頬に涙の跡が残っている。


「……何。どうしたの」


「ちょっと来てください」


「いや、怖いんだけど」


「大丈夫です」


「大丈夫な人、泣いてないだろ」


 千晶は答えず、少し先を歩き出した。さすがに放っておく訳にもいかず、その後をついていく。人気の少ない階段の踊り場まで来ると、千晶は一度周囲を見た。それから声を落とす。


「ついに、動き出しました」


「何が」

 

 千晶は小松の服を軽く引いた。屈めということらしい。従うと、手を耳打ちした。


「相馬先輩が、紗良先輩をキャンプに誘ってました」


 小松は数秒、千晶を見た。


「いつ?」


「さっき」


「見たの」


「はい。たまたま聞こえちゃいました。わざとじゃありません」


 小松は一瞬、何か言いたそうに千晶を見たが、触れずに続きを促した。


「……それで?」


「紗良先輩、行くって答えたんです。神回の予感しかない」


 千晶が目元を押さえる。小松は笑いそうになったが、千晶が本当に泣いているので堪えた。


「キャンプ誘っただけでしょ」


「分かってます」


「じゃあ泣くなよ」

 

 千晶がふと手を上げる。


「小松先輩」


「何」


「今のもう一回言ってください」


「何を?」


「『泣くなよ』」


「……なんで」


「ちょっと声よかったので」


「何それ」


「いいから」


 小松は怪訝そうにしながら、同じ調子で言い直した。


「泣くなよ」


 千晶が少し眉を寄せる。

「さっきと違う。もうちょっと低く」


「注文多いな」


「お願いします」


「……泣くなよ」


 千晶は一度だけ頷いた。小松は無機質な目で千晶をみた。


「はい。いいですね」


「俺、何させられてるの?」


「声質が好きなんです」


「急だな」


「前から思ってました」


「……そう」


「はい。では、キャンプの件に戻ります」


「何事もなかったみたいに戻るなよ」


「だって」


 千晶は小さく息を吐いた。


「四年、他に誰も参加しないんですよ」


「うん」


「紗良先輩だけ」


「そうだね」


「同じサークルになって二年ですよ。会えてたときも、紗良先輩が来なくなって半年経っても、そのままだったのに」


「うん」


「それが今日、明確に個人として誘ってました」


 千晶はまた少し目を潤ませた。


「色々理由つけて、断らせる気あんまりなかったです」


 小松が少し笑う。


「目に浮かぶ」


「これ、さすがに今回は違いますよね」


 小松は少し考える。


「どうだろ」


「そこで濁します?」


「キャンプ誘っただけだし」


「そうですけど」


 千晶は納得していない顔をした。


「まあ、確かに、明確に誘ったのは初めてかも」


「ですよね!?」


「うん。日向さんがいるところでその場の全員を誘うことはあったけど」


 千晶はそれを聞いて、静かに頷いた。また少し涙が落ちる。


「泣きすぎでしょ」


「だって長かったんですよ。見てる方も」


「俺の方が長いけど」


 千晶が顔を上げる。


「じゃあもっと感動してくださいよ」


「まだ何も始まってないからな。結局いつも通りの可能性もある」


 千晶はようやく少し落ち着いたらしく、目元を拭った。

「わかってます。でも、もう卒業までこのままなのかなって、ちょっと思ってたんですよね」


 小松は何も言わなかった。


「だから」


 千晶はもう一度、目元を押さえる。


「……ついに始まりました」


「だからまだ分かんないって」


「いいんです」


「何が」


「私は静かに見守ります」


 小松が千晶の顔を見る。


「今めちゃくちゃ泣いてるけど」


「本人達の前では、です」


「ならいいけど」


千晶は小さく笑った。


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