3-6 SA
額に触れる窓が冷たかった。低い振動が身体に伝わっている。
髪を僅かに引かれる感覚がして、嶺はゆっくり目を開けた。
視界の端で、白い指が動いていた。右肩のすぐそばに、人の温もりがある。
紗良だった。
近い。
運転席の座面に膝をつき、助手席の背もたれへ少し身体を預けている。両手が嶺の髪に触れていた。
顔を向けようとすると、即座に言われた。
「動かないで」
「……何、してるんですか」
嶺は動きを止めた。紗良は嶺の耳の上の辺りで、慎重に指を動かしている。
「何か絡まってる。すぐ取れると思ったんだけど」
髪が少し引かれた。指先が耳の上をかすめる。
「痛い?」
「大丈夫ですけど。自分でやりますよ」
「うーん。無理に引っ張ると、余計絡まりそうだし。もう少しだから。我慢して」
そう言って、また顔を寄せてくる。
こちらが何を我慢しているのか、少しも分かっていない。
嶺は目だけで周囲を見た。フロントガラスの向こうには、白い車の後部がある。車は止まっていた。聞こえているのはエアコンの音で、眠る前に後ろで騒いでいた一年生たちの声はない。
眠りに落ちる寸前まで、次に二人になれたら、なんと言って伝えようかと考えていた。
紗良がどう思っていても、ここまで来たら、もう伝えなければ。
今、ふたりきりだ。
嶺は深く息を吸った。
「……あの」
「黙ってて。外れそうなの」
すぐに遮られ、口を閉じた。
髪を一本ずつ分ける指先も、僅かに傾けた顔も、真剣だった。今は髪に絡まった何かのことしか眼中にないらしい。
こういうところまで、好きなのだから困る。
しばらく身動きをせず、紗良に従った。
「取れた」
ふっと眉間がほどけた。
紗良は掌へ目を落とし、嬉しそうに笑った。
「どこでついたの、これ。見て」
「……ありがとうございます」
差し出された右手を、左手で下から支えた。掌の真ん中に、棘のある小さな実が載っている。乾いた葉のかけらが絡みついていた。
「起こしちゃった。ごめん」
「いえ」
紗良が顔を上げた。
目が合うと、その動きが止まった。髪に触れていた左手が、バランスを取るように助手席のシートを掴む。嶺の右肩に、腕が僅かに触れていた。
嶺は支えている手へ目を落とした。
朝倉が綺麗だと褒めていた手。
白く、細く、長い指。整えられた桜色の爪。ボールを持つ時も、髪を耳に掛ける時も、いつも見ていた。
指の付け根を、親指でそっと撫でた。
紗良の身体が僅かに震える。少し曲がった指を、掌でそっと包んだ。顔を上げると、紗良はもう実を見ていなかった。
「……近いって、言わないんですか」
手首の内側へ親指を滑らせながら尋ねる。声には少し拗ねた響きが混じった。
「……近いとは、思ってる」
「思ってる、だけ?」
紗良は目を伏せた。返事はなかった。手首の内側を、もう一度ゆっくり撫でる。
紗良が目を細めた。少し瞳が潤んでいる。
「……近い」
言い終わる前に、指先が遠慮がちに動き右手で、そっと嶺の前腕に触れた。引き止めるような、縋るような触れ方だった。
嶺は動きを止めた。
息を吸った。触れ返されたところが熱い。もう、手に触れているだけでは足りない。
細い手首を包む指に、少しだけ力を込めた。
紗良がシートを支えに身体を傾ける。膝の脇で座面が軋み、二人の間で服が擦れた。
顔を上げた紗良と、目があった。
嶺は右手を上げた。耳に掛けられた髪の隙間から、白く細い首筋へ指を伸ばす。
紗良が少しむずがるように、首を傾けた。その動きに沿って指を滑らせ、耳のすぐ下をそっと撫でる。
紗良の目が細くなり、嶺の腕に触れる指先に、僅かに力がこもる。
目が合うと、その頬にじわじわと赤みが増していった。
嶺は指を止めた。首筋に添えた手は、そのままだった。
視線が唇へ落ちる。今朝の柔らかさを、ついさっきのことのように思い出した。
嶺が顔を寄せると、紗良の視線がふと肩越しに動いた。
窓の向こうを、人影が横切る。
シートを掴んでいた左手が、嶺の肩へ移った。
「……今は、だめ」
掠れた声に、嶺は止まった。
紗良がこちらへ目を戻す。
外に人がいる。
分かっても、すぐには離れがたかった。首筋に添えた指に、紗良の温かさが伝わってくる。
嶺は右手を下ろし、少しずつ顔を離した。行き場のない熱が、胸の奥に残っていた。
嶺は紗良の手をそっと持ち上げた。
目を合わせながら、ゆっくりと指先に唇を触れさせた。
紗良の指が僅かに動いた。小さく息を吸う音が、すぐそばで聞こえる。
一度だけのつもりだったのに、すぐには離せなかった。
嶺は目を伏せた。ようやく唇を離しても、手は支えたままだった。
「……すみません。離れます」
指を緩めると、紗良は右手を引き寄せた。肩を掴んでいた左手も、ゆっくり下りる。
嶺は手を膝へ伏せた。もう一度伸ばしてしまわないように。
肩の辺りが急に涼しくなった。紗良がいたところへ、エアコンの風が通る。
紗良は座り直すと、そのままハンドルに顔を伏せた。
「……手、洗ってないのに」
嶺は吹き出した。
「そこですか?」
紗良が横目で嶺を見た。
伏せた顔の脇に右手がある。指先が、ハンドルの縁で小さく曲がった。
話すつもりだったのに。また触れる方が先になってしまった。
静かな車内に、エアコンの音がしている。嶺は窓の外へ目を向けた。車の間を家族連れが歩いていた。まだ一年生たちの姿は見えない。
紗良の手の甲で、絆創膏の端が浮いていた。
「絆創膏、剥がれかけてますね。一旦、洗いましょう」
「……うん」
紗良がようやく顔を上げた。目が合うと、またすぐに逸らされる。
ほぼ同時にドアへ手を掛けた。
◇
外に出ると、熱気と一緒に駐車場の音が押し寄せた。遠くで大型車のエンジンが唸っている。
車を施錠し、紗良の隣へ並ぶ。外へ出ても、紗良はなかなかこちらを見なかった。
「怒ってます?」
前を向いたまま答えない。嶺は半歩前に出て、紗良の顔を見た。短く目が合う。
「怒ってない。……心臓に悪い」
嶺を見て、小さく言った。
嶺は少し笑った。
「日向さんから近づいたんですよ」
「だって、葉っぱが」
「起きてから、俺か一年に取らせればよかったのに」
「すぐ取れると思ったの」
少しむきになった声だった。
嶺が顔を向けると、紗良もこちらを見た。目が合って、また先に逸らされる。
さっきまで、動くな、黙っていろと言っていたのに。
「……我慢した方ですよ」
「開き直った」
紗良が唇を尖らせた。
その顔に笑ってしまう。
紗良は不満そうにこちらを見たが、やがて口元を緩めた。
建物の手前で、紗良が植え込みへ寄った。掌に残っていた実と葉のかけらを、そっと土の上へ落とした。
「嶺」
みちるが売店の方から駆けてきた。嶺の腕へ手を添え、話し掛ける。嶺は添えられた手に目を向けた。
「鷹村、近い」
「いつも何も言わないじゃん」
「私、先に手を洗ってくるね」
紗良は二人に笑い掛け、建物へ向かった。
◇
手を洗い、少しだけ買い物をして建物の外へ出ると、朝倉がこちらへ歩いてきた。
「相馬先輩。起きたんですね」
「さっき」
「日向先輩も買い物ですか」
「そんな感じ」
そのまま並んで駐車場へ向かう。
朝倉は袋を持ち替えた。
「俺、起こそうとしたんですけど。日向先輩が、寝かせてあげよう、自分が残るからって」
「……そう」
「俺も寝たらふたりきりになれますかね」
嶺は朝倉を見た。
「たぶん俺が残るよ」
「日向先輩がいいです」
迷いなく返され、嶺は笑った。朝倉も笑い、それから少し首を傾げた。
「でも、マジでかわいいです。相馬先輩は、あんな距離でやり取りしてて、本当に何とも思ってないんですか」
「俺、何とも思ってないなんて、言った?」
朝倉が少し考え、それから笑った。
「そういえば、言ってませんね」
少し間を置いて、続ける。
「……でも。付き合ってはないんですよね」
「そこは覚えてるんだ」
「大事なので」
嶺は笑い、車の鍵を取り出した。
駐車場の向こうから、紗良が歩いてくる。こちらに気づくと、小さく手を上げた。
「日向先輩」
朝倉がすぐに呼んだ。
「お茶、買ってきました。飲みます?」
「いいの? ありがとう」
袋からボトルを取り出しながら、朝倉が嶺を見た。
嶺は何も言わず、鍵を開けた。
◇
「交代するの?」
運転席へ回った嶺を見て、紗良が尋ねた。
「はい」
「もう大丈夫?」
「おかげさまで」
紗良は顔を確かめるように見てから、助手席へ座った。
後ろでは、朝倉が森田に買ってきたものを渡している。嶺は絆創膏を取り出した。
「手、置いてください」
肘掛けを下ろすと、紗良はそっと右手を置いた。
古い絆創膏は外してあり、擦り傷の周りが青紫になっている。
「あざになってますね。痛みは?」
「触らなければ平気」
新しい絆創膏を丁寧に、だが手早く貼った。端を押さえ、今度はすぐに手を離す。朝倉がやりたいと申し出る暇を与えなかった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
紗良が手を膝へ戻す。その指先へ、つい目が向いた。
顔を上げると、紗良もこちらを見ていた。短く目が合い、紗良が先に視線を落とす。
後ろで菓子の袋が開く音がした。
嶺はナビを確認し、ハンドルへ手を置いた。
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