3-5 吊橋
車を降りると、木々の間から湿った風が抜けた。キャンプ場を出て、近くの吊橋の駐車場に着いた。
吊橋までの遊歩道で朝倉は紗良のすぐ後ろから声を掛けた。
「日向先輩、来週の夕涼み会、来ます?」
「うん。行く予定」
「よかった。また会えますね」
「卒業した先輩たちも来るし、楽しいと思うよ」
「日向先輩に会えるのが嬉しいです」
紗良は一瞬こちらを見て、それから笑った。
「素直だね」
「本当ですよ」
最初は、綺麗な先輩だと思った。
話してみるとよく笑うし、こちらの話もちゃんと聞いてくれる。
もう少し話したいし、仲良くなりたい。あわよくば、とも思う。
朝倉は、嶺や小松のように、黙っていても女子が積極的に寄ってくる方ではない。少なくとも好意を示して嫌がられるタイプではない、と自認している。
高校では、学年一の美人と言われていた子と付き合っていた。周りが遠巻きに褒めている間に、素直に本人を褒め、遊びに誘った。
行動する前から諦めるのはもったいない。
十分ほど歩くと、木々の間に橋が見えてきた。深い谷の上に、細い吊り橋が架かっている。
「思ったより高いね」
紗良が三浦へ目を向けた。三浦は足を止めかけていた。嶺がそのすぐ後ろにいる。
「昨日の岩より全然高い」
森田が谷を覗き込む。
「言わなくていい」
「待っててもいいんじゃない?」
ひよりがレストハウスを指さした。
「いや、行く。手すりあるし」
紗良が何か言いかけたところで、嶺が三浦を見た。
「苦手なところで悪い。無理そうなら言って」
「はい。予定通りですし、気にしないでください」
ああ。だから敢えて三浦のすぐ後ろにいるのか、と思った。嶺が頷く。紗良もそれを見て、橋へ向かった。
順番に橋へ入る。板が足の下で沈み、手すりがゆっくり揺れた。
「結構揺れるね」
紗良は下を覗き込んだ。谷の向こうまで目を向け、風に吹かれた髪を耳へ掛ける。
「千晶ちゃん、水、すごく綺麗」
「見えますけど、あんまり下は見たくないです」
「怖い?」
「ロープの管理状況とか気になるので。紗良先輩は平気なんですね」
「千晶ちゃんらしい。私はけっこう好き」
紗良が笑った。
朝倉は横から片手を差し出す。
「手、繋ぎます?」
「なんで?」
紗良がまた笑った。
「揺れるので」
千晶が吹き出した。
「大丈夫だよ。ありがとう。千晶ちゃんと繋いであげたら。怖がってるし」
「結構です」
千晶は即答した。朝倉は笑って手を下ろした。
「……日向先輩、年下ってどう思いますか」
紗良がこちらを向く。
「どういう意味?」
「恋愛的に」
「急だね」
「気になるので」
「……年の離れた弟がいて。かわいいって思うことが多いかも」
「俺も?」
「みんなかわいいよ」
紗良は笑った。
「小松先輩も? 藤井先輩も?」
「かわいいかわいい」
紗良はもっと笑った。
「……相馬先輩も?」
僅かに間があり、視線が後ろへ逸れた。
「……かわいいよ」
「相馬先輩すらですか」
朝倉は考えながら言った。
「でも。完全に無しってわけじゃないんですよね。本当の弟じゃないし」
「まあ……そうだね」
前で千晶が肩を揺らしている。
少し並べるところへ来たので、紗良の隣へ寄った。
「朝倉くん、近い」
呆れたように笑って、言われる。少し離れる。聞く前からあれこれ考えるより、ずっと早い。
向こうから来た観光客を通すため、一列になった。数人が通り過ぎたところで、橋が大きく揺れる。
後ろで足音が止まった。
三浦が手すりを握ったまま動かなくなっている。嶺がすぐそばへ寄った。
「掴まる?」
差し出された腕を、三浦が掴む。
「すみません」
「いいよ。戻る?」
「行きます」
「分かった」
嶺は足を止め、三浦が動くのを待った。
「相馬先輩、俺、代わりましょうか」
嶺が顔を上げる。
「大丈夫。楽しんでていいよ」
「はい」
普段どおりの返事だった。
紗良も二人を見ていた。嶺と目が合うと、小さく頷いて前へ向き直る。
朝倉も歩き出した。
今朝、紗良へ近づいた時には、すぐに肩を引き戻された。その嶺が、今は楽しんでいていいと言う。
なら、そうしようと思った。
◇
橋を渡りきったところで、三浦が大きく息を吐いた。
「……着いた」
「おつかれ」
「めちゃくちゃ掴んでました」
「知ってる」
「跡ついてたらすみません」
「大丈夫。向こうで休もう」
木陰にはベンチがいくつか並んでいた。紗良と千晶が並んで座り、朝倉たちも近くへ腰を下ろす。
三浦は座るなり、森田へ顔を向けた。
「相馬先輩にときめくの、分かった」
「だろ?」
「お前もかよ」
朝倉は吹き出した。
「行くって言ったら何も言わずに付き合ってくれた」
「そうなんだよ」
「あと、腕もしっかりしてた」
「分かる」
「何の情報共有?」
隣のベンチからも笑い声がした。
紗良は千晶と何か話し、肩を揺らしている。さっきまで気安く話していた顔なのに、少し離れて見ると、やっぱり綺麗だった。
笑う時に、目元から先に表情が緩む。朝倉はボトルを口元へ運びながら、もう一度見た。
藤井がひよりと一緒に、橋の方から歩いてきた。
「桐谷、鳥を見始めると動かないんですけど」
「藤井先輩も見てたじゃないですか」
「迎えに行ったんだよ」
紗良が笑って、ベンチの空いたところを示す。
「ひよりちゃん、こっちで水飲もう」
「はい」
「藤井くん、ありがとう。面倒見いいね」
「帰りはお願いします」
紗良が笑った。
嶺は斜め向かいのベンチに座っていた。そこへみちるが来て、隣へ腰を下ろした。
何か言いながら嶺の腕をつつき、顔を覗き込む。森田が話していたので、会話までは分からなかった。
嶺が笑う。みちるも笑って、その腕へ手を添えたままスマートフォンを見せた。嶺が画面へ顔を寄せる。
紗良が一度そちらを見た。それから千晶へ顔を戻し、膝の上のボトルを持ち直した。
朝倉は三浦の方へ向き直る。
「帰りはもう平気だろ」
「そうだといいけど」
「同じ橋だぞ」
「行きで怖かった橋だぞ」
森田が笑った。
少しして、梨沙子がみちるを呼んだ。
「みちる、そろそろ行くよ」
「はーい」
みちるが嶺の腕から手を離し、立ち上がる。肩に少し触れてから手を振って橋の方へ歩いて行った。
少しして紗良も立ちあがり、レストハウスの脇に向かった。空のペットボトルを捨てて戻ってくると、嶺の前で足を緩めた。
嶺は少し俯いていた。
紗良は通り過ぎようとしたが、一瞬ためらってから、動きを止めた。それから、そっとその場にしゃがむ。
「……相馬くん」
嶺が僅かに視線を上げて紗良を見た。ボトルの蓋を回していた手が止まる。
「ちょっと具合悪いでしょう」
「……よく分かりますね」
「いつもと違うから」
「寝不足なだけですよ」
「ちょっと顔色わるい」
紗良はそのまま嶺の顔を見ていた。
「見過ぎです」
嶺が少し笑う。
「……ごめん」
紗良も少し笑って、目を伏せた。
「大丈夫ですよ」
「うん」
返事をしてから、紗良は立ち上がった。
朝倉には、嶺が具合の悪いようには見えなかった。さっきまでみちると普通に笑っていたし、今もそうだった。
それより、自分が少し近づいただけで近い、と制する紗良があの距離まで近づいたことの方が気になった。
◇
駐車場へ戻る道で、嶺は紗良の背中を見ていた。
気づかれるほど顔に出ていただろうか。
誰とも話していない時に、少し気が抜けていたのは確かだった。けれど、それだけだ。みちるにも、三浦にも、小松にも、何も言われていない。
普段どおりにしていたつもりだった。
さっき、目の前へしゃがんだ紗良を思い出す。
顔を上げたら、すぐそこにいた。紗良は心配していただけだ。分かっていても、手を伸ばしたくなった。
前を歩く紗良が、千晶の話へ頷いている。
平気なつもりでいる時に限って気づく。そういうところにも、ずっと甘えてきた。
「相馬くん」
車へ着いたところで、紗良が振り返った。
「私、運転したい」
紗良が少し首を傾げ、こちらを見上げた。いつもより柔らかい、僅かに甘えるような声だった。
休ませようとするとは思っていた。だが、ここでそんな頼み方をするのか。
逆らえない。
「……急ですね」
「保険は大丈夫なんでしょう?」
「まあ、はい」
「運転、好きだし。相馬くんより上手くないけど」
「普通に上手いですよ」
紗良が手を差し出す。
「じゃあ、鍵」
鍵を載せると、紗良はすぐに握った。僅かに触れた指先は温かかった。
嶺は紗良の満足そうな顔を見て、少し笑った。
◇
車が駐車場を出ると、助手席に座る嶺に紗良が言った。
「ナビあるし、寝てていいよ」
「先輩に運転させて、寝ませんよ」
嶺は背もたれへ身体を預け、紗良を見た。
前を向く横顔も、ハンドルに添えられた白くしなやかな指も、すぐ隣にある。朝から気を張っていたのが、今になって分かった。
後部座席は、撮った写真の話で盛り上がっていた。
「……相馬くん」
紗良が小声で呼ぶ。
「見過ぎ」
嶺は少し笑った。返事はせず、そのまま見ていた。
紗良が唇を結ぶ。それ以上は何も言わず、前を向いたままだった。
今は、どこへ行くのか目で追わなくてもいい。
窓側へ少し頭を預ける。もう少し見ていたかったのに、瞼が重くなった。
紗良の声が近くにある。そのまま、嶺は眠ってしまった。
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