3-3 起床
「何?」
名を呼ばれて紗良は僅かに首を傾げた。掌にほんの少し頬の重みがかかる。重ねられた手は、そのままだった。
嶺は息を飲んだ。
触れたくても、ずっと触れられなかった紗良に触れている。
再び顔を近づけると、紗良はゆっくり目を閉じた。ここで、目を閉じるのか。もう、駄目だと思った。
顔を背けられれば、手を離せた。困った声で名前を呼ばれれば、まだ戻れたかもしれない。そんなことを、どこかで当てにしていた。
好きだとさえ、まだ言っていないのに。
指先に触れる熱に気を取られその先を考えられない。これまで何をどうやって我慢していたのか、分からなくなっている。
遠くで、テントのファスナーが開く音がした。
身体は止まった。けれど、すぐに離れようという気にはなれない。
誰が起きてきたっていい。ここにいられないなら、どこかへ行けばいい。二人きりになって、もっと触れたい。紗良がまだ自分に見せたことのない顔を、もっと見たかった。
紗良が目を開ける。
それでも、頬から手を離さなかった。嶺は息を吐こうとして、うまく吐けない。
紗良の指が、手の甲を僅かに動いた。それだけで、もう一度顔を寄せそうになる。
紗良の手がすっと離れた。膝に戻ったその指から目が逸らせない。
「相馬くん……?」
心配するような声に、嶺は目を上げた。紗良はまだこちらを見ている。頬が赤い。自分がそうしたのだと思うと、また手を離せなくなる。
タープの向こうで、足音がした。
嶺は一度目を閉じた。息を吐く。今度は、ゆっくりと。
「……誰か来る」
紗良がはっとそちらを見た。
嶺もゆっくりと掌を離した。耳の後ろから指が抜けると、そこへ朝の冷たい空気が入り込む。
また、いつものように戻るのか。
「……ずっと、こうしたいと思ってました」
考える前に発していた。
上着の裾を整えていた紗良の手が止まる。顔を上げた紗良を、嶺は見つめた。それでも、目は逸らせなかった。
これだけ近づいておいて、言葉が足りないことはわかっている。それでも、人の足音が近づいてくる今、込み入った話はできないとも思った。
嶺は立ち上がった。
「コーヒー、淹れ直します」
紗良は小さく頷き、小さく礼を言った。上着の袖を引き寄せ、両手を膝に置く。
嶺はケトルへ向き直った。
バーナーのつまみを回し、火をつける。青い炎を確かめてから、ケトルを載せた。
いつもやっていることだった。手順を考えなくてもできる。だから、余計なことを考える隙間があった。
服の裾を掴んだ指。掌へ預けられた頬。こちらを見たまま、ゆっくり閉じられていった目。
嶺はカップを一つ持ち上げ、置き直した。
「おはようございます」
三浦だった。片手に洗面道具を持ち、まだ少し眠そうな顔をしている。
「おはよ」
返事をすると、思ったより普通の声が出た。
「早いね」
「目が覚めたので。相馬先輩、いつから起きてたんですか」
「夜明け前。コーヒー飲む?」
「早いっすね。飲みたいです」
三浦が空いている椅子を引いた。嶺はカップをもう一つ出す。
「日向先輩も?」
「うん。少し前に」
紗良の声に、つい顔を向けた。
カップを両手で持っている。自分の上着の袖が、手の甲まで覆っていた。さっきは近すぎて、そんなところまで見ていなかった。
紗良がこちらを見た。
目が合うと、唇を僅かに結び、カップへ視線を戻した。嶺も手元へ目を落とした。
三浦が、風の音で夜中に一度起きたと話し始めた。嶺は頷きながら聞いた。返事をするたび、自分の声が普段どおりであることを確かめているようだった。
ほどなく、朝倉と森田も起きてきた。挨拶が重なり、椅子を引く音がする。朝倉は荷物を足元へ置き、両腕を伸ばした。
「よく寝た?」
「はい。森田、寝るの秒だったな」
「朝倉もすぐだったろ」
紗良が笑った。
嶺は二人分のカップを並べた。湯気が指先に触れる。タープの端から落ちた雫が、すぐ脇の地面を打った。
これだけ人がいれば、もう何もできない。
そう思ってほっとした自分と、残念に思っている自分がいた。
「相馬先輩、寒くないんですか」
朝倉に尋ねられ、顔を上げる。
「大丈夫」
風がタープの下を抜けた。袖から出た腕は冷えている。けれど、身体の内側だけが、まだ落ち着かなかった。
朝倉の視線が紗良へ移った。少し余った肩口と長い袖を見て、ああ、と頷く。
「それ、相馬先輩のですか」
「うん。貸してもらってる」
「日向先輩、これ着ます? 俺の予備」
朝倉は手提げ袋から上着を取り出した。
紗良はそれを見てから、嶺へ顔を向ける。視線が薄着の腕の辺りで止まった。
「……相馬くん、寒いよね。手、冷たいし」
カップを口元へ運びかけた手が止まった。
紗良も言ってから気づいたように、唇を結んだ。目が合う。その頬に僅かに赤みが戻り、先に視線を落とされた。
嶺は一度カップへ口をつけてから、朝倉の上着を見た。
「……じゃあ、俺が借りようかな」
「日向先輩が着てるの見たいです」
朝倉はためらわずに答えた。
「俺じゃ駄目なんだ?」
嶺が少し笑うと、朝倉も笑った。
「相馬先輩は自分のあるじゃないですか」
「まあね」
「なんで私?」
紗良が尋ねる。
「絶対かわいいからです」
紗良が瞬き、それから笑った。
「ジャージならどれも一緒だよ」
「じゃあ、俺のでもいいじゃないですか」
上着が、もう少し紗良の方へ差し出される。
森田がこちらを見た。一瞬口を閉じ、隣の朝倉を肘で小突く。
「何?」
「……いや」
朝倉は一度森田を見たが、すぐに紗良へ向き直った。
「どうぞ。俺、今ので十分なので」
「……じゃあ、少し借りようかな。相馬くんにも返したいし」
紗良の指がファスナーへ伸びた。
胸の奥に残っていた温かさへ、細く風が通った。
自分が直した金具を、その指がつまむ。嶺はカップへ視線を戻した。縁に口をつけたまま、少しの間、傾けられなかった。
「おはようございます」
千晶の声がした。
紗良が顔を上げる。女子テントの方から、千晶たちが連れ立って歩いてきていた。木々の間から朝の光が差し、濡れた葉の先が白く光っている。
「あ、おはよう。みんな起きた?」
「はい。紗良先輩、早いですね」
「目が覚めちゃって」
紗良はファスナーから手を離した。
「自分の上着、取ってくるね」
朝倉へ向き直り、少し申し訳なさそうに笑う。
「朝倉くん、ありがとう」
「残念。俺のも着てほしかったなあ」
広げた上着を見下ろして、朝倉が言った。森田がもう一度、朝倉の脇を小突いた。
「何だよ、さっきから」
紗良は笑いながらカップを置いて立ち上がると、上着の裾が腰の下で揺れた。
「上着、テントまで着ててください」
「……ありがとう」
紗良はテントへ向かった。すれ違った千晶と言葉を交わす間も、嶺はその背中を見ていた。
「着てもらえなかった」
朝倉が呟いた。声はさほど残念そうでもない。
「やっぱ、付き合い長いと安心感あるんですかね」
嶺は紗良から目を戻した。
「……朝方かなり寒かったし」
「俺のの方が暖かいですけど」
森田が吹き出した。
「張り合うなよ」
「いや、性能の話」
三浦まで笑った。嶺も口元を緩め、カップへ目を落とす。
安心感。
今朝、ようやく越えたと思ったところへ、また戻されたような気がした。
さっきまで握られていた服の裾には、まだ小さな皺が残っていた。
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