3-2 揺らぎ
嶺は何も気にした様子もなく、ファスナーの金具を持った。指が、紗良の身体には触れないぎりぎりのところで動く。金具を押さえ、噛み込んだ布を少しずつ引き出していく。
紗良はその手元を見た。長く細い指が、自分の胸元のすぐ近くにある。ただそれだけのことが、妙に落ち着かなかった。
「日向さん」
「何?」
嶺は顔を上げなかった。手元を見たまま、ぽつりと言う。
「さっきのって、まだ活きてるんですか」
「さっきの?」
「……部の人を、そういう目で見ちゃいけないってやつ」
紗良は黙った。もう高校生ではない。あの部活も、とっくに卒業した。当時の空気なんて、今の自分たちには何の関係もない。そう聞かれてみると、自分はまだどこかで、その続きを生きていたのかもしれないと思った。
昔からよく慕ってくれて、自分もずっと気にかけてきた後輩。それ以上を考えないことを、当たり前にしていた。高校を卒業しても。大学でまた会っても。いつの間にか、その線だけは引き直さないままだったのだろうか。
何か答えなければと思う。けれど、活きている、と言うのも違う。もう活きていない、と言うのは、もっと言えなかった。嶺は何も催促しない。
金具を支える親指が少し動く。小さな音がして、噛んでいた布が外れた。一度下げたファスナーを、ゆっくりと上げていく。胸元まで来て、止まる。
嶺の指が離れた。その瞬間、胸元にあった気配まで薄くなる。
それでも嶺は立ち上がらなかった。紗良が顔を上げる。目が合った。
近い。
膝をついた嶺と、低い椅子に座った自分。いつもなら見上げる顔が、今はほとんど同じ高さにある。
胸が強く鳴った。聞こえるはずはないのに、知られそうな気がする。
「……それって、俺も?」
嶺は紗良を見ていた。いつもの少し斜に構えたような笑い方はしていない。
視線が一度だけ紗良の口元へ落ちた。昨日と同じように。すぐに戻る。それだけで、何を考えているのか分かった。
嶺の顔が、ほんの少し近づいた。
紗良は動かなかった。意味は分かっていた。それでも、身体が離れる方へ動かなかった。嶺が止まる。近づいた分だけ、吐く息がかすかに頬へ触れた。
「嫌ですか」
低い声だった。紗良は答えられなかった。
目の前にいる嶺を見ていた。まだ嶺が紗良よりも小さかった、高校の頃から知っている顔。何度も見てきた目も、鼻筋も、口元も。けれど今は、どうしても同じようには見えない。胸がいっぱいで、なぜか泣きそうになる。
嶺が息を吸う音が、小さく聞こえた。その一瞬が、ひどく長く感じた。
それから、唇が触れた。
柔らかく、短いキスだった。あまりに短くて、触れたところだけが取り残されたように感じる。
何年も二人を隔てていたものが、今の一瞬で、大きく揺らいだ気がした。
嶺は僅かに顔を離した。
紗良は息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。唇に残った温かさが切ない。顔を上げて見ると、嶺の視線が紗良の目元を確かめるように動いた。
離れようとは思わなかった。
頬に手が触れる。
掌が頬を包む。嶺の長い指が耳の後ろまで回る。首筋にまで届くその手に顔を支えられて少し顎が上がった。
もう一度、唇が重なった。
軽く触れて、離れる。また触れる。
穏やかな啄むようなキスだった。紗良は目を閉じた。触れるたびに息が止まり、離れると少しだけ吐く。頬に添えられた掌が温かい。
いつしか次を待っている自分に気づく。
ふと、唇が離れた。
顔を支える手はそのままだった。けれど、嶺の気配が止まった。紗良は目を開けた。すぐ近くで嶺と目が合う。
離れるのだと思った。そう感じた瞬間、指先が動いていた。嶺の服の裾を、そっと握る。
嶺が目を落とした。紗良も自分の手を見て、遅れて頬が熱くなった。引っ張ったわけではない。ほんの少し掴んだだけ。それでも、何を求めたのかは伝わってしまった気がした。
指を離せずにいると、頬を包む掌が僅かに動いた。嶺が顔を傾ける。紗良は目を閉じた。
唇が重なった。
さっきとは違う。
そう思った時には、もう深くなっていた。どう応えればいいのか、考えようとしても、触れている感覚に気を取られ、何も考えられない。
裾を握った指も離すことができなかった。僅かに唇が離れると、その間に息を吸う。
嶺の顔はまだ近く、伏せられた睫毛の一本一本まで見えた。目が合うより先に、紗良はまた目を閉じた。
頬を包む掌に、そっと重みを預ける。またすぐに唇が重なった。今まで二人の間にはなかった触れ方に胸の奥が騒ぐのに、離れて落ち着こうという気にはなれなかった。
どうしてこんなに触れていたいのか、自分でも分からない。
耳の後ろで、嶺の指が微かに震えていることに気づいた。顔を支える手は優しく、動きにも迷いはないように思えた。
嶺も、平然としているわけではない。そう気づくと、胸の奥が締めつけられる気がした。
空いていた手を上げ、頬に添えられた嶺の指先へ触れた。指先が冷たい。自分に何一つ余裕などないのに、そうしたくなった。温めるようにそっと掌を添える。
嶺の動きが止まった。
唇が離れ、紗良は目を開けた。嶺がこちらを見ていた。何か言おうとして、言葉を探しているように見えた。
紗良は手を離さなかった。嶺の瞳が戸惑うように揺れた。堪らずその手の甲を一度だけ撫でた。
嶺が小さく息を吐いた。
「紗良さん」
名前を呼ばれた。
すぐには返事ができなかった。高校の頃からずっと「先輩」「日向さん」だった声で、名前を呼ばれている。
それだけで、また違う場所を触れられたような気がした。
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