3-1 禁止
紗良は夜明け前に目を覚ました。雨は上がっていた。木の葉に残った雫が、ときどきテントの布へ落ちている。
隣では、同じテントに千晶たちが眠っていた。もう一度目を閉じたが、眠気は戻ってこなかった。
昨夜の嶺との間に起きたことを無意識に反芻する。これまでのように、ただの後輩としての親しさだと片づけるには、少し無理がある気がした。
どういう意味なのか。そこまで考えようとすると、今までの関係や卒業や就職という現実が割り込んでくる。
上着を羽織り、テントの外へ出る。朝の空気は冷たかった。キャンプ場はまだ暗く、炊事場の近くにだけ小さなランタンが灯っている。
嶺がいた。
タープの下で、バーナーにケトルを載せている。紗良に気づくと、軽く顔を上げた。
「おはようございます」
「おはよう」
「早いですね」
「目が覚めたから」
「俺もです」
何も。気にしていない、いつも通りに見える。
嶺は空いている椅子を足で少し引いた。座っていいということらしい。紗良が座ると、カップを二つ並べる。
「コーヒーでいいですか」
「うん」
湯が沸くまでの間、二人とも話さなかった。気まずい沈黙ではない。今までだって、近くにいても話さない時間は何度もあった。
それでも今は、嶺の隣にいることを必要以上に意識してしまう。いつも通りに安心しているはずなのに、落ち着かなかった。
「そういえば」
嶺が思い出したように言った。
「佐賀先輩と東野さん、付き合ったらしいですよ」
紗良は、高校時代の部活の先輩と同級生の話題に素直に驚いた。
「え? そうなの? でも大学、違うよね」
「はい。卒業してからも、時々会ってたらしいです」
「そうなんだ」
紗良は少し驚いて、それから笑った。
「でも、分かるかも。東野さん、佐賀先輩のサーブ練習に残って付き合っていたこと、あった」
嶺が二つのカップにコーヒーを注いだ。
「俺も佐賀先輩が東野さんの荷物持って、駅まで一緒に帰ってるの、見たことあります」
「今思えば仲よかった」
「ですね」
当時はそれを、特別なことだと思わなかった。同じ部活なら、一緒に帰ることもある。誰かを待つこともある。紗良はコーヒーを一口飲んだ。
「あの頃、部内恋愛禁止みたいな雰囲気あったよね」
「ありました」
「あの空気で部内は難しいよね」
「はい」
二人とも、黙った。紗良は当時のことを思い出して言った。
「……田中先輩たち、すごかったよね」
「あれは衝撃でした」
紗良の一学年上の田中が、部内で付き合っていた彼女とは別の部員とも関係を持っていた。
彼女の方は浮気相手が誰かわからず、関係のない女子部員まで疑うようになった。あの子と話していたと聞いた。この子も仲がいいんじゃないか。
部活とは関係のないことで、誰と話した、誰が一緒に帰ったと空気が悪くなる。最後の方は、当人たち以外まで妙に互いを警戒するようになっていた。
「あんなに周りがみえなくなっちゃうんだって、思った」
「俺も」
嶺は即答して笑った。紗良はカップの縁を指でなぞった。
「あそこまでは特殊だと思いますけど」
「まあね」
紗良は少し笑う。
「いまだに、恋愛であんな感じになるのはよく分からない」
「皆かなり気を遣ってましたからね」
一度話が途切れる。風が木々を揺らした。紗良は遠くのテントを眺めながら、何となく続けた。
「でも、あの騒動が終わってからも。部内の人をそういう目で見ちゃいけない、みたいな空気は残ってたよね」
「ありましたね」
「真島も宣言してたし」
真島は紗良と同じ学年で部長だった。代替わりの挨拶で、部内恋愛禁止!部活に専念しよう!と呼びかけたのだ。
「アイドルかよって思いました」
嶺が静かに答えた。紗良は笑った。
冷たい風が吹き込み、紗良は肩をすくめた。嶺がすぐに気づいた。
「寒いですか」
「少し」
嶺は自分の上着を脱いだ。
「どうぞ」
「相馬くんが寒くなるからいい」
「中にも着てるので」
紗良の隣の椅子の背へ置いた。必要なら自分で取れ、ということらしい。紗良は少し迷い、上着を手にした。
「ありがとう」
嶺が頷いた。袖を通すと、襟元から微かに柔軟剤の淡い香りがした。その奥に、どこか覚えのある匂いが混じっている。
嶺の匂いだ。そう気づいた途端、胸の奥がきゅうと縮まる。息を吸ったはずなのに、少し足りない。悲しいわけではないのに、なぜか泣きそうになった。
紗良は気づかれないように、小さく息を吐いた。ただ上着を借りただけ。そう思いながら、ファスナーへ手を伸ばした。
途中まで上げたところで、止まる。
「あれ」
少し下げて、もう一度引く。動かない。
「貸してください」
紗良の手元へ目を落とし、嶺が椅子から立った。
「自分でできるよ」
「コツがあるので」
そう言われると、それ以上は断れなかった。紗良は指を離した。
「……ありがとう」
紗良の前へ回り、その場に膝をつく。キャンプ用の低い椅子に座っているせいで、そうすると目線の高さはほとんど変わらなかった。
近い。
紗良は視線を下へ向けた。足元に、小さな花が咲いていた。花の名前を思い出そうとしても、すぐそばで動く嶺の手が気になって思い出せなかった。
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