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はじまりの夏 series 理性か、衝動か  作者: 日蔭野泉


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2-7 視線の先

「ありました」


 嶺が奥からごみ袋を引き出した。狭い荷台の中で身を起こす。


 脚に触れていた熱が離れる。代わりに、顔が近くなった。


「ありがとう」


 ランタンの光が下から当たり、嶺の目元に薄く影を落としている。


 紗良はまともに目を合わせられず、袋を受け取った。そのまま急いで荷台を降りようとして、泥のついた靴底がわずかに滑った。


 大きく体勢を崩したわけではない。足はまだ踏ん張れていた。けれど次の瞬間、腰に腕が回った。身体が嶺の方へ引かれ、肩に頭が軽く触れる。


「……あぶな」


 低い声が、耳のすぐそばにあった。


 腰に回った腕が温かい。支えられただけ。分かっているのに、息が詰まった。


 身体を起こしかけても、腕はすぐには緩まなかった。その腕に指先を添えた。外してもらうためのはずだった。


 嶺の動きが止まった。視線が紗良の手へ落ちる。腰を支える指にわずかに力がこもった。


 身体の芯が熱くなった。添えた指をどう動かせばいいのか、分からなくなる。


「……相馬くん?」


 嶺がこちらを見た。


 近くで目が合う。呼んだのに、その先が出てこなかった。紗良の手は、まだ嶺の腕に触れていた。


 嶺の視線が一瞬、口元へ落ちた。顔が少し近づく。


 紗良は息を止めた。顔を背けることも、身体を起こすこともできなかった。


 けれど、嶺はそこで止まった。


 紗良を見つめたまま、一度ゆっくり息を吐く。それから顔を離し、腰の腕をほどいた。紗良の手も、その腕から滑り落ちた。


「……足元、気をつけてください」


 紗良は頷き、荷台の縁に手をついて降りた。腰の周りへ夜気が戻っても、身体の奥の熱は引かなかった。


 背後で箱を開ける音がした。振り返ると、嶺は取り出したロープを荷台の縁に置き、ずれた寝袋を押し戻していた。折り畳み椅子を隙間へ収める手つきは、もういつもと変わらない。


 今も、腕の感触が残っている。さっきの目も、近づいた顔も、きっと何度も思い出してしまう。


「……何、考えてるの」


 嶺の手が止まった。こちらを振り向き、少し間を置く。


「日向さん、何考えてるのかなって」


 口元には、わずかな笑みがあった。けれど、目は紗良から逸れなかった。


「……こっちのセリフだよ?」


 紗良は僅かに頬を緩めた後、袋を持ち直した。


 嶺が荷台から降りた。近づいては来ず、こちらを見ている。


「他の人にもするの? こういうこと」

「……しませんよ」


 静かな返事だった。


 紗良は嶺を見た。その言葉をどう受け取ればいいのか考えるより先に、胸が強く鳴った。


 嶺は何か言いかけて、一度口を閉じた。少し間を置いて、続ける。


「……日向さんこそ。誰にでもああしますか?」


 紗良は息を詰めた。腕に触れた感触を思い出す。


「……誰にでもは、しない」


 答えてから、目を伏せた。


 嶺は何も言わなかった。紗良がそっと顔を上げると、まだこちらを見ていた。その目を見つめ返すうちに、言ったことの意味が遅れて胸に迫ってきた。


 雨上がりの木々から落ちた雫が、車の屋根を小さく打った。遠くでは、焚き火を囲む部員たちの笑い声がしている。


 紗良はごみ袋の端を握った。聞きたいことはまだあった。でも、続きを聞けば、自分も続きを答えなければならない気がした。


 しばらくして、嶺が静かに口を開いた。


「そろそろ戻りましょう」

「……うん」


 紗良が頷くのを見て、嶺は荷台のロープを手に取った。紗良が脇へ退くのを待って後部扉を閉め、鍵をかける。ランタンを持ち上げると、足元に明かりが広がった。


 二人で来た道を戻った。ぬかるみの手前で嶺が歩調を緩め、紗良の足元へ明かりを向ける。


 隣に並ぶと、腕の間には触れない程度の隙間があった。紗良はその距離を意識しながら歩いた。何か話そうと思うのに、いつもなら何を話していたのか分からなくなっていた。


 タープへ戻ると、朝倉たちが顔を上げた。


「ありました?」

「うん。張り直そう」


 嶺はロープを掲げ、そのまま三人の方へ歩いていった。結び目を確かめながら指示を出す声は、いつもどおりだった。


 紗良はごみ袋を広げた。


 向こうで嶺が笑っている。けれど今は、さっき自分の返事を聞いたあと、何も言わずに見つめていた顔も知っていた。


 紗良は一度手元を見つめてから、足元の紙皿を拾い上げた。

*いいねやコメント励みになります

*Kindleでも同名の続編を配信しています。

まとめて読みたい方は、そちらもぜひ。

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