2-4 手首
嶺はそれ以上近づいてこなかった。ただ、手首だけはまだ離さない。
「先輩、一年に懐かれてますね」
「そう?」
「そうですよ」
紗良は状況を忘れて少し笑った。
「なんか、かわいいよね。三人とも素直で」
嶺は何も言わなかった。じっと紗良を見ている。照明が低いせいで表情の半分は影になっているのに、視線だけは妙にはっきり分かった。
「……俺、日向さんのそういうとこ、好きですよ」
一瞬、意味を取るのが遅れた。
「え?」
「誰にでもちゃんといいところ見つけるとこ」
目を逸らさないまま言われる。紗良は瞬きをした。
「……ありがとう」
好き。言われたのは、そういうところが、だ。分かっているのに、その一言だけが妙に残る。嶺の親指が、絆創膏の端を一度なぞる。
「でも」
「うん?」
「日向さんがかわいい後輩だと思ってても」
少し間を置いた。
「向こうも同じとは限らないですよ」
紗良は嶺を見た。
「……どういうこと?」
「そのままです」
紗良は困ったように眉を寄せた。嶺は目を逸らさなかった。その目に見られたままでは、冗談として流すこともできない。
嶺の親指が、また手首の内側を滑った。ほんの少し。意図した動きなのか、無意識なのか分からない。その指先が通った場所だけ、薄い皮膚の下から熱を持つ。紗良は息を浅く吸った。
「相馬くん」
呼ぶと、嶺の視線が手元から紗良の顔へ上がった。近い。暗がりの中でも、目だけはよく見える。離れた方がいい気がした。けれど、手を引けなかった。今ここで引けば、つかまれていることを意識していたと知られる気がする、とも思った。
「俺が貼ろうと思ってました」
「え?」
「剝がれたら、言ってくださいって言ったでしょう」
声音は穏やかだった。責めているようには聞こえない。一拍遅れて、絆創膏のことだとわかった。
親指のすぐ下で脈が速くなる。
「だって相馬くん、忙しそうだったから」
「呼んでくれれば行きます」
「絆創膏くらいで、呼べないよ」
嶺は答えなかった。その沈黙の方が、言葉よりも意味を持っているように感じられた。
紗良は手をわずかに引いた。嶺も気づいた。それでも一瞬、指は動かなかった。ほんの一瞬だけ。遅れて、ゆっくり力が抜ける。手首を包んでいた指が離れ、最後に親指だけが肌へ残った。そこもすぐに離れた。
急に空気が触れて、さっきまでつかまれていた場所だけが少し涼しく感じた。
「すみません」
「ううん」
紗良は自由になった右手を、左手で包んだ。触れられていた場所を隠すような形になってから、自分でも気づく。嶺の視線がそこへ落ちた。少しだけ目を伏せる。
「きれいに貼れてます」
「うん」
「剝がれたら、今度は俺に言ってください」
「わざわざ?」
紗良が尋ねると、嶺はしばらく黙ってから軽く頷いた。いつもなら、少し笑って。何でもないことのように言葉を逃がす。けれど今は笑わなかった。
「俺がしたいから」
短く言って、嶺は扉を開けた。外から焚き火の明かりと部員たちの声が流れ込む。急に辺りが明るくなった。
「先に戻ってください」
紗良は頷き、嶺の横を通る。狭い入口だった。肩が触れそうになる。その瞬間、嶺がわずかに身体を引いた。
さっきまで手首を離さなかったとは思えないほど、きれいに距離を空ける。紗良はその横をすり抜けた。外の空気が首元に触れる。少し冷たい。それなのに、右手首の内側だけがまだ熱かった。
歩きながら、左手の指でそっとそこを覆う。さっき嶺の親指が触れていた場所だった。いつもなら、ふいに距離が近くなっても、何事もなかったように元へ戻る。それがいつもの嶺だった。今も、もういつもの距離に戻っている。
なのに。胸の奥では、まだ心臓が速く動いている。
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