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はじまりの夏 series 理性か、衝動か  作者: 日蔭野泉


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2-3 倉庫

 班ごとに夕食を食べていた。嶺は夕食のカレーを班のテーブルで少しだけ食べたあと、みちるに呼ばれて行ったきりなかなか戻ってこなかった。

 片づけが始まる頃になってようやく戻ってきた嶺に、紗良は声をかけた。


「相馬くん、全然食べてないでしょう。片づけはいいよ。カレー食べて」

「後で適当にたべます」

「今、だよ」

 

 思ったより強い声が出た。嶺が少し目を丸くする。誰かに呼ばれたら、またどこかへ行ってしまう。なぜか、そんなことが一瞬頭に浮かんだ。


「……はい」


 嶺は大人しく席についた。紗良はその横で、使い終わった紙皿やカップをまとめていく。しばらくして、背後から声がした。


「……怒ってます?」

「怒ってない」

「片付け終わってからでも」

 

 紗良は手を動かしたまま答える。


「……だって、また呼ばれたら行っちゃうでしょう」

 

 言ってから、ほんの一瞬、手が止まった。言い方を間違えた気がする。それから、何事もなかったように紙コップを重ねる。


「……行ってほしくない?」


 嶺は紗良を見た。紗良は手元の紙コップを重ねたまま嶺を見て少し黙ってから言った。


「そういう意味じゃない」

「今のうちに食べたほうがいいって意味」

「そうですか」


 嶺はカレーを食べながら、少しだけ笑った。


「何?」

「別に」


 紗良は眉を寄せて、また片づけに戻る。


「食べ終わるまで、ここにいます」


 紗良の手がまた少し止まった。


「……呼ばれたら行ったらいいよ」

「はい」


 嶺はそれ以上何も言わず、カレーに視線を戻した。紗良もまた手を動かす。さっきまでほとんど手をつけていなかったカレーは、いつの間にか半分ほど減っていた。それを見て、少し安心する。紗良は空になった鍋の蓋を重ねながら、ふと思った。


 さっき、どうしてあんな言い方をしたんだろう。忙しいのは当たり前だ。誰かに呼ばれれば動くし、班にも不在がちになる。それは最初から分かっていたことなのに。


「先輩」

「なに?」

「それ、右手使ってます」

 

 言われて、紗良ははっとする。鍋の蓋を支えていた右手を離した。横を見る。嶺はまた、少しだけ笑っている。


「……ほんとに監視してる」

「するって言ったでしょ」


  紗良もつられて笑った。胸の奥に残っていた小さな重さが、少しだけほどけた。



       ◇


 食事の片づけの途中、朝から貼っていた絆創膏がまた浮いた。嶺は忙しそうに動き回っていた。


 近くにいた朝倉が気づいて救急箱を持ってきてくれ、そのまま貼り替えてくれた。妹の手当をよくするらしく、意外なほど手際がいい。

 紗良が「上手だね」と言うと、朝倉は嬉しそうに笑った。


 紗良は使い終えた調理器具を抱え、小さな倉庫へ入った。倉庫の中は狭く、木製の棚と折り畳まれた道具が左右へ並んでいる。

 

 外の焚き火の明かりは届かず、入口近くに置かれた小さな照明だけが、床と棚の下を淡く照らしていた。器具を所定の棚へ戻し、外へ出ようと振り返る。


 入口に嶺が立っていた。手には鍋を抱えている。


「おつかれさま。沢山あるね。手伝う」

「ありがとうございます」


 嶺は倉庫へ入り、後ろ手に扉を閉めた。外から聞こえていた笑い声や食器の音が、急に遠くなる。二人で鍋と調理器具を棚へ収める。

 狭いせいで、嶺が腕を伸ばすたびに身体が近くなる。肩が触れるほどではない。ただ、すぐ横を通るたびに、昼間よりずっと存在が大きく感じられた。


 片づけを終え、紗良が入口へ向かおうとしたところで。嶺に右手首をつかまれた。強い力ではなかった。振りほどこうと思えば、簡単にできる。それなのに足が止まった。


「……相馬くん?」

 

 嶺は答えず、紗良の右手をゆっくりと持ち上げた。貼り替えられた絆創膏へ目を落としている。手首を包む指が温かい。親指の位置が、ちょうど脈のあたりに重なっていた。そこだけ、自分の心臓の速さまで知られてしまいそうな気がした。


「絆創膏?」

「……はい」

 

 返事が遅い。嶺の親指が、絆創膏の端をゆっくり押さえた。朝倉がきれいに貼ったところを、確かめるようになぞる。その動きに合わせて皮膚がわずかに引かれた。


「何度も相馬くんに頼むのも悪いと思って。たまたま近くにいた朝倉くんが貼ってくれたの」

「そうですか」


 それでも、手は離れない。紗良は嶺の顔を見上げた。照明が低いせいで、表情の半分は影になっている。伏せた睫毛と、その下の視線だけが、自分の手に向けられていた。

「朝倉くん、上手だったよ。妹さんの手当をよくしてるって」


 嶺の指が止まった。ほんのわずかに、手首を包む力が強くなる。その変化を、紗良の身体は妙にはっきり拾った。


「見てました」

 低い声だった。

「そうなの?」

「見えたので」


 紗良は返事に迷った。何を気にしているのか、よく分からない。ただ、いつものように笑って流す気にはならなかった。


「何か、言いたい?」

 そこで嶺が顔を上げた。目が合う。狭い倉庫の中で、思っていたより近くにいた。紗良は反射的に僅かに下がった。背中が棚の縁へ触れる。


 硬い感触に、それ以上は下がれないと分かった。


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