契約
その日、家に帰ると、泣きはらした様子のニナを見て、爺ちゃんと婆ちゃんが抱きしめてくれた。
婆ちゃんの温かい腕の中に抱かれている間だけ、ニナは安堵できた。
だが、トーチャを見捨てたという事実は、何をしていても付きまとい、そのたびにニナの胸はひどく痛んだ。
その夜、トーチャが帰ってこないと村は大騒ぎになった。
ニナも事情を聞かれたが、本当のことは言えず、小屋の辺りで別れたとだけ伝えた。
顔を覆って泣くトーチャの母親に、ニナは真実を伝えたかった。
でも、怖かった。自分が逃げたことを、責められる気がして。だから、せめて扉について伝えたかった。でも、それもできなかった。
あの後、後悔に苛まれたニナは、もう一度扉を開いた。しかし、そこに草原は広がっておらず、ただ小屋が続いているだけだった。
何度繰り返しても、あの世界にはつながらなかったのだ。
その晩、ニナは悪夢を見た。
地面に倒れたトーチャが、ニナに助けを求めている夢だ。
今度こそ、彼を助けようとするが、彼のそばにシロウと呼ばれた黒髪の騎士が現れ、体がすくんでしまう。
それでも、彼に一歩ずつ進み、あと少しというところでトーチャは花びらに変わり、飛び散ってしまう。
「お前が、何故彼を助けられないか、教えてやろうか」
背後から、声がする。振り向くと、そこにはトーチャより少しだけ大きい男の子が立っていた。
黒い髪に、見つめれば吸い込まれてしまいそうな、漆黒の瞳。
見た目のわりに、妙に大人びた少年は、薄ら笑いを浮かべ、ニナを見下ろしている。
「どうして?」
「お前が、弱いからさ。この世界は、弱いものは淘汰される」
男の子の話す言葉は難しいのに、ニナは何故か、彼が何を言っているのか理解できた。
「でも、強くなんか……なれないよ」
ニナは自分の手のひらを、じっと見つめ、呟く。
体の大きさも、力も、自分には到底叶わない。それは、一番ニナ自身がわかっていた。
そんなニナを、男の子は嘲るように笑った。
「確かに。お前が、あの騎士から武力で少年を取り戻すのは無理だ」
ニナは、「じゃあ、どうしたらトーチャを助けられるの」と呟く。
そんなニナの顔を、横から覗き込むようにして少年は言った。
「別にお前が強くある必要はない。武力のある者を味方に引き入れればいいだけだ。あの傲慢な女王だって、あの女自体が強いわけではない」
「ニナは、お姫様じゃないし……仲間になってくれる人なんて」
「お前に、強い力があればいいだけだ。蛾が灯りに引き寄せられるように、強い力は人を引き寄せる」
「強い力……」
瞬きするニナに、男の子は手を差し出す。
「さぁ、ニナ。君はどんな力が欲しい?」
力と聞いて、ニナが最初に思い浮かべたのはシロウと呼ばれていた騎士だった。
常人では持つことすら難しい重厚感のあるランスを、いとも簡単に操る圧倒的な力。そして、すぐにトーチャの姿が脳裏に浮かび、思わず両手で自分の腕をぎゅっと掴む。
「ニナは……痛いの、嫌」
そうして、自然と言葉が零れた。
「トーチャの、ケガ治してあげたい」
少年はそんなニナをじとっと見つめ、微笑んだ。
「じゃあ、再生の力はどうだ?」
「再生?」
「そう、万物を再生する力だ。人でも、物でも、あらゆる物をね」
「それで、トーチャを治せる?」
「もちろん。それを使って、トーチャを助けてくれる仲間を見つけるといい」
ニナに、そんなことが出来るんだろうか。
実感も、自信も沸かない。
そう思いながらも、トーチャを助けられなければ、ずっとこの心臓をぎゅっと握られるような痛みから、逃れられる気がしなかった。
少年は、再度手を差し出し、ニナに問う。
「ニナ、君はどんな力を望む」
ニナは、洋服の胸元を強く握り、少年の目を真っ直ぐ見て、言う。
「ニナは、トーチャを助けるために、再生の力が欲しい」
ニナの表情を見て、少年は口角を上げる。
「契約成立だ」
男の子は満足げに微笑む。その様子に、ニナは疑問を投げかける。
「どうして、力を貸してくれるの?」
「退屈だからだ」
「それだけ?」
「ああ。僕はこの世界が出来た時から、ずぅっと生きているんだ。途方もない時間を、これからも。退屈しのぎでもなければ、やっていられないのさ」
男の子はにぃっと笑う。
「ただし、お前に授ける力は強力だ。タイミングを見計らってつかうんだな。そうでないと」
少年は、ニナをまっすぐに見つめる。彼の瞳には、少し緊張した表情のニナが映っている。
「トーチャを救えなくなる」
その声が頭に響く。
瞼を開くと、朝になっていた。
ニナの手の甲には、木を縁取った模様が浮かび上がっていた。根から幹が、枝が伸びその先には葉が生い茂る紋章。
彼女はそれをじっと見つめ、あれはただの夢ではなかったのかと、思った。




