名も無き世界・8
―ジーグからの提案で、メアリを前面に押し立てての交渉が企画された
―まずは顔見せ程度の予定だったんだが……
鋭利に研ぎ澄ませた意識に、そっと何かが触れたのが分かった。
皮膚の上を羽虫が這いずるような、くすぐったく、粟立つような感覚に、背筋に震えが走る。
耐え切れなくなって両眼を開くと、視界いっぱいに紋様だらけの男の顔が広がっていた。父親の、コンフュシャスだ。難しい表情をしながら、こちらを見据えている。
「お前も感じたか、レイン?」
師でもある人物からの問いに、レインは明瞭な声で「はい」と答えた。大きく頷きながら、自分の細い肩をそっと抱き寄せる。
森人としての高みに到達した者だけが可能とする業。己の五感をこの聖なる森の全域に広げ、木々のざわめきや草の葉のこすれ合いまでもを知覚するという、高度な手段なのだが、ここまで気分の悪いものだとは思わなかった。
―でも、まあ、初めてにしては悪くない結果だったわ
柔肌に爪を立てながら、森人の娘、レインはそう自己評価をする。
今日でようやく10年を数える、いと高き森人へと至るための日課の瞑想。里の中心部に建つ社で行われる修行において、今回はようやく高度な実践活動に挑むことを許されたのだが、その際に何かを感じ取ったのだ。
地を駆ける獣たちでもない。
木々を飛び交う鳥たちでもない。
ましてや、同族でもない。
はっきりと理解できたのは、その何かが森にとっての異物であるということくらいだった。だがそれでも、その正体についてのおおよその予想はつくというもの。
「近くの町に住む、無能人どもでしょうか。木こりとか、狩人とか」
父や里の大人たちから教わった知識を総動員し、レインは所見を述べた。未だに里から出たことが無いレインだったが、この森のすぐ外に、無能人らが住まう町があることは知っている。そして不埒な者どもが、時折この聖域に踏み込んでは、財産を奪っていくということも。今回も、その一例であると考えたのだ。
しかし父は、「いいや」と首を振る。
「それにしては、妙な臭いがするな。我ら森人とは明らかに違うが、ただの無能人とも思えん。なんというか……そう、異質なのだ」
やや歯切れ悪く答えながら、父は鼻をヒクつかせた。
実際に匂いを嗅いでいる訳では無い。部族でも一等の修験者であるコンフュシャスは、すでに半ばこの森と同化しかかっている。故に離れた地の出来事であっても、この森の中で起こったことであるならば、まるでその場にいるように感じ取ることができるのだ。
その父が“妙”だの“異質”だのと称するのならば、無能人どもがまたぞろ密猟をしにやってきたという単純な話ではないのだろう。何か大きな事件の、前触れなのかもしれない。
幼くも聡明なレインは、即座にそのように思慮すると、表情を硬くした。
そんな娘の様子を眺めながら、コンフュシャスが頬に描かれた紋様の1つを撫でる。
「さて、この招かれざる者ども。数は何人だったかな?」
「3……いえ、4人……かな……?」
レインが先ほどの感触を思い起こしながら、やや自信なさげに答えた。すると父は、苦笑しながら頷く。
「まあ、及第点だろう。里の若者の中では、やはりお前が最も優秀だな」
「ありがとうございます!」
厳格な男からの珍しい賞賛に、レインは思わず顔をほころばせた。
何しろ初めての体験だった上にややこしかったものだから、どうにも確信がもてなかったのだが、正解だったようだ。
イタチよりも大きくトラよりも小さな存在が3つ、この森に踏み入ってきたということは、レインに何とか感じることができた。しかしその内の1つに、何か得体の知れないものが重なっているように思えたのだ。父の言う妙な臭いとは、つまりこれを指しているのだろう。
「人間は3人。だがその中に、実体をもたぬ者が紛れ込んでいる。憑き物の類だろうな」
「憑き物……では、幽霊、というやつらでしょうか?」
レインが逆に聞き返すと、父は少し不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「いいや、違う。そんな薄弱としたものではなく、強い意志をもっているな。恐らくは、その憑いた人間を操っておるのだ」
「そういうものなのですか?」
「そういうものだ。悪しき気配はないが……噂に聞く、天使という存在かもしれぬ。いずれにしても、厄介なことだ」
侵入者らの意志の強弱などについては、まったく感じることができていなかったのだが、それ以上に父の分析は聞き捨てならないものだった。
「天使……。たしか神話にある、原初大戦で降臨したという尖兵たち……」
レインは社の天井を見上げながら、どうにか頭の中から情報を引っ張り出す。
天使とは、この世界を創造した名も無き神の御使いだ。強壮ではあるにしても実体をもたず、それ故にこの地上に降り立つ際には、何らかの手段で物質的な肉体を用立てる必要がある。そのための手段としての憑依なのだろうが、さてそうなると、そんなお偉い方がこの森に何の御用だというのか。実に厄介な話である。
レインがうんうん唸っていると、その疑問を見透かしたように父が言った。
「うむ。天の御使いである彼の者らが動くとすれば、それなりの理由があるに違いない。それこそ、再び邪神が攻めてくるとかな」
「じゃ、邪神がですか!? では、この世界が滅びの危機に……」
「落ち着きなさい、レイン。そのような兆候があれば、私や他の術氏たちが気付かぬ筈がない。全体、侵入者が本当に天使であるかも、まだ分からんではないか」
顔と同じく紋様だらけの両腕を組みながら、父が諭すような口調で言った。考えてみれば、その通りである。森に踏み入った者どもの正体は未だ判明しておらず、その目的も分からない。そんな状態で邪神が到来するなど、論理が飛躍し過ぎだ。まったく縁起でもない。
―でもそれなら、わざわざおっかないことを言わなくてもいいのに……
まるで恐怖物語で脅し着けられたような気分になったレインは、年相応に不貞腐れ、口をとがらせる。
するとそれを見た父親は、ばつが悪そうにレインから眼を逸らた。
「あー……とにかく、こうしては居られぬ。私は戦士たちを集め、出向かねばならない」
言いながら座禅を解いて立ち上がると、父は社の入口に向かって歩き出した。
それを見たレインも、後を追おうと慌てて立ち上がる。
「父上、私も……」
「ならん。お前はこの場に留まり、瞑想を続けよ」
入口に掛けられた幕に手を伸ばしながら、今度はきっぱりと父が言う。
「恐らく、無能人どもであることには違いあるまい。わざわざ見る必要などない連中だ」
「しかし父上は、『高みに至るには多くを知らねばならない』と、常日頃からおっしゃられているではありませんか。私たち森人と同じように、無能人も1人1人が違うものでしょう」
「そうかもしれぬが……しかし此度の事態については、お前にはその終始が理解できぬよ。いい子だから、ここを動くな」
妙に断定的な物言いだった。明らかに、レインについてきて欲しくないといった態度である。
駄々っ子を諭すような―実際、レインはまだまだ幼子ではあるが―その優し気な口調がかえって癇に障り、レインは激昂した。
「そんなの! 私が物事を判断できないと、そうおっしゃられるのですか!?」
「いかにも左様。たった100歳のお前に、何の判断がつくというのか」
「判断くらいできます。父上はご存知ないでしょうが、私はさる御方からの教授を受けて……」
「それは、森のはずれに住まう“怪しげな女”のことを言っているのか?」
うっ、とレインは言葉に詰まった。一気に気勢をそがれ、追い立てられた鼠のように背筋を丸めてしまう。
それとは反対に、父は憤りも露に肩を怒らせ、語気を荒げた。
「やはりか。もう会うなと言ったであろう、あんな得体の知れない……」
「そんなことを言わないでください! あの方は、とても優しいお方なのです!」
「分かるものか。我らの“父祖の代”にて恩義のある人物だと言うが、それだけで信用ならぬというものであろう」
「それは……」
父の指摘に、レインは言い返すことが出来なかった。
レインが懇意にしている女性は、確かに優秀な人物だ。魔法師としての卓越した素養もそうだが、蓄積された知識や経験の量も凄まじい。この森の外のあらゆること。世界の理。遥か神代の逸話から、未来への展望に至るまで、聞けば何でも答えてくれる。賢者とは、正に彼女のことを言うのであろう。
だが、確かに不可思議ではある。
レインと彼女が出会ったのは、つい50年前のことだ。だが彼女はそれよりもずっと昔から、それこそ父が言うように、父祖の代からこの森のはずれに住んでいるという。
あり得ないことだ。絶対に、あり得ないことだ。
何故なら無能人という種族は、レインら森人とは異なり、100年もしない内にその命を散らす筈なのだから。
「……とにかく、お前はここで瞑想を続けよ。これは長としての命令である。あの女とのことは……帰ってから、じっくり話すとしよう」
コンフュシャスは、そう一方的に言い放った。そして、俯き加減で悔しそうに顔を歪めるレインを一瞥すると、返事も聞かずに社を跳び出して行く。
その後ろ姿をじっと見つめていたレインだったが、やおら顔を上げた。その表情には、なんとも悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「拝命いたしました、父上」
それから間を置かず、辺りに号令が飛び交いだした。コンフュシャスの呼び掛けにより、森人の戦士階級の者たちが集合しているのだ。
社の中で1人、レインはその様子に耳をそばだてていた。やがて父親を始めとする大人たちの気配が遠ざかっていくのを確認すると、入口の幕を引っ掴み、顔を覗かせる。
「……よし、誰もいない!」
父親の知覚範囲から完全に外れたことを確認し、レインはほくそ笑んだ。そして注意深く周囲に目配せをしながら外へと跳び出すと、最初に感じた来訪者たちの位置を目指し、一目散に駆けだしていく。
「いつまで瞑想を続けるのかまでは、言われてないもんね!」
長の娘の名に恥じないその才能よりも、里で一番のお転婆さで知られるレインである。厳格な父から命じられた程度で曲がってしまうような軟な意志など、最初からもち合わせてはいないのだ。
大木に取り付くと、瞬く間に幹を登り、枝から枝へと跳躍する。
何かと子ども扱いされるレインだが、森人であることには変わりない。森の中であれば、父を始めとする戦士らと同じように、木々の間を縦横無尽に移動することが可能だ。
そうして10分も経たず、レインは目的地の近くへと到着した。充分に距離を取りつつ、背の高い大木の天辺に陣取り、息を殺しながら目を凝らす。
見えた。
コンフュシャスと、部下の戦士たちが数十名。手に手に槍や剣を構え、横一列に並び立っている。他にも木の上に登って、弓に矢をつがえている者たちもいた。完全に、臨戦態勢だ。町の無能人たちが迷い込んだだけなら、こうも大っぴらに攻撃的な対応はしないだろう。
では果たして、その視線の先にいるのは、一体何者なのか。
「あれが、侵入者たち?」
思わず呟いてしまい、レインは慌てて口を両手で抑えた。離れているとはいえ、聴覚に優れる森人の戦士たち、殊に父親にあっては、小声でも聞き取られてしまうかもしれないからだ。
そっと深呼吸を繰り返して、心を落ち着けるレイン。
―それにしても……
木の幹に半身を隠しながら、レインは首を傾げる。
父親たちの眼の前に立つ、異邦の者たち。その構成は、おおよそレインが予想した通りだった。
1人は丈が長く、けばけばしい白黒の服を着込んだ人物だ。女だというのに大股を開き、腰に両手をあててふんぞり返っている。森人の中でも腕利きの男達に武器を突きつけられながら、不敵な笑みを崩そうとしない。中に何かが入っているのは、どうやら彼女のようだ。
もう1人は、背の高い男だ。黄色っぽい肌に、短く刈り上げた髪。すらりとした身体に合った、やはり目立つ紺色の衣服を着込んでいる。眼つきの悪い顔で周囲を威圧しているようだが、大した力量は感じ取れない。恐らく、この場では最も弱いだろう。
いずれも無能人のようだが、問題なのは残りの1人だった。
灰色がかった長い金髪に、落ち着いた緑色のワンピース。大きな弓を支えにするようにして立ち、不安気な表情で首を振っている。チラチラと見える尖った耳は、明らかに無能人のそれよりも長い。
「まさか、森人なの……? 」
―思った以上に、相手は頑なだった
―おまけにメアリは……ああ、やっぱ無理やりにでも止めるべきだったなぁ




