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環状の世界・16


 ゲルム帝国の首都フィエル。大陸の中枢たるその大都市のそのまた中心に、頂点部分を押しつぶした四角錐の如き形状の巨大な建造物があった。

 これは大陸の統一、つまりゲルム帝国の建国から1000年間変わらず使用されている合同庁舎なのだが、これ自体が建築されたのはそれよりも以前だったと推定されている。それも、ゲルムが民族として形成されるよりも遥か昔にだ。

 

 古の時代を謳歌せし者の手による、“大いなる遺産”。

 

 “大帝の居城”の別名として、ゲルムの人々がその建物を呼称する単語である。


 そんな由緒ある建物内の広い執務室の中で、エッボ大臣は悶えていた。

 朝から供に書類仕事に明け暮れていた文官たちが、視線を注いでくるのにも構わず、枯れ木の様な腕で自らの腹を抱きしめ、懸命に耐える。度重なる心労に伴い悪化の一途を辿る、持病の胃痛。時も場所も選んでくれないその痛みの波が、この忙しいときに押し寄せてきたのだ。


「ぐぉっ、うむっ……」


 口から溢れるうめき声とともに、額の脂汗が数滴、机上へと滴り落ちていく。真下にあった羊皮紙がふやけ、インクが滲んでいくのが見えた。例の聖域を穢した不届き者たちに関する重要な書類なのだが、その下にある執務机が汚れなかったことの方が幸いだ。何せこの机は、古の者の遺産の1つなのだ。

 元は“大いなる遺産”の中に、この机と同種の品が100台以上は存在していた。しかし1000年の間にどんどん失われていき、今ではこの1台を残すのみ。大臣としての職位から賜ったが、こんな計り知れない価値の品を使うだけでも畏れ多いというのに、汚しでもしたら自刃ものである。

 かと言って、痛苦から満足に動くことができない大臣としては、そのままじっと我慢するより他にない。

 しばらくそうして震えていると、ついに文官の1人が見かねたように席を立り、そっとエッボに近寄ってきた。


「大臣殿、お加減が優れぬようですな?」


 血の気の失せた顔を向けると、その文官は躊躇いがちにハンカチを差し出してきた。エッボは「ありがとう」と短く礼を言ってそれを受け取り、額を拭う。

 その様子を眺めていた文官が、眉根を寄せて言った。


「お時間が無い事は承知しておりますが、医師に診てもらっては如何です? いや、いっそお暇を頂いては。このままでは、命に障るやもしれません」

「いや、そうはいかん。こんな状況でここを離れる訳にはな」

「しかしながら、満足に睡眠もとられていないご様子。無理をなされては、それこそいざというときに判断がつきませんよ」

「ありがとう、大丈夫、大丈夫だから。お前も早く、自分の仕事に戻りなさい」


 無理やりに作り笑いを浮かべてそう言うと、文官もそれ以上の説得を諦めたらしい。エッボから返されたハンカチを仕舞い、すごすごと自分の席へと退散して行く。

 エッボはそれを見計らうと、大急ぎで腰の巾着袋を掴み取った。そしてその中から錠剤を1粒取り出し、飲み下す。お節介な部下の1人が用立ててくれた、市販の胃薬だ。きちんと医師から処方されたものではないので効果はほとんど無いが、それでも多少は気分が和らぐ。


 エッボは椅子の背もたれに思い切り身体を預けると、大きく息をついて目頭を揉んだ。胃袋が心臓のように激しく脈打っているのを感じながら、腹を何度もさする。

 彼とて、この治まることを知らない胃痛を理由に、大帝に暇乞いをしたいのはやまやまなのだ。しかし現状は、それを許してくれない。あの謎の城の出現を皮切りに、帝国は危機に見舞われているからだ。


 ようとして知れない実働部隊の消息。

 大陸内部で観測される、小規模な空間レーダーへの反応。

 フィエルでの不審人物の目撃情報。


 間を置かずに連続して起こった出来事である以上、全てに関連性があると考えるべきだった。

 つまり、もはや聖域の森を穢された、どころの騒ぎではなくなっている。その件の主犯たる不遜な者どもが、すでにこのフィエルに浸透してきている恐れがあるのだ。だというのに、こちらはその正体をまるでつかめていない。

 一方的に喉元にナイフを突きつけられているようなものである。


 そんな状況で責任ある立場のエッボが仕事を放り出す訳にもいかず、従って増していく心身への負担は更なる胃痛となって具現化していくばかり。

 果たしてその不遜な者どもが事を起こすのが先か、エッボの腑に穴が穿たれるのが先か。


―どちらにせよ、私の命はもう長くなさそうだな


 自嘲気味に笑いながら、エッボは居住まいを正した。

 文官たちが心配してくれている通り、エッボの肉体は限界が近い。それに耐えることができているのは、精神力の賜物、という以外に表現できないだろう。

 しかし、彼の精神力が他人のそれに比して強靭であるということでは、決してない。

 ここ最近、何故か身体の奥底から湧き上がってくる、得体の知れないポジティブな情動のおかげだった。


 初めての給金で、フィエル最高の料理を食したときの満足感とは違う。

 若い頃に女房と猿のように盛った際の、興奮とも異なっている。 

 強いて近い例を挙げるとすれば、子どもの頃に誕生日を指折り数えていたときの、あの感情だろうか。


 ともかくそのおかげで、エッボは入院一歩手前の状態で踏ん張ることができている。しかし自分自身でも理解ができないそれは、当然原因についても自覚することができない。


 不思議に思って部下たちに相談してみると、どうやら彼らも似たような現象を自覚しているらしい。しかも、彼らの近しい人間たちもそうなのだとか。ひょっとすると、フィエルの人々のすべてが。あるいは、帝国中の民がそうなのかもしれない。


「まるで皆が皆、心待ちにしているかのようだ。何か素晴らしいものの到来を……」


 そう呟いたエッボは、はたと顔を上げた。

 あるいは例の不遜な者たちが、予測通りに“古の者”に連なる存在なのだろうか。その来訪を無意識のうちに感じ取った結果として、大陸の人間が喜悦を覚えているのだとしたら……?


 そんな奇抜に過ぎる考えが脳内をよぎる中、耳元に慌ただしい足音が響いてきた。廊下からだ。

 エッボと文官たちがそろってそちらの方を向くと、折よく部屋の扉が開かれる。


「エッボ大臣、緊急事態です!」


 飛び込んできたのは、まだ若い兵だった。全力疾走してきたのか激しく息を切らせ、「緊急事態です」と繰り返し言う。

 かなり慌てているようだ。取っ手に手をかけたままの姿勢で硬直し、こちらを凝視している。

 酷い耳鳴りに襲われたエッボは、しかめっ面を隠そうともせずに応じた。


「……何事かね? 落ち着いて、明確に、簡潔に述べなさい」


 するとその兵は、ギクシャクとした動作で直立不動の姿勢になった。そして二・三度息を吐き、呼吸を整える。執務室内の一同がまんじりともせずにその様子を眺める中、ようやく落ち着いたのか、その若い兵は述べた。


「聖域の森へと出立していた部隊が、つい今しがた帰還しました! 全員無事です!」

「…何だと!?」


 明確で簡潔なその報告に、エッボは胃の痛みも忘れて椅子から立ち上がった。

  聖域を侵した不届き者を誅せんと、あるいはその正体を確かめんと派遣した精鋭たち。とっくに返り討ちに遭って全滅したと考え、その現状を探る為に第二陣を編成している最中だったのだが。よもや、全員そろって帰還してくるとは。


 しかし希望の光を眼に灯した大臣に対し、伝令の兵は申し訳なさそうな表情になる。

 

「ですが少々。いえ、大きな問題も不随しておりまして……」

「なんだね。問題とは、どのような? は、早く言いたまえ!」


 途端に嫌な予感を覚えるエッボ。腹の奥がシクシクと痛みだすのに懸命に耐えながら、先を促す。きっと聞きたくない内容に違いないが、しかし聞かぬわけにはいかない。

 ああ、我が胃袋よ。どうか今少しばかりもってくれ……


 悲壮感漂うエッボの表情に気圧されたのか、若い兵は少したじろいだ様子だった。しかし大帝の居城に務める者ともなれば、その職責を忘れることなどあり得ない。きりりと前を見つめると、はっきりと言い放つ。

 

「彼らは、自力で帰還した訳ではありません。怪しげな者どもが伴ってきたのです。さらに度し難いことにその連中は、大帝との謁見を望んでおります」


 エッボは机に突っ伏した。













「今更言うのもなんですがねぇ」


 湧き出る汗を拭うこともせず、ナインがぼそぼそと呟いた。


「絶対にうまくいきませんよ、これは」


 するとナインの前に立つタムが、振り返ることなく答える。


「例えそうだとしても、ノーリ様直々の命です。私はメイドとして、それに従うまでです」

「……あのお嬢さんもどうかしてると思ってたけど、姐さんもかなりぶっ飛んでますね」

「そんなことを言いながらも、心配して付いてきてくださったんです。やっぱりナインは、優しい殿方ですね」

「そりゃどうも」


 投げやりに言いながら、ナインは改めて周囲を見回した。

 今、ナインとタムは、数十人を超える怒りの形相の兵士たちに取り囲まれている。手に手に構えられた槍、その切っ先を喉元に突き付けられて。


「貴様ら動くなよ! 少しでも動けば、容赦はしない!」


 隊長格と思しき兵士の1人が、鋭く叫ぶ。深い皺と傷に塗れた壮年の顔には、一片の油断も恐怖も見えない。わずかでも不審がられるような行動をとれば、瞬く間に彼の宣言通りに、串刺しの眼にあうことだろう。 

 完全に、“詰み”の状態と言っていいだろう。


―土台、無茶だったんだよなぁ……


 ナインは、ノコノコとこんなところにまで来てしまった自分自身を呪った。


『襲撃者たちの身柄を、直接返す』


 それを聞いた当初、ナインは成程と勝手に得心していた。スラムでギャングたちがよくやっていた、人質交渉。それと同質のものだと解釈したのだ。


 こちらが捉えた人員を解放する代償として、帝国に何かしらの要求を飲ませる。


 危険ではあるが、あながち悪いばかりではない考えだった。


 まず重要なのは、帝国との間にパイプを作れるということだ。このままダラダラと緊張状態を維持し続けては、二度目の衝突が起こることは自明だが、交渉の場をもつことができればそれを回避できる。

 さらにこちらには、一方的に襲撃を受けたことと、その襲撃者たちを無傷で返還するという、大きな2つの貸しがある。それらのアドバンテージがあれば、相手側にはそれなりの条件を飲ませることが出来そうだった。


 ただしこの人質交渉というやつは、様々な問題を内包してもいる。

 まず前提条件として、相手が交渉のテーブルについてくれなければ始まらない。突っぱねられればそこまで。おじゃんだ。

 そして、ゲルム帝国がアラインをどのように評価しているかというのも重要だ。一大陸を丸ごと統治する国家ともなれば、その統治者や為政者の自己評価や自尊心は相当なものだろう。突然現れた得体の知れない小集団を相手に、へりくだって下さるとは考えにくい。


 ハイリスク・ハイリターン。わずかな読み違いが失敗を招き、それが即武力衝突に発展する。


 危険極まり無いが、しかし初接触ファースト・コンタクトで実力は見せつけたのだ。おいそれと団を侮ることはないだろう。

 

 

 




 しかし。


 発言者たるノーリの真意は、そんなナインの予測の遥か斜めを行く、真っすぐで、そしてそれ故に度し難いものだった。

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