第二十章 『お空の道』(1932年 6月)
雨だった。
六月の雨は細かく、重く、「白梅館」の屋根を休みなく叩いていた。
時子は廊下に座り、ひざを抱えてその音を聞いていた。
奥の書斎からは、静かに紙をめくる音。
満州の惨劇をすべて「事金」として処理し終えたこの家は、ひどく静かだった。
溢れた兵隊は大阪の阪急技術専門学校へと流れ、軍服を脱いで技術者の服に着替えつつある。
静かすぎて、自分の息の音だけが浮いていた。
コンコン、と玄関の格子戸が鳴った。
冷たい風とともに、濡れた外套と、ゴムと硫黄の混ざった強い臭いが滑り込んでくる。
「お邪魔しとります」
太い声だった。
帽子を脱いだ男の指先は、爪の間に筑波の黒い赤土がびっしりと詰まっていた。
空を睨みすぎて落ち窪んだ眼窩の奥で、異様な光が濡れている。
男は時子を見つけると、ギィと床を鳴らして膝を折った。
湿ったウールから、雨の匂いが立つ。
「君が、時子さんね。
……わしは大石和三郎。
長か名まえやけん、“わさじい”でよか」
風のように抜ける、柔らかい佐賀弁だった。
時子は少し迷って、下唇を尖らせた。
「……わさ、じぃ?」
「うん、よか」
大石は無骨な手で内ポケットを探り、緑色のフェルト生地のきれ端を取り出した。
観測気球の光度計に使う、深い緑の星型レンズ拭きだ。
「ほれ」
「これ、なに」
「星たい。
……落としたら、風に拐われるばい」
時子は両手でそれを受け取った。ゴムと酸気の混ざった、じわりと温かい匂いがした。
障子が開く。
第四師団参謀、石原莞爾が立っていた。
「……大石先生」
「相変わらず、尖った顔しとりますな」
「子守ですか」
「似合わんですか?」
「ええ」
即答する石原に、大石はガハハと喉を鳴らして笑った。
だが、その目は一切笑っていない。
「そがん尖っとると、足元の泥しか見えなくなりますばい」
雨が上がったのは、夕刻が近くなってからだった。
泥除けのスパッツを外しながら、小林一三が客間へ現れた。
小林は大広間の畳の上へ、「日本海」と「黄海」が描かれた白地図を豪快に広げた。
「大石先生、筑波の山から呼び出して堪忍です。
ですが大連へ飛ばす『白鶴』を無事故で回すには、先生の気象データがどうしても要るんですわ」
小林の太い指先が、天保山と大連を結ぶ赤い線をバンと叩いた。
「遊覧機やない。
本番の定期航路や。
一機でも海に落ちたら、阪急の信用はゼロになる」
「濃霧と低気圧のデータです」
石原が冷徹な眼を地図に落としたまま引き継ぐ。
「視界ゼロの海上で嵐を迂回し、住友の電波標識へ誘導する。
先生の弾き出す気圧配置図がなければ、白鶴は飛べない」
大石は二人の顔を交互に見つめ、鼻でフンと笑った。
爪の間の赤土をガリガリと削り落とす。
「小林さん、石原さん。
あんたらが威張って語る『空』は、たかだか数百メートルの泥風たい。
商人の金儲けや、兵隊の理屈で測れるほど、大気は安かない」
「落ちない空の道を敷かねば、兵站になりません」
石原の澄んだ瞳が、静かに光る。
大石は黙って石原を見つめ返した。
大石の手が、胸のポケットへ伸びた。
そこには、筑波の高度一万メートルへ上げたゴム気球が弾き出した、恐ろしい数字が眠っている。時速二百キロを超える、猛烈な西風の帯――「ジェット気流」。
大石はポケットの手帳を、さらに深く、奥底へねじ込んだ。
(この怪物どもに、この風を教えてなるものか……)
大石は分厚い口唇を歪め、冷たい笑いを浮かべた。
「……まあよか。
墜ちる命ば救うためなら、わしの風の地図、その浅い回廊とやらに貸してやってもよか」
大石は懐からもう一枚の緑のフェルトを放り投げ、地図の上へ落とした。
夜。
雨の上がった庭の縁側に、大石がどっかりと腰を下ろした。
洗われた夜空に、数え切れない光の粒がまたたいている。
「いっぱい……」
隣に座っていた時子が、見上げたまま呟いた。
「お空には道があるったい」
大石の大きな指が、湿った夜空の闇を静かとなぞった。
爪の赤土が、星明かりに黒く浮かぶ。
「あの星たちのずっと下、上空一万メートルのてっぺんをな、川みたいにものすごか速さで流れる風の帯がある。
わしが誰にも言わんでずっと追いかけとる、とっておきの道たい」
「とっておき?」
「そうたい。
今の『はくつる』はな、低いお空を這うように飛ぶ。
ばってん、いつか人間が風の入らん部屋を作って、あのてっぺんまで登れるようになったら……
あの風の川に乗って、アジアも、西洋も、ひとっ飛びたい」
「どこでも、いけるん?」
「行ける。……必ずな」
大石の落ち窪んだ目が、筑波の漆黒の空を思い描くように静かに輝いた。
時子はしばらく、線も壁もない、どこまでも透明な黒い空を見つめていた。
両手の中の緑のフェルトを、ぎゅっと握りしめる。
「……すっご」
時子の手の中で、観測気球の古いゴムの匂いが、じっとりと温かかった。




