第二十一章『星とトコロテン』(1932年 6月)
六月の朝の光は硬く、障子を透かすと輪郭を曖昧にする。
「今日は静かにしておくのよ」
テイ子が時子の短い髪を梳きながら、低い声で言った。
「お父様のお仕事とは違う、難しいお話の集まりですからね。
無理を言わないように」
「……ん」
時子は小さく頷いた。
手の中には、昨夜大石和三郎から貰った緑の布切れがある。
観測気球のレンズ拭きから切り出された、小さな五角の星だ。
石原莞爾の軍帽にある金色の星とは違う。
けれど、角の数は同じだった。
時子はそれを親指の腹でじっと擦りながら、テイ子の膝の間でおとなしくしていた。
阪急電車は、梅雨特有のねっとりとした湿気を孕んで走る。
大石の大きな手に引かれ、大阪市内の小さな講堂の門をくぐったのは、正午を過ぎた頃だった。
堂内は床油の匂いと、濡れた服の埃っぽさが混ざり合い、重く淀んでいる。
出入口の暗がりでは、黒い蝙蝠傘を抱えた私服憲兵が二人、客の顔をじっと検分していた。
壇上では、白い麻服の男が、滑らかな無機質さで奇妙な音節を響かせていた。
「……ミ・アマス・ライ・パトローノン……」
聞いたこともない音だった。
だが、時子は不思議な心地よさでそれを見ていた。
男がひとつの節を終えると、客席の大人たちが一斉に、寸分の狂いもなく同じタイミングで頷き、笑う。
(……おんなじや)
知らない大人たちが、みんな同じ音を口にし、同じところで顔を綻ばせる。
壁には、手の中にあるのと同じ緑の星の旗が下がっていた。
「……へんやった」
帰り道、大石の袂を引っ張りながら時子が言った。
梅雨の晴れ間の西日が、路面電車の濡れた線路にぎらぎらと反射している。
「へん?
どがん思うた?」
「しらん人らやのに、みんなおんなじお顔して、わらう。
……きちんとしてた」
大石は麦わら帽子を少し上げて、苦笑した。
「あれはな、世界中の人間が同じ言葉ば話せるようにって、偉い先生が作った言葉たい。
言葉が一つになれば、喧嘩も戦争もなくなる。
みんなが仲間になれるってな」
時子はよく分からず、「ふうん」とだけ言って、道端の瀬戸物屋の犬を眺めた。
戦争と言われてもピンとこない。
ただ、あの講堂の中の、全員が隙間なく「揃って」いる空気の感触だけが、皮膚に残っていた。
湿気で肌がじっとりと濡れる。
大石は時子の小さな手を引き、路地裏の薄暗い甘味処の暖簾をくぐった。
店内はひんやりと冷え、削り氷のシャリシャリという音が響いている。
「トコロテン、食うか?」
その瞬間、時子の黒い瞳がカッと見開かれた。
真っ赤なホッペを膨らませ、椅子の上で身を乗り出す。
「ちゅるちゅる!
くろみつ!
たべる!」
主人が硝子の器を並べ、白く冷えた寒天の塊を取り出した。
真鍮の網目がついた木枠――「天突き」へはめ込む。
ぐっと、主人の太い腕が棒を押し込んだ。
――ちゅるり。
涼しい音を立て、頑固な四角い塊が一瞬で寸分たがわぬ細い線になり、器へと滑り落ちる。
時子は息を呑み、天突きの真鍮刃を食い入るように見つめた。
とろりとした濃い黒蜜が、透明な線の上にたっぷりと回しかけられる。
甘く香ばしい匂いが鼻腔を刺した。
時子は竹箸を握りしめ、透明な線を引っかけると、一気に口へ滑り込ませた。
ちゅるっ、ちゅるるっ!
冷たさと濃厚な甘みが喉を駆け下りる。
無心で箸を動かすたび、口のまわりが黒く汚れ、頬に蜜が跳ねた。狂ったように器の底を突く。
「お転婆さん、口のまわりが泥棒みたいになっとるばい」
大石が手拭いで口元を拭こうとすると、時子は「いたぁい」と下唇を尖らせて嫌がりながら、それでも天突きの真鍮刃を盥の水で洗う店主の手元から目を離さなかった。
真鍮の網目が、水底で鈍く冷たく光っている。
「わさじい」
時子は黒蜜で真っ黒になった唇のまま、ぽつりと言った。
「あの箱、すごいな」
「箱? 天突きのことか」
「ん。
……どんなトコロテンも、あの箱に入れたら、みんなおんなじ形になる。
……お揃いになるな」
時子は手拭いをすり抜け、黒蜜で濡れた竹箸を天突きに向けた。
「さっきの、緑の星の人たちも、あの箱に入ったみたいやった。
……みんな、あの箱に入れたらええのに」
大石の手が、ピタリと止まった。
「お揃いになったら、崩れへん。
……バラバラにならへん」
時子は肩を小さく揺らし、残ったトコロテンをちゅるりとすすった。
大石は答えなかった。
店主が盥の中で天突きを洗う、ジャバッという水の音だけが重く響く。
真鍮の格子刃が、黒い水底で鈍く光っていた。
大石の指先が、膝の上でかすかに震えた。
「……お揃い、か」
時子はもう聞いていなかった。
竹箸を器の底へ突っ込む。 黒蜜の中から、透明なトコロテンが一本、するりと持ち上がった。
「ちゅるっ」
時子は嬉しそうに、それをすすった。




