第十九章 『油虫』(1931年 9月)
石造りの階段を一段下りるごとに、上の階の匂いが消えた。
頭上からは、山下奉文の胸板を鳴らす豪快な声が落ちてくる。
「なんぞお嬢、あいすくりんが足らんがか?
おっちゃんの帽子に、ぎっちぃ詰めてこさせちゃろか」
「いやや!
おっちゃんのん、大きぃしくさいもん!」
ぐずる幼子の声と、銀のスプーンが小鉢を叩く澄んだ音。
石原莞爾の指先が、麻の背広の右ポケットの奥で、小さな紙包みをひとつ転がした。
上層で時子に買い与えたドロップの残りだった。
その指先を静かに離すと、石原はヤマトホテル地下バーの重いマホガニー扉を押し開けた。
鼻腔を突いたのは、冷えた安ウイスキーの酸味、湿った煙草、そして――皮膚の毛孔にまとわりつく重油の粘りついた匂いだった。
大連港を濡らす秋風とは違う。この地下室には、銭と油の血を流す男たちの息遣いが充満している。
「……持ち帰って、技師長に見せろ」
カウンター奥の暗がり。
低い声だった。
出光佐三は、琥珀色の液体が溜まったグラスの縁を、黒く油の染み込んだ太い親指でなぞっていた。
爪の間にこびりついた真っ黒な鉱物油が、卓上の真鍮スタンドの光を重く跳ね返す。
対面に座る満鉄資材部の役人は、額に脂汗を滲ませ、喉仏をひくつかせていた。
佐三が卓上へ放り投げた一裁ちの紙片――『北満線・低温車軸試験成績表』の上で、役人の指先が微かに震えている。
「パラフィンだ。
マイナス三十度でカリフォルニアのドロ油がどう化けるか、その紙切れに書いてある」
「し、しかし出光さん、この期に及んでメジャーの協定価格を破れば、大連港への給油を完全に止められ……」
「止められたら俺がタライで汲んでくるばい」
佐三が視線だけを持ち上げた。その眼光に、役人の言葉が喉の奥で氷結する。
「高値のゴミ油で満鉄の車輪を抱きつかせ(焼き付かせ)、開拓民の開墾用トラックを殺すくらいなら、お前が真っ先にその車軸に首を挟まれて死ね。
……失せろ」
役人は受領書も取らず、卓上の書類を掻き集めると、逃げるように階段を駆け上がっていった。
佐三は残ったウイスキーに手を触れず、爪の中の真っ黒な油を真鍮の灰皿の縁で静かに削り落とした。
「……相変わらず、情のねえ商売だの、佐三さん」
影から落ちた乾いた庄内弁。
佐三の太い眉が、わずかに跳ねた。
安物の麻の背広を着た痩せ型の男――石原が、音もなく歩み寄ってくる。
ただ、硝子玉のような両眸だけが、暗がりの中で冷たく光っていた。
「……誰じゃ、お前は」
佐三が岩のような胸板を背もたれに預け、鋭い視線を投げつけた。
「山下さんから聞いてきただ」
石原は椅子を引きもせず、濡れた卓上に両手を突いた。
「『大連の裏ドックで、メジャーの油豚どもに一人で喧嘩を売ってる気ちがいがいる』とな。
……阪急奉天興業の石原だ」
佐三の目が細くなった。
「……小林一三の銭で、破綻寸前の張学良を買い叩いたイカサマ会社かい」
「イカサマじゃねえ。
三宅坂の能無しどもが捨てた三十万の胃袋とトラックを、大豆と油で動かす数理だ」
石原の細い指先が、ジャケットの内ポケットから一裁ちの厚紙を滑り出させた。
グラスの結露を吸って、青いインクのサインが滲む。
米国ナショナル・シティ・バンクのドル建て手形。
裏面には、小林一三の丸みを帯びた達筆な筆致が躍っていた。
「北満の冬が来る。
三宅坂を通さん、脱ろうの耐寒潤滑油が要る。
まずはドラム缶二千。
……足らん分は、その手形で小型の油槽船を買い増せ」
佐三は手形を一瞥し、鼻で低く笑った。
「一三のじいさん、えげつない紙切れを寄越しよる。
この恐慌のどさくさじゃ門司の店頭なんぞ、横浜正金の監査に引っかかって叩け(現金化でき)んわ」
「大連の正金か上海の住友で、今夜中に現生に化ける。
三宅坂の税関もメジャーの監視網も、うちが裏から圧力をかけるだ。
あんたの店員は大連港の裏ドックに船を横付けし、ドラム缶を吐き出させればいい」
佐三の手形を折る指先が、かすかに止まった。
「……それと、小林さんからの付け句だ」
石原は冷めたソーダ水に一度だけ唇をつけ、氷を静かに鳴らした。
「三宅坂で浮いた西日本――小倉の第十二、熊本の第六師団で扱いに困る退役下士官や、血の気の多すぎる若い衆が余っている。
地元の若い衆だ。
これを『栄誉転属』として、出光商会の店員枠で引き取ってほしい」
地下室の重油の匂いが、凝固するように重くなった。
「……小倉や熊本の、兵隊じゃと?」
「そうだ。
給料と遺族手当の半分は、阪急と住友の裏枠から出る。
肩書きは『出光商会大連支店・特別警備員』だ。
裏ドックでヤミ油を揚げる時、メジャーの雇ったゴロツキや港湾のガサ入れに、素手の店員を殴らせる気か?
命を張れる、身元の確かな『地元の店員』が要るべ」
佐三の眉根に深い溝が刻まれた。
大連港の暗み、波間に揺れる油膜、深夜のドラム缶の激突音。
そして、九州の貧しい農村から買われ、軍隊の歯車として使い捨てられようとしている若者たちの顔が、佐三の脳裏をかすめる。
「……勘違いするなよ、石原さん」
佐三の声から、雑味が消えた。地響きのような低音が卓上のグラスを小さく震わせる。
「小倉だろうが熊本だろうが、うちに入った以上は将校だの兵隊だのの階級は一切捨てさせる。
俺の『家族』として、店員として一から叩き直すたい。
軍隊風を吹かせる奴が一人でもいたら、俺が拳で叩きのめして大連港へ放り込む」
「好きにしろだ」
石原の硝子玉の瞳は、微動だにしない。
「三宅坂の帳簿から消えさえすれば、海に沈もうが出光の人間になろうが知ったこっちゃね。
……人間を揃えて、回す。
それが俺達の仕組みだ」
二人の間で、冷えたソーダ水の泡がひとつ静かに弾けた。
佐三は大股で石原の真向かいに腰を下ろすと、手形を二つに折りたたみ、作業服の胸ポケットへ深く突っ込んだ。
「……乗った。
今冬の耐寒油とドラム缶、大連の裏ドックへ叩き込んでやる。
九州の荒くれどもも、俺の店で徹底的に油塗れにして、一人前の男に仕立ててやるけん。
……ただし一三さんに伝えとけ。
油の値段に文句を言うなら、いつでも大連港の蛇口を締めて干殺しにしてやるとな」
「……言われなくても、小林さんは算盤を弾いて笑ってるだ」
石原は短く答え、立ち上がった。
頭上からは、山下に「あいすくりん」の三皿目をねだる時子の、無邪気で甲高い声が落ちてくる。
石原の右手が無意識にポケットの奥を探り、固いドロップの感触を確かめてから、静かに離れた。
窓のない地下室の暗がりの中で、三宅坂の知らぬ新しい血と油の循環が、静かに脈打ち始めていた。




