第十八章 『満州事金』(1931年 9月)
九月。
梅田。
残暑の湿気と世界恐慌の煤煙が、阪急ビルヂングのガラス窓を黒く濡らしていた。
総長室で小林一三は、黒い重厚な送話器を耳と肩の間に挟み、手元の書類に万年筆の赤インクを叩きつけていた。
インクの朱が、紙の上で血のように滲む。
「……満鉄の内田の頭越しに、長春延伸の許諾印を突かせましたわ」
受話器の向こう、三宅坂の永田鉄山の万年筆が紙を割る音が響く。
「……板垣と河本はサルトゥの泥の中だ。
『国家の血を掘れ』と言ってある」
小林は灰皿へ、太い葉巻の灰をボロりと落とした。
「結構なこっちゃ。
穴掘りに夢中な間は火薬に火をつける暇もありませんわ。
で、張学良の若殿ですが……」
「石原を行かせましょう。
娘の転地療養だ。
これ以上の絵の具はあるまい」
「軍閥ごと『阪急奉天興業』の株主に仕立ててやります。
あの若殿、ゴルフとモルヒネが大好物ですからね。
最高のブルジョワにしてやれば、兵隊の銃など自分から放り投げますわ」
◇
神戸港から出港した大連行き定期貨客船「筑後丸」。
黄海を渡る甲板の強い潮風の中で、石原莞爾は安物の麻の背広に身を包んでいた。
「とーちゃ。
……くろみつのトコロテンがえぇののに!」
七歳の時子が、石原のズボンの裾を小刻みに引っ張っていた。
真っ赤な頬を限界まで膨らませ、下唇を尖らせて完全に怒っている。
船内の食堂で出された「酢醤油のトコロテン」が、どうしても許せなかったらしい。
「時子、大連に着いたらロシアの甘いあいすくりんがある。
トコロテンは大阪に帰るまで辛抱せい」
石原はしゃがみ込み、時子の柔らかいホッペを大きな指で押した。
凹んだ頬がぷくりと戻る。
見張りの憲兵は、あくびを噛み殺して海へ視線を外した。
石原は麻のジャケットの内側に手をやり、その厚みを確認した。
米国銀行のドル手形、住友の純銀地金預金証、そして『株式会社奉天興業』の定款。
冷たく乾いた紙の重みが、肋骨に触れていた。
大連ヤマトホテル。
特別客室。
重厚な革椅子にどっかりと腰掛けた関東軍参謀、山下奉文大佐の体躯からは、泥と塩分の混ざった殺気が立ち上っていた。
コンコン。
ドアが開く。
入ってきた「親子」を見た瞬間、山下の太い眉がぴくりと跳ねた。
「お久しぶりであります、山下先輩」
石原がパナマ帽を脱ぎ、剥き出しの庄内弁で笑った。
山下の視線が、石原の背後に隠れる小さな影で止まる。
真っ赤なホッペを膨らませ、下唇を尖らせて山下を睨みつける少女。
手には、ちぎれかけた紙風船。
「……石原。
おんしゃ、その子供は……なんぞ」
「私の娘であります。
時子、ご挨拶せの」
「……おっちゃん、こわい。
わたしに、くろみつのトコロテンくれへん」
「トコ……ロテン……?」
山下は膝を折ると、ギシギシと革の音を立てて時子の目線まで腰を落とした。
軍服のウールから、黒コショウと古い汗の匂いが漂う。
「……お嬢、大連にトコロテンは無いが、ロシアの甘い『あいすくりん』ならワシがなんぼでも買うちゃるき。
やき、そんな鬼みたいな顔でプクーとするなや」
山下のゴツゴツした無骨な手のひらの上で、重い銀元がジャラリと鳴った。
底抜けに優しい笑みが、険しい顔に浮かぶ。
時子は山下の大きな手のひらをじっと見つめ、
「……おっちゃん、ええひと?」と、尖らせていた下唇を少しだけ戻した。
山下はゆっくりと立ち上がり、石原を睨みつけた。
「……石原。
おんしゃも、親になったか」
「はっ、四苦八苦であります。
……ですが、この子の命を大阪で生かすためには、満州の『飯の種』を何が何でも組み上げねばならんのです」
石原の澄み切った瞳が、庄内弁の奥で冷徹に光る。
山下は深くため息をつき、再び椅子に腰掛けた。
「……分かっちゅう。
板垣も河本もサルトゥの泥の中に叩き込まれた。
『国の血を掘る聖戦だ』と吹き込まれてな、あいつら目を血走らせてスコップ叩き込んじゅう」
「将校の暴走など、大義名分を挿げ替えればそれで終わります」
「……入らせろ。
張学良の名代だ」
隣室から入ってきた張学良の外交顧問は、脂汗で額を濡らしていた。
山下はその巨躯で西日の光を完全に遮り、壁のように仁王立ちした。
部屋の空気が一瞬で凍りつく。
石原は無言のまま、マホガニーの卓上へ三束の羊皮紙と手形を滑らせた。
――サッ。
乾いた紙の音が静寂を割る。
顧問の眼鏡の奥で、瞳孔が激しく開閉した。
一枚目。
武田薬品と奉天アヘン局の連名による『医療用モルヒネ原料買い付け協定書』。
二枚目。
三十万の東北軍を『阪急奉天興業』の社員として買い上げる雇用契約書と、ドル建て給与保証書。
そして三枚目。
――ロンドン私人銀行の口座番号と、張学良個人へ割り当てられた配当株数。
説明など一言も要らなかった。数字と英字が、すでにすべてを語っていた。
「……提督には、不毛な軍閥の親分を下りていただく」
石原の低い声が、朱肉の臭う室内に落ちた。
「配当金で世界一優雅なブルジョワとして暮らされるか。
……明日から三十万の兵の飯代を自腹で払い、飢えた身内に後ろから撃たれるか」
山下が背後から一歩、ドシンと踏み出した。
床の絨毯が悲鳴を上げる。
「……断るなら、明日からそっちの兵糧と弾薬の補給、全線で止めるきに。
誰が最初に飢えるか、試してみたらええ」
顧問の呼吸が荒くなり、肩が激しく上下した。
軍隊の維持という泥沼から解放され、一生遊んで暮らせる巨額の配当と最高のモダニズム。
顧問の震える指先が判を握り、ねっとりとした朱肉をつけ、次々と協定書へ赤印を叩きつけていった。
その夜。
ホテル一階の食堂。
銀皿の上で、白い「あいすくりん」が山をなしていた。
「おっちゃん!
これ、おいしい!
これ、好き!」
時子がスプーンを握りしめ、口の周りを白く塗れさせて貪っている。
山下が自分の大きな軍帽をぽんと頭に被せると、「前見えへん!」と再び頬を膨らませた。
「おお、そうかそうか。
しっかり食え、お嬢。
ワシの若い頃の土佐にはな、そんなハイカラなもんは無かったきに」
ガハハと豪快に笑いながら、山下は黒パンを引きちぎり、八角の香りと牛脂がギトギトと浮いた煮込みの汁にどっぷりと浸して口へ放り込んだ。
汁が太い髭を濡らす。
石原はその光景を、肉の湯気の向こうから静かに見つめていた。
「山下先輩。
この大豆と麻薬と傭兵から生まれる銭が、そのまま鳴尾へ流れます」
「……分かっちゅう」
山下は黒パンをゴリゴリと噛み砕き、低い声で応えた。
「ワシはこの満州の泥の上で、おんしゃらの植えた『飯の種』が見事にならぬかどうか、この目で見届けるだけよ。
……兵隊どもを、二度と飢えさせんためにな」
窓の外、夕暮れの大連の街に、大阪の銭が灯した新しい電飾が、音もなく点灯し始めていた。




