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第十七章 『変様』(1931年 6月)

東京。

三宅坂。

陸軍省。

 永田鉄山大佐の執務室には、赤インクの酸っぱい匂いが充満していた。

 卓上に積まれた分厚い人事台帳。

宇垣軍縮で切り捨てられた数十名の技術兵や、工廠を追われた職人の名が並んでいる。

 永田は万年筆の先を走らせ、無表情のまま名簿に太い斜線を引いていった。

 サッ、サッ、と紙を割く乾いた音が規則正しく響く。

「小林一三に回せ。

阪急の銭で囲わせればいい」

 万年筆の先が一度だけ止まった。

『満州石油発掘調査守備隊、板垣征四郎大佐』の名の上だ。

 永田は眉一つ動かさず、その名の上に朱肉の赤い印を叩きつけた。

「半年前に『国家存亡の命綱』とおだてて石油発掘へ追いやったというのに、奉天の板垣どもはまだ穴を掘り足りんらしいな。

一滴の油も出ぬ泥の中で、永久に砂でも掘らせておけ。

薩爾図サルトゥの掘削現場へ統制派の監査官を叩き込み、機密費を締め上げろ。

政治ごっこを企む時間など一秒も残らん」

 湿った赤インクが、文字の上で血のように広がった。

永田はキャップをパチンと締め、次の台帳へ手を伸ばした。

 大阪。

梅田。

「阪急技術専門学校」の夜。

 寄宿舎の廊下には、重油と未精製石炭の焦げた臭い、そして若い皮膚が発する酸っぱい汗の臭いが充満していた。

 地階作業場。

コンクリートの叩きに置かれた二段ベッドの横で、十代前半の少年たちが油まみれのスパナを握りしめている。

 あかぎれで割れた指先には、黒い重油が刺青のように染み込んでいた。

薄い作業着の胸ポケットには、折りたたまれた紙片が押し込まれている。

数円の塩代と引き換えに姉や妹が売られた「娘譲り受け候」の墨書だ。

 ――ガンッ!

 真鍮の重い定規が、一人の少年の頭骨を容赦なく叩きつけた。

血がたらりと頬を伝い、油汚れを弾いて落ちる。

「馬鹿者!

手感しゅかんが狂っとる!

ねじ山が伸びる手前で止めいッ!」

 教壇で怒号を上げるのは、三宅坂から流し込まれた退役技術兵だ。

重いピストンを床へ叩きつけ、少年の胸元を掴み上げる。

「明日から『A4』エンジンの分解に入る!

締めしろの手応えを指先が覚えるまで、今夜は一睡もさせんぞ!」

 少年は血を拭いもせず、無言でスパナを握り直した。

声を上げる者など一人もいない。ただ、歯を食いしばる音だけが作業場に満ちていた。

 その殴打音は、厚い壁を隔てた三階「給仕科」の教室には届かない。

 鹿児島の村から連れてこられた少女たちが、白手袋をはめ、畳のヘリに沿って並んでいた。

「──顎を引きなさい。

目元を動かさず、歯を見せずに唇の端を引く」

 女性教官の竹鞭が、空気の尾を引いた。

 少女たちは頭上に分厚い『和英大辞典』を載せ、音もなく歩く。首筋には汗が浮き、塗られた白粉が粉を吹いていた。

 ――バサッ。

 一人の少女の頭から辞典が落ちた。

すさまず竹鞭が背筋を痛烈に打ち据える。

 パシィンと、肉の跳ねる音が響いた。

「表情を崩すな!」

 少女は背中に走る激痛に耐え、即座に姿勢を正した。

歯を見せず、空洞のような瞳で笑みを浮かべてみせる。

「あなた方のその『笑顔』は、会社が金を払って買い上げた精密部品です。

阪急百貨店のエレベーターの前で、妹や弟の飢えた顔を思い出して笑みを濁らせるな。

機能しなさい」

 二階のガラス窓。

小林一三が静かに葉巻へ火をつけた。

紫煙が窓ガラスを曇らせる。

 その向こうで、地階の重油にまみれる少年たちと, 三階で白手袋をはめて微笑む少女たちが、二重写しになって見えた。

「片や油に塗れたスパナ、片や白手袋の作り笑顔」

 小林は葉巻の灰を床に落とし、靴底でゆっくりと踏みにじった。

「どっちもな、極限まで叩いて揃えれば、世界を圧倒する価値を生むんや。

胃の腑の飢えと見栄を同じ軸で回す……

これほど狂暴なエンジンは、軍隊にも作れへんわ」

 窓の外、梅田の夜空に、天保山から戻ってきた「はくつる」の低く太い爆音が、地鳴りのように響いていた。

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