第2話 金のためなら結婚も
この世の中、何をするにも必要なものがある。
それが――お金だ。
お金がなければ、何もできない。
舞踏会へ着ていくドレスを新調することはおろか、日々の食事さえままならない。
お父様は「なければ借りればいい」とおっしゃる。けれど、借りたものは返すのが世の道理だ。
我が家の中で、返すあてもないまま膨れ上がっていく借金に怯えていたのは、わたくしだけだった。
(……でもそれも、もう終わりなのね!)
渋々ではあったものの、お父様はわたくしの望み通り、すぐに縁談の話を進めてくださったのだ。
オスカー様は普段、タラセイアの邸宅で暮らしているらしい。
けれど、ちょうど王都に来られる用事があったそうで、顔合わせの日取りも驚くほどあっさり決まった。
(なんて幸運なのかしら!きっと、神様もわたくしに味方してくださっているのね!)
ドレッサーの前で髪をとかしながら、鼻歌を歌う。
もうすぐ、オスカー様と顔合わせの時刻だ。
(オスカー様は、どのような女性が好みなのかしら?)
くしを置いてジュエリーケースを開けると、わたくしは数少ないイヤリングを見比べた。少し迷って、パールのシンプルなものを耳につける。
うん。これなら幼く見えないわ。
わたくしがイヤリングの確認をしていると、部屋にノックの音が響いた。
「フェリシア様、オスカー様が来られました」
「わかったわ!」
メイドに返事をした声は、自分でも驚くほど高かった。
慌てて姿見の前に立って、髪やドレスに変なところがないか全身を確認する。そして最後に笑顔の練習をして、わたくしはすぐに応接室へと向かった。
この扉の奥に、わたくしの運命を変えてくださる方がいる。
わたくしは深呼吸をして、扉をノックした。
「入れ」
中にいるお父様が、そう返事をする。
わたくしは意を決して、重い扉を開けた。
「初めまして、フェリシア嬢」
応接室へ入るなり、わたくしを迎えた男性は、深々と頭を下げた。
そのせいで、わたくしが最初に目にしたのは、少しだけ白髪の混じったオリーブブラウンの頭頂部だった。
「……こちらこそ初めまして、オスカー様」
戸惑いながらもわたくしが挨拶を返すと、男性はゆっくり頭を上げる。
そこで初めて、オスカー様と目が合った。
優しく微笑む、薄紫色の穏やかな垂れ目。
その目尻には、年齢を感じさせる細かなシワがいくつか刻まれている。
(そう……この方が)
気づかれないようにほわたくしはんの少しだけ、目を細めた。
なるほど。
確かに、お父様のご友人と言われても、まったく違和感がないわ。
直接お顔を拝見して、改めてお父様と年齢が近いことを実感する。
そのせいなのか、先に応接室へいらしていたお父様は、睨みつけるようにオスカー様を見つめていた。
けれどオスカー様はそれに気づいていないのか、一切表情を崩さずに微笑みを浮かべている。
「今日はお時間を取っていただき、ありがとうございます」
「あら、お忙しいのはオスカー様の方ではなくて?こちらこそ、貴重なお仕事の合間に、ご無理を言って申し訳ありませんわ」
そう言って、わたくしは頭を下げた。
「いえ、そんなことはありませんよ。しかし、想像以上に美しいお嬢さんだ」
「まあ、さすが商人ですわ。口がお上手ですのね」
より目尻に細かなシワを寄せて微笑むオスカー様に、わたくしも口元を手で覆いながら笑い返す。けれど、わたくしがしたいのは、こんな社交辞令ではない。
もっと……もっと、大事な話よ。
「……お父様」
わたくしは視線をあげて、オスカー様の後ろにいるお父様に声をかけた。
「少しの間だけ、席を外していただけませんか?」
「お、お前……そんな……!」
まさかそんなお願いをされるとは、思っていなかったらしい。わたくしからのお願いに、お父様はあからさまに動揺していた。けれどお父様がいては、できる話もできないのだから、こうするしかない。
「これからのことについて、オスカー様とゆっくり話がしたいのです。お父様、お願いしますわ」
少し顎を引いて、幼子が甘えるように、わたくしはお父様を見る。
そんなわたくしを、お父様は何か言いたそうな目で見つめていた。けれど「……わかった」と短く言うと、応接室から出ていってくださった。
お父様の足音が聞こえなくなったことを確認して、わたくしは改めてオスカー様に向き直った。当のオスカー様は姿勢を崩すことなく、わたくしに笑みを向けていた。
「立ち話もなんですし、お座りになって?」
「……では、お言葉に甘えて」
そう言って、オスカー様はソファに腰を下ろすと、拳にした手を膝の上に置いた。
「あまりかしこまらないでください、オスカー様。わたくしたち、これから夫婦になるのでしょう?」
オスカー様の対面に腰掛けながらわたくしがそう言うと、オスカー様は目を丸くする。
「……驚いた。てっきり、私に会って気が変わるものとばかり思っていたよ」
「あら」
そのように思われていただなんて、心外ですわ。
わたくしは、わざとらしく驚いてみせながら小さく首を傾げる。
「タラセイアの豪商ともあろうお方が、そんな博打のようなことをなさったのですか?」
「博打……?」
不思議そうに、オスカー様は薄紫の瞳をわたくしに向けた。
その目を見ながら、わたくしは思ったことを一気に伝える。
「そうでしょう?はじめから断られるとわかって縁談を申し込むだなんて、非効率ですもの。わたくしでしたら、縁談が成立する可能性の高いところから、順番にお声をかけますわ」
だってそうでしょう?
無駄な労力なんて、かけるだけ損だもの。
「あぁ、でも……」
ゆっくり、わたくしは口元に人差し指を添える。
その際、つい……口角が上がってしまった。
「もしかして我が家は、声をかけられる順位が低かったのかしら?」
指を添えたまま、再び首を傾げて、わたくしはいたずらな笑みを浮かべる。
そんなわたくしを瞳に映したまま、オスカー様はまったく動かない。
けれど――
「あはははは!!!」
オスカー様はすぐに口元を片手で覆ったかと思うと、突然大きな声で笑い始めた。
……そんなに笑われるほど、面白いことを言ったかしら?
わたくしは少しだけ眉を寄せた。けれどオスカー様は、それに気づいていない。
「確かにそうだ!君の言う通りだよ。断られる前提で商談に臨んでいては、成立するものもしなくなる!」
肩を震わせて、オスカー様はしばらく笑っていた。
ひとしきり笑うと、下を向いてゆっくりと呼吸を整え始める。そして改めて長い指を組んで膝に乗せると、オスカー様は真っ直ぐにわたくしを見据えた。
薄紫に輝く双眼。それは先ほどまでの作り笑いの時とは違って、目の前の商談を逃さまいとする、商人の目をしていた。
「……気に入ったよ、フェリシア嬢」
一段低いオスカー様の声に、無意識にわたくしの背筋が伸びる。
「改めて、君さえ良ければ、ぜひ私の妻になって欲しい」
「もちろん。喜んでお受けいたしますわ」
微笑みを浮かべながら、わたくしはオスカー様からの申し入れに即答した。
(……けれど、これで終わってはダメよ、フェリシア)
ぐっと、胸を張る。
だってこれは、結婚という契約ですもの。
わたくしも負けじと、オスカー様を見据えた。
「……ですが、一つだけ条件があります」
「条件?」
面白いと言わんばかりに、オスカー様は口元に手を添える。
その口元は、緩やかな弧を描いていた。
ここで怯んではいけない。
なぜだかかわからないけれどそう思って、わたくしはさらに胸を張った。
「結婚後は、わたくしの好きなことを、好きにさせてくださいませ」
そう言って、オスカー様に微笑んでみせる。
「それができないのであれば、この話はなかったことに」
そして強気に、わたくしは言い放った。
だってこの条件を飲んでいただけないのであれば、嫁ぐ意味がありませんもの。
わたくしは、人のお金で豪遊したいの。
そして……。
(そして、自由を手に入れますの!)
そんなわたくしを、オスカー様は瞬きもせずに見つめていた。
少しの間、応接室が沈黙に包まれる。
けれど、それもすぐにオスカー様が破った。
「……なんだ、そんなことか」
拍子抜けしたように、オスカー様は砕けた口調で言う。
「いいよ。結婚後は、私の資産の範囲であれば、君は君の好きにしてくれて」
その言葉に、わたくしは目を見張った。
少しくらい渋られると思っていましたのに、そのようなそぶりすらなく、即決されるだなんて……。
(さすがタラセイアの豪商……!返答まで豪快ですわ!!!)
思わず、指を組んで喜びそうになっていた時だった。
「だから……というわけではないんだが」
オスカー様の、声の調子が変わる。
すぐにオスカー様を見ると、先ほどまでの不敵な笑みが消えて、薄紫の瞳が、少し躊躇いがちにわたくしへ視線を向けていた。
「私からも、一つ……頼みがある」
「……わかりましたわ」
中身も聞かずに、わたくしは二つ返事で承諾した。
だって結婚という契約において、わたくしばかりお願いするのはおかしな話ですもの。
「まあ、最後まで聞いてくれ。正直に言うと、私はこの結婚で、君と夫婦の営みを望んでいるわけではないんだ」
「……え?」
思わず、声が漏れた。
後妻を探していらっしゃるのだから、てっきりそういうことだとばかり思っていましたのに。
驚く私に、オスカー様は苦笑いを浮かべた。
「ましてや、私の老後の介護をして欲しいわけでもない。そんなものは、使用人にでも任せればいいことだからね」
「……では、なぜわたくしと結婚を?」
オスカー様の言葉を待てず、わたくしは問い返した。
するとオスカー様は、先ほどまでとは違う、少し困ったような……それでいて、ひどく穏やかな笑みを浮かべた。
そこにいたのは、タラセイアの富豪ではない。
壮年の、ただ一人の男だった。
「前妻の望みでね」
「前の……奥様の?」
「あぁ」
静かに、オスカー様は頷いた。
「だから君が望むなら、いつ私と離婚してくれても構わない。ただ、その時はすぐに私に言ってくれ」
「まぁ、結婚をする前から離婚の話だなんて……おかしな方」
「なに、リスクヘッジだよ」
オスカー様は、少しだけ前屈みになる。
「これはお互い、利害が一致した上での結婚だからね」
そう言うオスカー様の表情は、再び商人のそれに戻っていた。
まったく、離婚だなんて。
そんなこと、するわけないじゃない。
(だってわたくしは――これから一生、遊んで暮らすんですもの!!!)
もちろん、そんな邪な本音を、面と向かってオスカー様に言えるわけもなく、わたくしは静かに微笑んだ。
「……わかりましたわ。もしもそのようなことがあれば、すぐにお話しいたします」
「では改めて、よろしく頼むよ。フェリシア嬢」
すっと、オスカー様は立ち上がると、わたくしの前に手を差し出した。
「……かしこまらないでくださいと、最初にお伝えしましたわ」
そう言ってわたくしも立ち上がると、オスカー様の手を取る。
ごつごつしていて、しわのよった手は、お父様の手にそっくりだった。
「わたくしのことは、フェリシアとお呼びくださいませ」
「わかったよ、フェリシア。では私のこともオスカーと」
「えぇ、こちらこそよろしくお願いいたします。オスカー」
笑みを浮かべたまま、わたくしはオスカーの手を強く握る。
それに合わせて、オスカーも優しくわたくしの手を握り返した。
これが、わたくしとオスカーの間で、最初に交わした契約だった。
今思えば、もっとしっかり色々なことを確認しておくべきだった……。
そうよ、お祖父様の手記にも書いてあったじゃない。
契約を結ぶときは、必ずその内容の細かいところまで確認するように、と。
けれどあの時、わたくしは浮かれていたのだ。
タラセイアの豪商という、オスカーの肩書きのせいで。




