第1話 金の切れ目が縁のはじまり
「……これは、どういうことですの?」
出納帳を持つ手が、自然と震えた。
自分から頼んだくせに、わたくしはセバスチャンから渡されたそれを見て、愕然とする。
上から順に、収入と支出を目で追う。
入っては減り、また入っては減る。
その末に残った額が、現在のオスカーの個人資産だ。
けれど何度見返しても、桁がおかしい。
……とても、とても悪い意味で。
だって、あのタラセイアの豪商の資産が、こんな額であるはずがない。
(なぜ……?なぜ、こんなことになってるの?)
ぎゅっと、出納帳を握りしめる。
そのせいで、出納帳には濃いシワがよった。
すぐそばで、セバスチャンがわたくしに視線を送る。
けれど、今はそんなことを気にしている場合ではないわ。
だって、だってこれじゃあ……。
(これじゃあわたくしが、何のために後妻としてオスカーと結婚したのか、わからないじゃない!!!)
思わず、出納帳を床に叩きつけそうになる。
けれどわたくしは、なんとかその衝動を堪えた。
大きく息を吸って、震える手でそっと出納帳を閉じる。
「……」
「フェリシア様?!」
けれど、そのままじっとしてはいられなかった。呼び止めるセバスチャンに返事もしないで、わたくしは出納帳を抱えて部屋を出る。
向かう先はもちろん、オスカーのところだ。
だって――
(だってわたくしは他人のお金で豪遊するために、結婚したんですもの!!!)
***
そもそも、なぜこんなことになったのか。
思い起こせば、一ヶ月ほど前……メイドがわたくしを呼びにきたことが始まりだった。
「フェリシア様、クラウディア伯爵がお呼びです」
「……わかったわ。すぐに行くと、お父様に伝えてちょうだい」
「かしこまりました。伯爵は書斎にいらっしゃいます」
機械的に、メイドはわたくしに向かって一礼すると、すぐに部屋を出て行った。
(もう、いいところだったのに……!)
椅子に座ってお祖父様の手記を読んでいたわたくしは、小さくため息をつく。けれど、お父様が呼んでいるのであれば仕方ない。わたくしはすぐに手記を閉じて、そっと机の引き出しにしまった。
お父様からお話だなんて、いったい何かしら?
(……どうせ碌なことではないわね)
気が進まないまま、わたくしは部屋を出て廊下を進む。真っ直ぐにお父様がいるという書斎へ向かうと、その扉をノックした。
「……入れ」
「失礼いたします、お父様。何かありましたの?」
「あぁ……」
「来たか、フェリシア」
書斎へ入ると、お父様は椅子に腰かけ、机に両肘をついていた。けれど組んだ指を口元にあてたまま、わたくしとは目を合わせようとしない。
そんなお父様の前には、背筋を伸ばしたお兄様が眉間にシワを寄せて、わたくしに視線を向けている。
見るからに、明るい話ではなさそうだわ。
(……もしかして、またどこかからお金を借りたのかしら?)
思わず、口を尖らせる。
まったく……ただでさえ我が家は借金まみれだというのに……。
借りる前に不要な調度品を売るなり、支出を見直すなり、やれることはいくらでもあるといつも言っているのに、お父様とお兄様は聞く耳を持ってくださらないんだから。
うっかり、ため息が漏れそうになる。
その時だった。お父様が、重い口を開いた。
「……単刀直入に話そう。お前に、縁談がきている」
「わたくしに……ですか?」
……借金の話ではなかったのね。
予想していなかった話に、わたくしは目を丸くする。
「相手は、ソロ商会の会長。オスカー・ソロだ」
「ソロ……。あの、タラセイアの豪商の?」
「そうだ」
お父様は指を組んだまま、静かに頷いた。
そんな……。
これは、夢かしら?
あまりに信じられなくて、わたくしは重ねていた手の甲をこっそりつねってみた。けれどそこからは、しっかりと痛みが伝わってくる。
間違いないわ。
これは、現実よ!
(なんてこと?!こんな貧乏貴族には、願ってもない縁談じゃない!!!)
思わず、胸が躍る。
実際、すぐにでも踊り出したいぐらいだった。
こんな気持ちになるだなんて、いつぶりかしら!
けれど、ソロ商会の会長について、はたと思い出して、上がった熱が一瞬にして下がる。
……でも、そうだわ。
確か、ソロ商会の会長って……。
「ですがお父様、オスカー様は既婚者ではなくて?」
そう。
彼は既婚者のはずよ。
それがなんだって、わたくしに縁談なんか……?
不思議がるわたくしに、ため息を吐く。
「それが、数年前に妻を病気で亡くされたらしい。……子どもも、いないそうだ」
「……そう、ですか」
それは、お気の毒に。
ばつが悪くわたくしは目を伏せる。一方で、すぐに納得した。
なるほど。だからオスカー様は、後妻を探していらっしゃるのね。
わたくしは黙って頷くと、顔を上げた。
「ではお父様、すぐにでも……この縁談を進めていただけますか?」
「お、おい!フェリシア!そんな簡単に……ッ!」
「簡単に、ではありませんわ」
一歩、わたくしは前へ出る。
「わたくしももう二十一です。早く縁談を決めないと、行き遅れる――そうおっしゃっていたのは、お父様ではありませんか」
「それはそうだが……。しかしフェリシア、このオスカーという男は……ッ」
「タラセイアの豪商でしょう?」
わたくしは、首を傾げた。
「何か、問題がありまして?」
わたくしは口角を上げながら、お父様に質問した。
だって、この方は我が家と違って――お金がある。
それだけで、わたくしの結婚相手としては、十分すぎるほどの好条件じゃない。
何を渋ることがあるというの?
「ッ……!大ありだ!この男、もう四十五なんだぞ?!私と大して変わらないではないか!」
「あら、そんなこと?」
「そんなこと、とは……お前……っ!」
あっけらかんと答えるわたくしに、お父様は肩を震わせた。
「歳なんて、関係ありませんわ」
胸に手を当てながら、わたくしはきっぱり、お父様に言い放つ。
「もちろん、条件次第ではあります。けれどこの結婚で、クラウディア家の借金を帳消しにすることができるのでしたら……。わたくしは喜んで、年嵩の成金のもとへ嫁ぎますわ」
「フェリシア……」
家のことを思っての決断であると聞いて、お父様の目にはうっすら涙が浮かんでいた。
そんなお父様に対して笑いが込み上げてくるのを、わたくしは必死に堪える。
……思った通りだわ。
こう言えばお父様は、簡単に結婚を承知してくださる。
それに……。
「すまない、フェリシア……。お前にこんなことをさせてしまって」
沈黙を守っていたお兄様が、突然口を開いた。
「こんな妹を売るみたいなこと……できれば僕もしたくない。だが、お前が家のためにそこまで言ってくれるだなんて……。本当に、すまない」
そう言って、お兄様は眉を下げながら、わたくしの両手を握った。
けれど、その瞳の奥には、うっすらと安堵の色が浮かんでいる。
……当然よね。
わたくしがオスカー様の元へ嫁げば、クラウディア家の借金は片付くのだもの。
お兄様にとって、これ以上都合のいい話があって?
それに、妹がどこへ嫁ごうと、お兄様には関係ありませんものね。
(まぁでも、それを利用しているわたくしもわたくしですけれど)
お兄様に手を握られながら、わたくしは献身的な妹を演じてみせた。
年嵩だろうが、成金だろうが、そんなことはどうでもいい。
わたくしにとって重要なことは、ただ一つ。
――わたくしの自由にできる、お金があること。
それだけですもの。
貴族だというのに借金まみれの生活だなんて、もううんざり。
それでしたら後妻として、この方の妻となった方が何万倍もマシよ。
むしろ……。
(ありがとうございます、オスカー様!わたくしを後妻に選んでくださって!!!)
そんな感謝の気持ちまで湧いてくる。
これで、これでやっと……!
(夢にまでみた、豪遊生活が始まりますわ!!!)
涙を浮かべるお父様と、わずかに口元を緩めるお兄様をよそに、わたくしは早くも、結婚後の生活に思いを馳せていた。
……まさかその夢が、早々に打ち砕かれることになるとも知らないで。




