飼育開始
王都の最地下調練場での凄絶な儀式、そしてあの敗北の烙印を刻まれた夜から数日。ロキの身柄は、王宮の誰もその存在を知らない、マーリンの私邸の最奥にある「特製の飼育室」へと完全に移送されていた。
部屋の中央に鎮座するのは、大人が数人入っても余裕があるほどに巨大な、太い黒鉄の格子で囲まれた頑丈な檻である。床には、王宮の謁見の間にも劣らないほど最高級の深紅の絨毯が敷き詰められているが、それはロキの傷ついた肉体を労わるための慈悲では断じてない。彼がどれだけ床に這いつくばり、涙と鼻水に塗れて許しを乞おうとも、その無様な姿をより鮮明に、かつ残酷に引き立てるための、マーリンによる徹底計算された悪趣味な演出だった。
「――あ、う……あ、あ、う…………」
檻の隅で、ロキは自身の膝を抱え込み、小さく身体を丸めてガタガタと震えていた。
彼の右胸に深く刻み込まれた真紅の奴隷紋は、数日が経過した今もなお鈍い熱を放ち、彼の体内に残るわずかな魔力を絶え間なく吸い上げては「絶対的な従属の呪い」へと変換し続けている。衣服は一切与えられず、ただ首に嵌められた黒鉄の首輪と、そこから格子の外へと伸びる長い鎖だけが、現在の彼のすべてだった。
前夜までに屈強な男たちから徹底的に植え付けられた肉体の痛み、そして魔女レイナによって脳髄に直接刻み込まれた「終わらない蹂躙の幻覚ループ」は、ロキの精神を完全に白痴の境界へと押しやっていた。今や彼は、ドアの開閉音や遠くの足音、さらには風の音を聞くだけで、失禁寸前のパニックに囚われるほどに壊れ果てていた。かつて民衆を熱狂させた白銀の輝き、そして他者を見下していた傲慢な眼差しは、その瞳の奥から一片たりとも残らず消え失せていた。
コツン、コツン。
その、ロキが現在この世界で最も恐れている気高い靴音が、部屋の外の廊下から近づいてくる。
ロキは条件反射的に肩を大きく揺らし、檻の壁へと背中を激しく打ち付けた。
「ひっ、あ……嫌だ、来ないで……、もう、許して……許してくださいぃっ!」
鉄扉が静かに開き、純黒のドレスを纏ったマーリンが姿を現した。その美貌には相変わらず、一片の憐れみも、不快感すらも宿っていない。ただ完全に管理された「対象」を見るだけの冷徹さがある。彼女のすぐ後ろには、お気に入りの玩具を眺めるような妖しい笑みを浮かべた魔女レイナが、長い黒髪を弄びながら、影のように付き従っていた。
マーリンは檻の正面に置かれた豪奢な黒檀の椅子に、優雅な所作で腰掛けた。やはり、彼女自身はロキに指一本触れようとはしない。ただ、高みから見下ろす冷徹な支配者の瞳で、檻の中の「家畜」をじっと観察する。
「随分と静かになったわね、ロキ。数日前までの、あの耳障りな遠吠えはもう聞こえないのかしら? 聖騎士団長としての誇りや、王族を家畜呼ばわりしていたあの威勢は、一体どこへ消えてしまったの?」
マーリンの氷のような声が部屋に響いた瞬間、ロキは恐怖に歯をガチガチと鳴らしながら、檻の床を必死に這いずり、格子のすぐ手前へと自ら進み出た。ここで一瞬でも従順さを示すのが遅れれば、あの恐ろしい大男たちや、レイナの精神拷問が再び自分を襲う――その本能的な恐怖だけが、彼の身体を狂ったように動かしていた。
「ま、マーリン……王女、殿下……。私は、私はもう、良い子にしています……。だから、あいつらを……あの男たちを、もうここに入れないでください……っ! 私は貴方の奴隷です、貴方の玩具です……っ!」
ロキは格子の隙間から震える両手を必死に外へと突き出し、絨毯に額を何度も激しく叩きつけた。かつて王宮の夜会で、数々の令嬢たちを傲慢に見下し、マーリンをいたぶっていた男が、今や一人の少女の機嫌を取るために、文字通り犬のように床を舐め回さんばかりに平伏している。
「くすくす……、本当に見事な壊れっぷりだねぇ、マーリン」
レイナが檻の格子に妖しく寄りかかり、真紅の瞳でロキの惨めな姿を舐めるように見つめた。
「私の『精神汚染』が、あいつの脳の芯まで綺麗に焼き尽くしたのさ。今のロキにとっては、お前が世界を支配する絶対の神であり、お前に見捨てられることこそが唯一の死に等しい絶望なんだよ。……ねえ、ロキ? 私の言った通りだろう? まだ私にお仕置きされたいかい?」
レイナが格子の隙間から細い指を伸ばし、ロキの焼けただれた右胸の奴隷紋を、長い爪でツン、と小さく突いた。
「ひぎゃあああああっっっ!?!?!?」
ただ軽く触れられただけだというのに、ロキは檻の中で飛び上がるような悲鳴をあげ、胸を押さえて床をのたうち回った。レイナの指先から流し込まれた微小な呪いの魔力が、奴隷紋の呪印を激しく刺激し、彼の脳内へ直接「肉体が内側から焼き尽くされるような激痛」を鮮烈に再現させたのだ。
「あはは! 素晴らしい反応だ! これなら、いつでも好きな時に極上の悲鳴を鳴らせる楽器の出来上がりだね。ねえマーリン、この家畜、次はどんな風に鳴かせてあげる?」
「ふふ、よくやったわ、レイナ。でも、お仕置きはまた後でたっぷり時間をかけて行いましょう」
マーリンは冷酷に微笑むと、椅子の脇に置かれていた、金色の台座に載った小さな器へと目を向けた。中には、ドロドロとした灰色の、家畜用の粗末な練り餌が入っている。
マーリンは自らの手でそれを持つことすら汚らわしいと言わんばかりに、傍らに控える看守長の男に目配せをして、その器を檻の床へと置かせた。
「ロキ。お腹が空いているのでしょう? 食べなさい。私の許可なく、床に一滴でも溢すことは許さないわよ」
器の中身を見たロキは、一瞬だけ、かつて自分が食べていた最高級の宮廷料理や、贅を尽くしたワインの味を思い出し、そのあまりの落差に絶望の表情を浮かべた。しかし、現在の極限の飢えと、支配への恐怖が、彼の残されたプライドを一瞬で消し去る。
「あ……、あう……、う……」
ロキは器に這い寄ると、手を使うことすら忘れ、直接口を器へと突っ込んで、泥のような餌をクチャクチャと音を立てて貪り食い始めた。口の周りを灰色に汚し、喉を鳴らしながら貪るその姿は、完全に「人間の尊厳」を失った獣そのものだった。
「美味しい? ロキ。それが、これからの貴方の日常よ。貴方は一生、この狭い檻の中で、私から与えられる汚れた餌をすすり、私が命じるままに鳴くだけの存在として生きていくの」
マーリンは高座から、その無残な食事風景を冷たく、そしてどこまでも愉悦を噛みしめるように見つめる。
「お前がこれまで犯してきた罪、踏みにじってきた多くの人々、そして私に与えた屈辱の対価としては、まだまだ足りないけれど……。お前がここで誇りを失い、無様に生き晒される姿を見ることは、私にとって何よりの『癒やし』になるわ。これからも、私のために惨めに生き続けなさい」
ロキは口の周りを泥塗れにしたまま、マーリンを見上げ、ただ「あ、あう……」と、肯定の言葉すら失った従属の鳴き声をあげることしかできなかった。
本当の地獄は、決して終わらない。
檻の中で飼育される元英雄の絶望と復讐劇の幕は、ここから永続的な日常へと変わっていくのだ。




