家畜鑑賞権
特製の飼育室に、規則正しい水滴の音だけが響いていた。
黒鉄の檻の片隅で、ロキは膝を抱え、じっと一点を見つめていた。数週間前まで彼を苛んでいた激しい屈辱や、燃え盛るような反抗心は、今や綺麗に消え失せている。代わりに彼の心を占めていたのは、この狭い檻の中こそが自分の世界のすべてであり、ここ以外に居場所などないという、悍ましくも静かな「確信」だった。
彼の右胸に刻まれた奴隷紋は、今や彼の肉体の一部として完全に馴染み、体内のわずかな魔力を吸い上げ続けている。衣服を与えられない全裸の肉体は、大男たちに蹂躙された傷跡や、レイナに与えられた熱傷の痕が生々しく残っていたが、ロキはそれを気にする素振りすら見せない。首輪に繋がれた鎖が、彼が動くたびに冷たい金属音を立てる。その音こそが、今のロキにとって、自分がまだ生きていることを実感できる唯一の証明だった。
「――あ、う……」
ロキの口から、意味を成さない微かな鳴き声が漏れる。
彼は、自らの意思で考えることを放棄していた。考えれば、あの終わらない地獄の幻覚が脳内を埋め尽くし、拒絶すれば、あの屈強な男たちが再びこの檻に入ってくる。主であるマーリンの望む通りの「家畜」でいることだけが、彼に残された唯一の生存戦略であり、彼にとっての歪んだ「安寧」だった。
コツン、コツン。
鉄扉の向こうから、聞き慣れた気高き靴音が近づいてくる。
ロキの身体は一瞬にして硬直したが、それはかつてのような拒絶の恐怖ではなかった。むしろ、飢えた犬が飼い主の足音を待ち侘びるような、卑屈な歓喜に近い戦慄だった。
扉が開き、純黒のドレスを纏ったマーリンが、優雅な足取りで入ってくる。彼女の背後には、ロキの精神を完全に調教し終えた魔女レイナが、満足げな微笑を浮かべて付き従っていた。
マーリンは檻の前に置かれた椅子に腰掛け、脚を組み、指一本触れぬままロキを見つめた。
「調子はいかが、ロキ。随分と大人しくなったようね。私の用意した檻の居心地は、お前の誇り高き聖騎士の部屋よりも気に入ってもらえたかしら?」
マーリンの冷徹な問いかけに、ロキは即座に反応した。
彼は絨毯の上を四つん這いで這いずり、格子のすぐ手前まで進むと、自ら首を突き出すようにして床に額を擦り付けた。
「ま……マーリン、王女、殿下……。私は……幸せ、です……。殿下の、檻の中は……とても、温かい、です……」
掠れた声で、必死に従属の言葉を紡ぐロキ。彼の脳は、マーリンに褒められること、あるいは罰を与えられないことだけを唯一の快楽として認識するように、レイナの魔術によって作り変えられていた。
「くすくす、本当に素晴らしい仕上がりだね、マーリン」
レイナが椅子の背もたれに腕を乗せ、真紅の瞳を妖しく光らせながらロキを見下ろす。
「あいつの心には、もう『ロキ』なんて名前の英雄は残っていないさ。お前が気まぐれに与える餌と、お前の冷たい視線だけを求めて生きる、ただの哀れな生き物だ。ねえ、ロキ? 主人の靴でも舐めて、その忠誠を証明してみせたらどうだい?」
レイナの挑発的な言葉に、ロキは格子の隙間から必死に手を伸ばし、マーリンの靴の先へ届こうと床をかきむしった。しかし、マーリンは自らの靴すら奴に触れさせるのは汚らわしいと言わんばかりに、スッと脚を引いてそれを拒絶する。
「触るなと言ったはずよ、家畜」
「ひっ……! ご、ごめんなさい……っ! 申し訳ありません、殿下……っ!」
拒絶されたロキは、まるで世界が崩壊したかのような絶望の表情を浮かべ、自らの髪をかきむしりながら床に何度も頭を打ち付けた。主の不興を買うこと――それこそが、今の彼にとって最大の拷問だった。
「良いわ、ロキ。お前のその無様な姿を毎日眺めることが、私にとって何よりの娯楽なのだから。死なない程度に、これからもその檻の中で私を愉しませ続けなさい」
マーリンは冷酷に微笑むと、立ち上がり、一度も振り返ることなく部屋を後にした。
レイナもまた、檻の中の「完成された玩具」に満足げな視線を送った後、マーリンの後を追う。
パタン、と重厚な鉄扉が閉まり、再び部屋には静寂が戻る。
ロキは、マーリンが去った扉の方向をじっと見つめながら、口元に卑屈な、しかし心からの安堵の笑みを浮かべていた。
「私は……殿下の、お人形……。あは、あはは……」
暗闇の中、鎖の音だけが、彼の終わらない従属の日々を刻み続けていた。
1週間後
鉄格子の檻の床に敷かれた深紅の絨毯は、今やロキにとって「世界の境界線」そのものだった。この絨毯の外へ出ることは許されず、出ようとすれば首輪の呪印が肉体を内側から焼き焦がす。彼はただ、自らの意思を完全に消し去り、主であるマーリンがいつ自分を見下ろしにやってくるか、その恐怖と歪んだ期待だけを胸に生かされていた。
「あ……、う……あ、主、様……」
ロキの口から漏れる言葉は、もはやかつての端正な英雄のそれではなく、完全に調教された獣の呻きに酷似していた。
右胸の奴隷紋は、彼の体内に残る微々たる魔力を絶え間なく搾取し、彼が少しでも不穏な思考を抱こうとするだけで、脳髄を直接揺さぶるような激痛を容赦なく叩き込む。肉体的な蹂躙を経て、レイナの精神汚染によって脳の芯まで磨り潰されたロキにとって、マーリンに隷属することだけが、この部屋で呼吸を許される唯一の「正解」だった。
コツン、コツン。
鉄扉の向こうから聞こえてきた足音に、ロキの身体が目に見えて震え、同時に歓喜のあまりに喉が鳴った。
彼は即座に絨毯の上を四つん這いで這いずり、檻の最前列へと進み出て、自ら首の鎖をピンと張り詰めさせながら平伏した。
扉が開き、純黒のドレスを纏ったマーリンが、優雅に室内の黒檀の椅子へと腰掛ける。そのすぐ後ろでは、真紅の瞳を妖しく明滅させた魔女レイナが、ロキの無様な姿を心底楽しそうに見つめていた。
「良い子にしていたかしら、ロキ」
マーリンの氷のような声。彼女はやはり、ロキの汚らしい肉体には指一本触れようとはしない。
「はい……っ、はい、マーリン王女殿下、私の絶対の主様……! 私は……私は、お申し付けの通り、檻の隅でずっと、殿下をお待ちしておりました……っ!」
ロキは格子の隙間から涙を流し、何度も床に頭を打ち付けた。かつてマーリンを「一生私の足元で這い回るのがお似合いの玩具」と嘲笑っていた男が、今やその少女の冷淡な視線一つを乞うために、自らの尊厳をどれだけでも進んでドブに投げ捨てていた。
「くすくす……、本当に綺麗な犬になったねぇ、マーリン」
レイナが椅子の背もたれに寄りかかり、艶然と微笑む。
「でも、これだけじゃまだ物足りないだろう? この男はかつて、お前を自分の引き立て役として、社交界の裏で散々見せしめにしていたんだ。……だったら、今度はその役目を、この男自身に演じてもらわなきゃね」
マーリンは冷酷に口元を歪め、傍らに控える看守長の男へ短く指示を出した。
「始めなさい」
「御意に」
看守長がパチンと指を鳴らすと、部屋の壁際に設置されていた、これまで使われることのなかった別の重厚な鉄扉が静かに開いた。
そこから入ってきたのは、かつてロキが聖騎士団長だった頃に、彼の傲慢な権力によって不当に貶められ、すべてを奪われた王宮の「落ちぶれた元貴族たち」や「裏社会の商人たち」の姿だった。彼らはマーリンとアルベール皇子の手によってこの私邸へと密かに招かれ、ロキの「現在の姿」を鑑賞する権利を与えられた者たちだった。
「な……っ!? お、前たちは……っ!」
ロキの瞳に、一瞬だけかつての記憶に伴う驚愕が走った。しかし、背後に立つレイナが指先を小さく振るうと、首輪の呪印が作動し、ロキの胸の奴隷紋がじりじりと音を立てて発熱する。
「が、はっ…………っ!?!?!?」
激しい激痛がロキを襲い、彼は自分の余計な動揺を即座に呪った。今の自分には、過去の人間関係を気にする余裕など一ミリもない。ただ、目の前の主人たちに「無様な姿」を見せつけることしか許されていないのだ。
入ってきた元貴族や商人たちは、檻の中で全裸のまま這いつくばり、口の周りを餌で汚したロキの姿を見た瞬間、一斉に下卑た、しかし心底からの復讐の歓喜に満ちた嘲笑を浴びせかけた。
「おい見ろよ! あれが『国の守護神』だとよ!」
「ただの泥塗れの豚じゃねえか!」
「かつて俺の領地を気まぐれに没収した男が、今や檻の中で犬のように頭を下げてやがる!」
彼らは檻の格子の外から、ロキに向かって容赦なく汚水や果物の皮を投げつけた。
ロキの身体にベタベタと汚物がへばりつき、果物の汁が彼の打撲痕に染みて激痛を走らせる。しかし、ロキはそれを避けることすら許されず、ただ格子の隙間から元貴族たちの靴を見上げ、怯えたように身体を小さく丸めるしかなかった。
「殿下、ご覧ください! この男、俺たちが投げつけたゴミを、主様への忠誠を示すために自ら片付けようとしていますぜ!」
元貴族の一人が大声で笑うと、ロキは実際に、マーリンの視界を汚さないようにと、床に落ちた汚物を自らの口で必死に咥え、檻の隅へと片付け始めた。人間の尊厳を完全に破壊され、主の「完璧な家畜」であることだけを追求させられた元英雄の、これ以上ないほどに無惨で、そして圧倒的な社会的逆転の光景。
マーリンは高座の椅子から、その地獄のような光景をただじっと見つめていた。彼女自身の手は、衣服の裾さえ一ミリも汚れていない。ただ、彼女が呼び寄せた「復讐者たち」の暴力と嘲笑が、ロキの精神をさらに深い底へと、永久に沈め直していく。
「素晴らしいよ、マーリン……。お前が指一本触れないからこそ、この男の惨めさがより際立つ」
レイナがマーリンの肩を優しく抱きしめ、その耳元で狂おしいほどの愉悦を囁く。
「あいつはもう、一生この檻から出られない。名誉も、肉体も、精神も、すべてがお前の足元で消費されるためだけの玩具だ。お前が裏切られたあの日の復讐は、今、完璧な『日常』として完成したんだよ」
「ええ……」
マーリンは冷酷に微笑み、床で汚物に塗れながら自分を見上げるロキの瞳を見つめた。そこにはもう、一切の光はない。ただ、終わらない従属の輪舞曲の中で、主の慈悲だけを乞う、壊れた人形の目だけがあった。
偽りの英雄の破滅は、ここに永遠の安寧へと形を変え、マーリンの完全なる勝利が、昏い地下室を美しく支配していた。




