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崩壊の序曲

「――ああああっ、クソが! なぜだ、なぜ私の魔力が連動せん!!」

深夜の私邸、誰も立ち入ることを許されないロキの寝室に、獣のような絶叫が響き渡った。

高級な絹のシーツは引き裂かれ、床には高価な調度品が粉々に砕け散っている。その惨状の中心で、聖騎士ロキは自身の両手を見つめながら、狂ったように呼吸を乱していた。

彼の皮膚の下を這う黒い血管は、今や首元を越えて、その美しい顔の頬にまで達しようとしていた。

ロキが必死に聖魔力を練り上げようとすると、体内の魔力回路がガラスのように軋み、肺腑を抉るような激痛となって彼を襲う。かつて王宮の誰もが羨んだ白銀の輝きは完全に失われ、今や彼の身体から立ち上るのは、泥のように濁った、禍々しい灰色の魔力だけだった。

「呪いだ……! やはり誰かが私に呪いをかけている! 大神官め、あの老い損ない、私の検診で異常なしと抜かしおって……! 全員、私を陥れようとしているんだ!」

ロキの瞳は血走り、端正だった顔は恐怖と猜疑心で醜く歪んでいた。

一ヶ月後に迫った『聖誕祭の式典』。それは国王や全貴族、そして数万の民衆が詰めかける、この国で最も重要な国家的行事だ。そこでロキは、聖騎士団の長として『守護の儀式』を執り行い、自身の圧倒的な魔力を披露することになっている。

もし、あの舞台で魔術が不発に終われば――あるいは、この悍ましい灰色の魔力を民衆の前に晒してしまえば、彼の「輝ける英雄」としての地位は一瞬で崩壊する。

ガタガタと震える手で、ロキは枕元に置かれた呼び鈴を激しく打ち鳴らした。

「おい……! おい、マーリン! どこへ行った、さっさと来い、この家畜が!!」

扉が静かに開き、夜の闇に溶け込むようにしてマーリンが入ってきた。

その瞳には、相変わらず何の感情も宿っていない。ロキの狂気とも言える怒声を前にしても、彼女はただの精巧な人形のように、静かに一礼するだけだった。

「お呼びでございますか、ロキ様」

「酒だ……! あのハーブ酒を早く持ってこい! あれがないと、私の身体が、魔力が引き裂かれる!!」

ロキはベッドから這いずるようにしてマーリンの足元へすがりつき、彼女のメイド服の裾を強く掴んだ。かつてマーリンを足蹴にし、玩具として扱っていた男が、今や一介の奴隷が作る「毒杯」なしには一歩も動けないほどに依存しきっている。この滑稽な構図に、マーリンの胸の奥で、冷酷な愉悦が小さく弾けた。

「かしこまりました。すぐに御用意いたします」

マーリンはすぐさま部屋を出ると、地下の調合室へと向かった。

暗がりの調合室。アルコールランプの青い炎が揺れる中、マーリンがハーブの葉をすり潰していると、背後の影が妖しくうねり、魔女レイナがその姿を現した。

レイナはマーリンの細い腰に両腕を回し、その豊かな胸を彼女の背中に押し当てながら、嬉しそうにクスクスと笑う。

「あはは……! 見たかい、マーリン? あの哀れな『救世主』の無様な姿を。私の『魔噬のレイズ・ウーズ』が、あいつの魔力回路の根幹を完全に腐らせ尽くしたよ。今のロキは、お前の運ぶどくがなければ、激痛で発狂するだけのただの壊れた人形さ」

「ええ。でも、まだ終わりじゃないわ。レイナ。最後の仕上げを始めましょう」

マーリンは棚の奥から、これまで使っていたものとは異なる、真紅の液体が入った小瓶を取り出した。

「これは……『魔力沸騰の触媒ソル・インパルス』かい? 贅沢なものを使うね」

レイナが感心したように目を細める。

「ええ。ロキの魔力回路は、今や限界まで張り詰めた風船のような状態よ。『魔噬の泥』によって生じた無数の亀裂を、毎日のハーブ酒で無理やり塞いで、かろうじて形を保っているに過ぎない。……この触媒を今夜の酒に混ぜれば、ロキの体内に入った瞬間、塞がれていた亀裂が一気に開き、魔力が暴走寸前の状態で固定される」

マーリンの青い瞳が、暗闇の中で冷徹に光る。

「そして一ヶ月後、聖誕祭の式典で、あいつが最初の一小節の魔術を唱えた瞬間――張り詰めさせられた魔力が、民衆の目の前で、文字通り『大爆発』を起こすわ。あいつ自身の肉体と、聖騎士としてのプライドを巻き込んでね」

「素晴らしいよ、マーリン……! 本当に、お前を私の後継者にして正解だった。あいつから植え付けられた屈辱を、これ以上ないほど美しい『芸術じごく』に変えて返すんだね」

レイナは狂おしいほどの愛おしさを込めて、マーリンの耳たぶを優しく噛んだ。

魔女の冷たい吐息と、復讐の確信が、マーリンの全身を心地よい高揚感で満たしていく。

「さあ、持っていっておやり。哀れな王に、最後の毒杯を」

マーリンは真紅の液体を一滴、ハーブ酒の中へと落とした。琥珀色の液体が、一瞬だけ怪しく赤く染まり、すぐに何事もなかったかのように元に戻る。

トレイを手にしたマーリンは、確実な足取りで、ロキの待つ寝室へと戻っていった。

「遅い……! 遅いぞ、マーリン!!」

部屋に戻るなり、ロキはマーリンの手からグラスをひったくるようにして奪うと、貪るようにその液体を喉へと流し込んだ。

最後の一滴まで飲み干したロキは、ベッドの上に大の字になって倒れ込み、激しい荒い息を繰り返す。

「……はぁ、はぁ……っ! ああ、これだ……。痛みが、消えていく。魔力が……私の白銀の魔力が、戻ってくる……!」

ロキの視界の中では、自身の身体から再び力強い光が溢れ出ているように見えていた。だが、それは幻覚だった。

マーリンの冷徹な瞳が捉えていたのは、ロキの全身の皮膚の下で、黒い血管が「パチパチ」と音を立てて激しく脈打ち、文字通り破裂寸前の状態で固定されていく、おぞましい現実の姿だった。

ロキは自身の体調が「完全に回復した」と誤認し、下劣な笑みを浮かべて立ち上がった。

「フハハハ! 素晴らしい! やはり私は選ばれた英雄だ! 呪いなど、私の聖魔力の前には無力だったのだ! おい、マーリン!」

ロキはマーリンの顎を乱暴に掴み、その顔を強引に上向かせた。

「お前も見たか? 私のこの圧倒的な力を。一ヶ月後の聖誕祭では、私がこの国の頂点に立つ姿を、その濁った目で特等席から見ているがいい。お前のような落ちぶれた王族が、私の足元で隷属している姿を見せることで、私の栄光は完成するのだからな」

「……はい、ロキ様。聖誕祭の式典、心より楽しみにしております」

マーリンは、かつてないほどに従順な、そして最高に美しい「人形の微笑み」をロキに返した。

その微笑みの裏に、自分を地獄へと引きずり下ろす底なしの深淵が広がっていることなど、傲慢な聖騎士は知る由もなかった。

時が経つのは早く、王都は瞬く間に『聖誕祭』の当日を迎えた。

王宮の巨大な中央広場は、色とりどりの旗と、英雄ロキの姿を一目見ようと集まった数万の民衆で埋め尽くされていた。

中央に設置された壮麗な大祭壇の上には、国王をはじめとする王族一同、そして第一皇子アルベールの姿もあった。アルベールは、周囲の貴族たちと談笑しながらも、その視線は鋭く、祭壇の下で待機するロキの陣営へと向けられていた。

「さあ、いよいよ我が国の守護神、聖騎士ロキ殿の登壇です!」

司会の大神官の声が響き渡ると、地響きのような大歓声が広場を包み込んだ。

白銀の甲冑を完璧に着こなし、大剣を背負ったロキが、大歓声を浴びながらゆっくりと祭壇の階段を上っていく。その背後には、彼に仕える「従順なメイド」として、頭を垂れたマーリンが静かに付き従っていた。

ロキは祭壇の中央に立ち、民衆に向けて両腕を広げた。完璧な、輝ける英雄の仮面。

「我が愛すべき民よ! 今日、この聖なる日に、私は陛下と皆の平穏を願い、最高級の『守護結界』をこの王都に展開しよう! 刮目して見るがいい、これが我が聖魔力の光だ!!」

ロキが叫び、背中の大剣を抜いて天へと掲げた。

数万の民衆が息を呑み、彼の奇跡を待つ。

ロキが体内の魔力を練り上げ、呪文を唱えようとした――その、最初の一瞬だった。

「――『開門リベレ』」

ロキの後ろで、マーリンが小さく、誰にも聞こえない声で囁いた。

その瞬間、ロキの体内で一ヶ月間、限界まで張り詰めさせられていた魔力の風船が、内部から一気に爆発した。

「が、はっ…………!?!?!?」

ロキの口から、凄まじい量の鮮血が噴き出した。

天へ掲げた大剣から放たれたのは、美しい白銀の光などではなかった。それは、王宮の空を不気味に汚染するような、どす黒く、禍々しい『灰色の爆発』だった。

ドガガガガァン!!!

大祭壇を揺るがす大爆発とともに、ロキの白銀の甲冑が、内側からの魔力の暴走によって粉々に弾け飛んだ。

ロキは悲鳴をあげる暇もなく、全身の皮膚から血を噴き出しながら、大祭壇の床へと無様に転がった。その顔は、皮膚の下の黒い血管が完全に浮き出、まるで魔物のそれのように醜く変貌していた。

「な、なんだこれは……!?」

「ロキ様の魔力が……黒い!? まるで魔族の魔力ではないか!!」

「英雄様が……魔物に変わっていくぞ!!」

数万の民衆の歓声は、一瞬にして恐怖と、激しい拒絶の悲鳴へと変わった。

床に這いつくばり、血反吐を吐きながら、ロキはパニックに陥った目で自身の身体を見つめる。

「なぜだ……! なぜ私の魔力が暴走する!? 嘘だ、私は英雄だ、私は、私はぁぁぁ!!」

「――そこまでだ、大犯罪者ロキ」

その絶望の叫びを遮るように、冷徹な声が響いた。

第一皇子アルベールが、近衛兵を引き連れてゆっくりとロキの前に歩み出た。その手には、あの隠し書斎から押収された『奴隷売買と闇薬物の密輸帳簿』の本物が、高く掲げられていた。

「聖騎士ロキ! お前がこれまで『正義』の裏で手を染めてきた、罪なき子供たちの奴隷売買、そして禁忌薬物の密輸の全容が、この帳簿によって完全に証明された! お前がその身に宿す醜い魔力こそが、お前の邪悪な本性を表す何よりの証拠だ!!」

「な……、アル、ベール……殿、下……お前、なぜそれを……」

ロキは血に染まった顔を上げ、絶望に目を見開いた。

周囲の貴族たち、そして彼を崇めていた民衆の目が、一瞬にして「汚物」を見るような冷酷な軽蔑の目へと変わっていく。名誉、地位、信頼――彼がこれまで他者を踏みにじって築き上げてきた『すべて』が、今、完全に瓦傷の如く崩れ去った。

「捕らえよ! この国の法律に基づき、ロキのすべての資産と爵位を剥奪し、本日をもって最高等級の『犯罪奴隷』へと落とす!!」

アルベールの峻烈な命令が下り、近衛兵たちがロキの身体を乱暴に押さえつける。

抵抗する魔力すら失い、ただの無力な罪人となったロキは、涙と血に塗れた顔で、自身のすぐ横に立つ少女を見上げた。

そこにいたのは。

怯える家畜でも、壊れた人形でもない。

死の淵から蘇った魔女を背後に従え、圧倒的な勝者の光を瞳に宿した、最高に気高く、最高に冷酷な復讐者――マーリンの姿だった。

マーリンは、絶望のどん底で這いつくばるロキの顔を、文字通り「ゴミ」のように冷たく見下ろすと、その耳元へ、極上の甘美さを込めて囁いた。

「――さあ、私の可愛いお人形。これからは、私が貴方をたっぷりと可愛がってあげるわ」

偽りの英雄の完全なる社会的失脚。

そして、本当の地獄の幕開けだった。

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