聖騎士の毒杯
王都の喧騒から隔絶された聖騎士ロキの私邸。その一室で、ロキは鏡の前に立ち、自身の顔を忌々しげに睨みつけていた。
「……チッ、何だこれは」
端正な顔立ち、民衆を虜にする爽やかな微笑み。それらは健在だったが、衣服に隠れた胸元、そして首筋の皮膚の下を這う『血管』が、まるで黒い植物の根のように禍々しく変色し、微かに脈打っていた。
ロキが集中して聖魔力を練り上げようとすると、いつもなら白銀の美しい光を放つはずの魔力が、じりじりと煤けた灰色を帯び、体内の魔力回路を激しく逆流する。心臓を直接針で突き刺されるような、鋭い激痛が彼を襲った。
「ぐっ……、あ……!」
ロキは洗面台に両手を突き、荒い息を吐き出す。
この違和感が始まったのは、あの合同演習の少し前からだ。最初はただの疲労だと思っていた。だが、日に日に魔力の制御が効かなくなっている。かつては指先一つで上級魔術を起動できたというのに、今では簡単な身体強化の術式を維持するだけで、全身から嫌な汗が噴き出してくる。
(なぜだ……。私の身体は、大聖堂の加護を受けた完璧な『英雄』の肉体のはず。呪いか? いや、毎朝の検診でも異常は見つかっていない。大神官の鑑定魔術を潜り抜ける呪いなど、この世に存在するはずが――)
その時、背後の扉が音もなく開き、一人の少女が滑り込んできた。
完全に光を失った瞳、感情の消え失せた蝋人形のような表情。ロキが「完璧に調教し尽くした」と思い込んでいる、かつての王女にして今は一介の家畜、マーリンだった。
「ロキ様。朝の、特製ハーブ酒をお持ちいたしました」
マーリンは一切の迷いなく、銀のトレイに載せた、澄んだ琥珀色のグラスを差し出す。
ロキはそのグラスを、飢えた獣のようにひったくった。
「……おい、マーリン。この酒の調合を少し変えたか?」
ロキの鋭い眼光が、マーリンの無防備な顔を射抜く。聖騎士としての本能的な警戒心が、一瞬だけ働いたのだ。しかし、マーリンは睫毛一つ動かさず、ただロボットのように冷淡に頭を下げた。
「いいえ。ロキ様がお疲れとお見受けいたしましたので、心身の緊張を解きほぐす薬草の比率を、ほんのわずかだけ増やしてございます。お気に召しませんでしたでしょうか……」
「……いや、いい。お前の作る酒を飲むと、体内の痛みが一時的に和らぐのだ」
ロキは疑念を払い、グラスの中身を一気に煽った。
喉を滑り落ちる甘美な液体。その瞬間、体内を駆け巡っていたあの不快な激痛が、嘘のように霧散していく。ロキは深く安堵の息を吐き、マーリンの髪を乱暴に掴んで引き寄せた。
「フン、相変わらず気が利くな。完全に心が壊れても、私の肉体を癒やすための本能だけは残っているというわけだ。やはりお前は、一生私の足元で這い回るのがお似合いの玩具だよ」
「……勿体なきお言葉にございます、ロキ様」
髪を引っ張られる痛みに、マーリンの心は微塵も揺らがなかった。
彼女は知っている。ロキが感じている「痛みの緩和」は、単なる一時的な麻痺に過ぎないことを。レイナから授かった遅効性毒素『魔噬の泥』は、ロキの魔力回路を修復不可能なレベルまで破壊し尽くす直前、一時的に神経をマヒさせ、むしろ「体調が良くなった」と錯覚させる極悪な性質を持っていた。
(飲めば飲むほど、お前の命は縮まり、魔力は腐っていく。……もっとお飲みなさい、哀れな英雄)
うつむいたマーリンの口元に、ロキには決して見えない、悍ましくも美しい復讐者の笑みが浮かんでいた。
◇
ロキが王宮の騎士団長会議へと向かった後、マーリンはすぐさま地下の隠し部屋へと降りた。
そこには、すでに影から這い出て、豪奢な長椅子に横たわっている魔女レイナの姿があった。黒いドレスから覗くしなやかな脚を組み、真紅の瞳を妖しく光らせながら、彼女はマーリンを迎える。
「くすくす……、本当に傑作だね、マーリン。あの男、自分の魔力回路が完全にボロボロになっていることも気づかずに、お前の毒杯を喜んで飲み干している。あと一ヶ月もすれば、大魔術を使った瞬間に、体内の魔力が暴走して自滅する肉体の完成さ」
「ええ。でも、ただ肉体が自滅するだけじゃ足りないわ。レイナ。あいつが積み上げてきた『すべて』を、民衆の目の前で徹底的に叩き潰さなきゃ、私たちの復讐は終わらない」
マーリンはドレスの懐から、前回ロキの金庫から盗み出した『奴隷売買と闇薬物の密輸帳簿』の写しを取り出した。
そこには、ロキと繋がっている王宮の高級貴族、そして聖職者たちの名前がびっしりと並んでいる。
「この証拠を王宮に提出しても、今のロキの権力なら、握りつぶされるか、身代わりの部下を立てられて終わるわ。ロキを確実に社会的に抹殺するためには……この国でロキと対等に渡り合える、そしてロキの失脚を誰よりも望んでいる『大物』を味方に引き入れる必要がある」
レイナは長椅子から起き上がり、猫のように音もなくマーリンの背後へと忍び寄った。
その冷たい両手がマーリンの華奢な肩を包み込み、耳元で妖しく囁く。
「いいね、その冷徹な思考。お前は本当に、私の最高の傑作だよ……。で、目星はついているのかい? この腐った王宮の中で、あの『救世主ロキ』の首を欲しがっている、命知らずな大物が誰なのか」
「ええ。――第一皇子、アルベール殿下よ」
マーリンが告げた名に、レイナは歓喜に瞳を細めた。
アルベール・フォン・ルミナス。現国王の第一子でありながら、魔術の才能が皆無であるという理由だけで、民衆や教会からは「無能」と蔑まれ、次期王位継承の最有力候補から引きずり下ろされかけている不遇の皇子。
代わりに次期国王として祭り上げられようとしているのが、他ならぬ民衆の英雄、聖騎士ロキだった。
「アルベール殿下は、ロキが聖騎士の権力を利用して王位を簒奪しようとしていることを確信しているわ。でも、あいつの表向きの『完璧な聖人』の仮面を剥がす手段がなくて、煮え湯を飲まされ続けている。……この帳簿を殿下に届ければ、最高の武器になるはず」
「なるほどね。でも、どうやって一介の『奴隷の少女』が、厳重な警備が敷かれた皇子宮の殿下に接触するんだい? 下手をすれば、ロキの手先に気づかれてその場で消されるよ」
「だから、お前の力を借りたいの。レイナ」
マーリンはレイナに向き直り、その真紅の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「今夜、王宮で、英雄ロキの功績を称える『凱旋晩餐会』が開かれる。ロキは私を『従順なメイド』として、自慢のコレクション代わりに連れて行くつもりよ。晩餐会の最中、ロキが他の貴族たちと談笑している隙に、私が皇子宮へ潜入する。レイナ、お前の『認識阻害』の魔術で、私を影に溶け込ませて」
レイナはしばし沈黙した後、狂おしいほどの笑声をあげて、マーリンの身体を強く抱きしめた。
その豊満な胸にマーリンの顔が埋もれ、魔女の濃密な香気が脳を支配する。
「あはは! 面白い、最高にゾクゾクするよ! 聖騎士の晴れ舞台の裏で、その足元をすくうための密約を交わすなんてね。いいよ、私の可愛い毒人形。私の残りの魔力のすべてを使って、お前を完璧な『夜の支配者』にしてあげる。……その代わり、上手くいったら、今夜はたっぷりと私の『おねだり』に応えてもらうからね?」
レイナはマーリンの白磁のうなじに、痕が残るほど深く、熱い口づけを刻み込んだ。
痛みの後に広がる、痺れるような魔力の感覚。マーリンはその刺激に耐えながら、今夜始まる、命懸けのキャットウォークへと心を研ぎ澄ませていった。
◇
その夜。王宮の大舞踏会は、光り輝く魔法の灯火と、絢爛豪華なドレスを纏った貴族たちで埋め尽くされていた。
「いやあ、ロキ殿! 今回の東部国境の魔獣討伐もお見事でしたな! まさに我が国の至宝、次期国王にふさわしいお姿だ!」
「ハハハ、滅相もない。私はただ、陛下と民衆のためにこの剣を捧げているだけに過ぎませんよ」
会場の中心で、白銀の礼服に身を包んだロキが、貴族たちからの惜しみない賛辞を浴びていた。その顔には、完璧な「正義の味方」としての爽やかな笑みが張り付いている。
だが、その視線の先――彼のすぐ後ろには、地味なメイド服を着せられ、ただ操り人形のように佇むマーリンの姿があった。
ロキは時折、周囲に聞こえないような低い声で、マーリンに命令を下す。
「おい、家畜。グラスのワインが減っているぞ。さっさと注ぎ足せ。……フン、本当に気の抜けた顔をしやがって。だが、王族だったお前が、私の後ろで這いつくばっている姿を貴族どもに見せつけるのは、最高の気分だな」
「……失礼いたしました、ロキ様」
マーリンは感情のない声でワインを注ぐと、ロキが次の高級官僚との会話に夢中になった一瞬の隙を見逃さなかった。
彼女は静かに、人混みの影へと一歩退がった。
(――今よ、レイナ!)
心の中で叫んだ瞬間、マーリンの身体を、どす黒い影の衣がふわりと包み込んだ。
周囲の貴族たちの視線が、まるでマーリンという存在そのものを最初から認識していなかったかのように、綺麗に逸れていく。魔女レイナの『認識阻害』の術式だ。
マーリンは足音を完全に消し、華やかな舞踏会会場を抜け出して、王宮の最奥に位置する「第一皇子宮」へとひた走った。
薄暗い廊下を抜け、重厚な扉の前に達する。部屋の隙間から漏れるのは、微かな書類をめくる音と、重苦しい溜息。
マーリンは意を決して、ノックもせずに扉を押し開けた。
「――誰だ!? 許可なく立ち入ることは許されんぞ!」
机の前に座っていた、神経質そうな、しかし気品溢れる容貌をした青年――第一皇子アルベールが、驚愕と警戒を露わにして立ち上がった。彼の周囲の近衛兵が即座に剣を抜くが、マーリンは静かに影の衣を脱ぎ捨て、その場に気高く跪いた。
「お騒がせして申し訳ありません、アルベール殿下。……私は、元第二王女、現在は聖騎士ロキの奴隷と成り下がった、マーリンにございます」
「何……!? マーリンだと? お前、あの男の玩具にされて心が壊れたと聞いていたが……」
アルベールが目を見開く。目の前にいる少女の瞳には、壊れた人形などではない、燃えるような憎悪と、確固たる知性の光が宿っていたからだ。
「すべては、あの偽りの英雄を油断させるための演技にございます。殿下……お時間がありません。単刀直入に申し上げます。貴方様を脅かす、あのロキを泥の底へ引きずり下ろす『決定的な牙』を、お持ちいたしました」
マーリンはメイド服の奥から、本物の『奴隷売買・闇薬物密輸帳簿』を差し出した。
アルベールは怪訝そうにそれを受け取り、ページをめくった瞬間、その顔から完全に血の気が引いた。
「これ、は……っ!? ロキが、裏で奴隷オークションを主催していただと!? それに、この署名は……王宮の大神官と、右大臣の……!!」
「ええ。ロキがこれまで『正義』の裏で手を染めてきた、すべての悪行の証拠にございます。これがあれば、どれだけ民衆が奴を支持しようとも、王法によって合法的に処刑、あるいは犯罪奴隷へと落とすことが可能です」
アルベールの身体が、興奮と歓喜で小刻みに震え始める。
「素晴らしい……! これだ、これをずっと探していた! これで、あの傲慢な聖騎士を、我が足元へ平伏させることができる……! だが、マーリン。なぜロキの奴隷であるお前が、リスクを冒してまで私にこれを届ける?」
マーリンはゆっくりと顔を上げた。その青い瞳に宿る、底知れない闇を見たアルベールは、思わず息を呑んだ。
「理由はただ一つ。あいつの持つすべてを奪い、絶望の極みの中で、合法的に『私の奴隷』として買い取るためです。殿下……あいつを社会的に告発する舞台は、一ヶ月後の『聖誕祭の式典』が最適かと存じます。その時、あいつの自慢の聖魔力は、私の一手によって、民衆の前で完全に『暴走』する仕掛けになっておりますから」
「魔力の、暴走……?」
「詳細はお任せください。殿下はただ、その瞬間にこの帳簿を突きつけ、奴の退路を断ってくだされば結構です。……英雄が、一瞬にして大犯罪者へと転落する、最高のショーをお見せいたしましょう」
アルベールは、目の前の少女の冷酷な美しさと、背後に感じる圧倒的な「魔女の気配」に気圧されながらも、深く、満足げに頷いた。
「面白い……。乗ろう、その取引。一ヶ月後、聖誕祭の式典で、あの偽りの英雄に、極上の死を与えてやろう」
「感謝いたします、殿下……」
密約は成った。マーリンは再び影の衣を纏うと、驚くアルベールを残して、音もなく部屋を去っていった。
大舞踏会会場へと戻ったマーリンは、何食わぬ顔でロキの後ろへと再び収まった。
ロキは相変わらず、貴族たちと談笑しながら、上機嫌でワインを飲んでいる。
「おい、マーリン。どこへ行っていた。少し離れるのが遅いぞ」
「申し訳ありません、ロキ様。お酒の追加を片付けておりました……」
「フン、手際が悪いな。帰ったら、たっぷりとお仕置きをしてやらねばな」
ロキはゲスな笑みを浮かべ、マーリンの腰を乱暴に引き寄せた。
だが、マーリンは心の中で、ただ静かにカウントダウンを始めていた。
(ええ、ええ。たっぷりとお仕置きをしてちょうだい、ロキ。一ヶ月後、お前がすべてを失って、私の足元で泣き叫ぶ、その瞬間までね――)
偽りの英雄の破滅のカウントダウンが、今、明確に時を刻み始めた。




