従順な人形と、操る魔女
「――おい、マーリン。昨夜のハーブ酒は実に見事だったぞ。ここ数年の不眠が嘘のように、泥のように深く眠れた。家畜の分際で、なかなか役に立つ薬を調合するものだ」
朝の陽光が差し込む豪奢な食堂。聖騎士ロキは、給仕をするマーリンに見向きもせず、最高級の白磁の皿に盛られた肉料理をナイフで切り裂きながら、満足そうに鼻を鳴らした。
「恐れ入ります、ロキ様。お体に合いましたようで、何よりでございます……」
マーリンは感情を一切排した、平坦で機械的な声で頭を下げた。その瞳は完全に濁り、床の一点を見つめたまま微動だにしない。かつてロキの暴力を前にして、怯え、涙を流し、人間としての尊厳を守ろうと必死に抗っていた美しい少女の姿は、そこには影も形もなかった。
ロキはその様子を、酷く退屈そうに、しかし「完璧に支配し尽くした」という歪んだ全能感を満たしながら横目で一瞥する。
「本当に、すっかりつまらん置物になり下がったな。まぁいい。お前が従順な人形のままでいる限り、夜の玩具としての価値はともかく、屋敷の雑用を任せる分には都合がいい。今夜も同じ酒を用意しておけ」
「御意のままに」
マーリンはさらに深く頭を下げた。前髪の影に隠れた彼女の唇が、一瞬だけ、凍てつくような弧を描いたことなど、目の前の『輝ける英雄』は毛頭気づいていない。
ロキが絶賛したその安眠は、レイナから授かった遅効性の毒素『魔噬の泥』が、彼の肉体を確実に蝕み始めている証拠だった。
この毒は、最初はただの心地よい疲労感と深い眠りをもたらす。しかしその裏では、ロキの強大な聖魔力を練り上げる『魔力回路』の根幹に、目に見えない微細な亀裂を少しずつ、しかし確実に刻み込んでいるのだ。
ロキが食事を終え、民衆の前に立つための白銀の甲冑を身に纏い、傲慢な足音を響かせて王宮へと出仕していく。
バタン、と重々しい玄関の扉が閉まり、屋敷から主の気配が完全に消え去った。
「……さあ、始めましょうか」
マーリンは手に持っていた銀のトレイを静かに置くと、濁っていた瞳に、一瞬にして冷徹な知性の光を蘇らせた。
今日からロキは、王宮での長期にわたる聖騎士団の合同演習のため、三日三晩、この私邸を留守にする。他のメイドたちも、ロキの命令で別邸の清掃に駆り出されており、この広大な私邸に残されているのはマーリンただ一人。
ロキの裏の顔――奴隷売買と闇薬物の密輸ルートを示す『決定的な証拠』を掴む、これ以上ない絶好の機会だった。
◇
マーリンは足音を消し、ロキの最奥のプライベートエリアである「隠し書斎」へと向かった。
一等航海士が使うような精密な鍵がかけられた重厚なマホガニーの扉の前に立ち、マーリンは自身の胸元から、一本の奇妙な形状をした銀の針を取り出す。
「――『影の鍵』。私の可愛いお人形、上手く潜り込めたようだね?」
不意に、背後の影がぐにゃりと歪み、そこから溢れ出た黒霧が、妖艶な美女の形を成した。
夜の深淵を溶かしたような黒髪に、淫らに輝く真紅の双眸。魔女レイナが、自身のわずかな魔力を影に潜ませて実体化させたのだ。彼女がマーリンの背中にしなだれかかると、豊満な胸の弾力と、脳を狂わせるような甘美な香気が狭い廊下に充満する。
「レイナ……。ええ、ロキは演習のために屋敷を空けたわ。今、この館には私しかいない」
「くすくす、あの大馬鹿者、完全に私の毒に脳を蕩けさせているね。聖騎士の鑑定魔術を過信して、まさかただの奴隷の少女が裏で糸を引いているとは夢にも思っていない。……さあ、鍵を開けよう。その針を鍵穴に差し込んで、私の魔力を流し込むんだ」
レイナはマーリンの手の上から自身の細い手を重ね、銀の針を鍵穴へと導いた。
チリ、と微弱な黒い魔力が鍵穴の内部へ侵入し、複雑な金属の噛み合わせを一本ずつ、強制的に書き換えていく。
カチャリ。
静かな館内に、解放の音が響いた。マーリンが扉を押し開けると、そこには外の華やかな装飾とは一線を画す、窓のない、陰鬱な空間が広がっていた。壁一面に並ぶ本棚には、禁忌とされる魔術書や、出所不明の怪しげな古文書が並んでいる。
「ここね……。ロキが夜な夜なこもり、裏の組織と書類を交わしていた部屋」
マーリンはすぐさま、部屋の中央にある巨大な執務机へと向かった。引き出しの隅々まで調べ、書類の束を裏返していく。しかし、出てくるのは表向きの領地報告書や、騎士団の予算書ばかりだった。
「おかしいわ。奴隷売買の帳簿なんて、こんな分かりやすい場所には置かないはず……」
「焦らないで、マーリン。あいつのゲスな性格を思い出しなさい。自分より身分の低い者を踏みにじることでしか快感を得られない男が、最も大切な『悪の果実』をどこに隠すと思う?」
レイナは妖しく微笑みながら、部屋の壁に掛けられた、一枚の巨大な絵画の前へと歩み寄った。
そこに描かれていたのは――数ヶ月前、ロキ自身が魔女レイナを処刑し、民衆から大喝采を浴びている、おぞましい「英雄の凱旋図」だった。
「……私の処刑画の後ろなんて、最高に趣味が悪くて、あいつらしいと思わないかい?」
レイナが絵画の額縁に手をかけ、横へとスライドさせる。
すると、壁の石組みがくり抜かれ、そこには頑丈な鉄製の金庫が埋め込まれていた。その表面には、ロキの聖魔力で強固にロックされた、高度な『血統認証の結界』が張り巡らされている。
「ロキの血、あるいはそれに匹敵する魔力回路の鍵がないと、無理やり開ければ爆発して証拠ごと消滅する仕組みだね。今の私の魔力では、この結界を強引に破ることはできない……」
レイナが悔しそうに真紅の瞳を細める。しかし、マーリンは怯まなかった。
彼女は自身の首元に触れた。そこには、かつてロキの暴力によって刻まれ、毎夜彼に蹂術される中で、彼の魔力を「直接浴びせられ続けた」記憶が、肉体に染み付いている。
「いいえ、方法はあるわ。レイナ、私の身体を使って」
「おや、どういう意味だい?」
「ロキは毎夜、私をいたぶる時、自身の優位性を示すために、私の体内に無理やり彼の聖魔力を流し込んできた。私の肉体には、奴の魔力の『残滓』が、呪いのように深く刻み込まれているの。……お前の知恵で、私の血の中に眠るロキの魔力を、一時的に抽出して」
レイナは驚いたように目を見開いた後、ゾクゾクとするような歓喜の笑みを浮かべた。
「あはは! 本当に、お前という子は……最高に狂っていて、最高に愛おしいよ、マーリン!」
レイナはマーリンを金庫の前に立たせると、その背後から彼女の身体を完全に密着させた。魔女の冷たい指先が、マーリンの右手のひらを引き裂き、鮮血を溢れさせる。
そして、レイナの唇が、マーリンのうなじへと深く寄せられた。
「ん……っ、あ……!」
レイナの舌がマーリンの肌を這うたび、マーリンの体内に眠っていた、ロキから植え付けられた不快な「白銀の魔力」が、嫌悪感とともに呼び覚まされ、手のひらの血へと集約されていく。魔女の妖艶な調教と導きによって、マーリンの血は、ロキの魔力そのものの色へと変色していった。
「さあ、その血に濡れた手を、金庫の結界へ押し当てるんだ。世界を騙した英雄の、本当の姿を暴くために!」
レイナの熱い吐息に押されるように、マーリンは血に染まった手のひらを、金庫の魔方陣へと強く押し当てた。
ジジ、ジジジ……カシャァン!
眩い白銀の光が弾け、次の瞬間、金庫の重厚な扉が静かに開いた。
その内部に収められていたのは、数冊の黒い革調のノート。マーリンがそれを手に取り、ページをめくると、そこには目を疑うような記述がびっしりと並んでいた。
『○月○日、東部の村より、身寄りのない子供12名を確保。裏オークションにて貴族達へ売却。利益、金貨400枚』
『○月○日、禁忌薬物「黒の誘惑」の流通ルートを、隣国の密輸商人と締結。王宮の検問は聖騎士の権限でスルー』
さらには、これまでロキにおねだりされ、闇奴隷や薬物を買い漁っていた、王宮の高級貴族や神官たちの「署名入りの誓約書」までが、完璧な形で保管されていた。
「掴んだわ……。これが、ロキの……輝ける聖騎士の、本当の姿」
マーリンの青い瞳に、冷酷な勝利の光が宿る。これだけの証拠があれば、どれだけ民衆に愛されていようとも、ロキの社会的破滅は免れない。
「よくやったよ、マーリン。さあ、その帳簿をここに置きなさい。私の『複写幻影』の魔術で、見た目も中身も寸分違わぬ偽物を作り、本物は私たちが回収する。あいつが演習から戻っても、何一つ気づきはしないさ」
レイナが妖しく指を振ると、黒い霧が帳簿を包み込み、完璧な複製を作り出した。本物の帳簿をドレスの影へと仕舞い込みながら、レイナはマーリンの頬に、濡れた指先を滑らせる。
「これで、奴を地獄へ送る『爆弾』の導火線は手に入った。次は、この爆弾をどのタイミングで、誰の手を使って爆発させるか、だね……」
「ええ。最も華やかで、最も残酷な舞台を用意してあげるわ」
隠し書斎の暗闇の中、本物の心を失った人形と、死の淵から蘇った魔女の笑い声が、冷酷に重なり合っていた。
◇
二日後。
長期の合同演習を終えた聖騎士ロキは、心身ともに疲れ果てた様子で屋敷へと戻ってきた。
白銀の鎧には埃が付き、その端正な顔には、微かな焦燥感が滲んでいる。
(クソ、ここ数日、どうも体の調子がおかしい……。剣を振るうたび、体内の魔力が妙に逆流するような違和感がある。演習の疲れか? それとも……)
ロキは自身の体調の異変に苛立ちながら、自室の椅子に深く腰掛けた。
そこへ、ノックの音とともに、完全に感情を失った虚無の瞳をしたマーリンが、静かに盆を持って入ってきた。
「ロキ様。お疲れの体に、今夜も特製のハーブ酒を用意いたしました……」
「……ああ。そこに置いて失せろ」
ロキは冷酷に言い放ち、マーリンからハーブ酒のグラスを奪い取るようにして受け取った。
マーリンが静かに部屋を退出していく。その背中を見送りながら、ロキはグラスの中の、妖しく澄んだ液体を一気に飲み干した。
「ふぅ……。やはり、この女の作る酒だけは、私の体を芯から癒やしてくれる……」
ロキは満足そうに息を吐き、ベッドへと倒れ込んだ。
彼には見えていなかった。グラスの底に、鑑定魔術では決して検知できない、紫色の極小の結晶――『魔噬の泥』が、彼の魔力回路の奥深くへと、さらに深く根を張っていく瞬間が。
そして、部屋の外の暗がりに佇むマーリンが、かつてないほどに美しく、冷酷な「従順な人形の微笑み」を浮かべていたことを。




