壊れた奴隷
激しい嵐が王都を叩きつける中、ロキの私邸の最上階、雨の届かない暗がりに二人の女が密に佇んでいた。
契約の証として交わされた、深く、舌を絡ませるような妖艶な口づけ。その甘美な残韻に、マーリンの白磁の唇が微かに濡れて光る。レイナは満足げに微笑むと、マーリンの華奢な腰を抱き寄せたまま、自身の細い指先を彼女の首輪へと滑らせた。
「まずは、この無粋な首輪をどうにかしないとね。……『解呪』」
レイナが小さく囁き、呪文を唱える。彼女の真紅の瞳が怪しく発光すると、その指先から一筋のどす黒い魔力が放たれ、鉄の首輪へと染み込んでいった。
ギチ、ギチ、と不快な金属音が響き、内側の無数の突起が、マーリンの柔肌からゆっくりと引き抜かれていく。パチン、と重々しい音を立てて、黒鉄の首輪が床へと転がり落ちた。
「あ……っ……」
首回りを襲っていた、皮膚を削るような鈍い激痛と、絶え間ない圧迫感からの解放。マーリンは思わず己の首元を手で覆い、荒い息を吐く。首輪が外れた跡には、突起が食い込んでいた生々しい穴から、今も赤い血が幾筋も滴り落ちていた。
「おっと、動いちゃダメだよ。……ほら、じっとして」
レイナはくすくすと妖しく笑いながら、マーリンの傷ついた首元へ、自身の濡れた唇をそっと押し当てた。
吸血鬼のように、滴る鮮血をねっとりと舌で舐めとっていく。肉びたきが、じくじくと痺れるような感覚。失われたはずの魔術の残滓――ごく微弱な治癒の魔力がレイナの唾液を通じて浸透し、マーリンの傷口を瞬く間に塞いでいった。
「ん……、ふふ。本当に極上の肉体だ。傷の治りも早い。あの男が狂ったように執着する理由が、肌を通じて伝わってくるよ」
レイナの吐息が耳元をに触れるたび、マーリンの身体にゾクゾクとした戦慄が走る。この魔女は、救世主などではない。ロキとはまた違うベクトルで、底の知れない危険と魔性を孕んだ存在だ。しかし、今のマーリンにとって、その毒々しい美しさだけが唯一の生命線だった。
「レイナ……私は、これからどうすればいい? あいつを殺すには、どうしたら……」
逸る気持ちを抑えきれず、青い瞳に憎悪の炎を宿して問いかけるマーリン。だが、レイナは彼女の豊かな胸元に細い指を這わせ、衣類の上から意地悪くその先端をなぞった。
「焦りは禁物だよ、可愛いお人形。今の私が使える魔力は、見ての通り首輪の外し方を細工し、小さな傷を癒やすのが限界。あいつ――ロキの戦闘力は、本物の『英雄』だ。まともに戦えば、私たちなんて一瞬で消し炭にされる」
レイナの瞳が、冷徹な理性の光を帯びる。
「あいつを殺すんじゃない。あいつの持つ『すべて』を奪うんだよ。名誉、地位、資産、そして信者どもの信頼……。それらを白日の下に曝け出し、民衆の手で奴を泥の底へ引きずり下ろさせる。四面楚歌、絶望の極みに達したロキを、合法的に『犯罪奴隷』として買い取る。それが、私たちの目指す最高のゴールさ」
そのためには、緻密で、絶対に失敗の許されない「悪知恵」が必要だった。
「明日から、お前はあいつの前で、完璧な『心を失った家畜』を演じるんだ」
「え……?」
マーリンの顔が、恐怖で強張る。また、あの地獄のような夜に戻れというのか。
「怖がらなくていい。あいつが求めているのは、お前の肉体そのものじゃない。高貴で美しい少女の『尊厳が破壊される瞬間』、その快感に依存しているだけ。なら、それを逆手に取るのさ。あいつが暴力を振るおうとしたら、怯えるのをやめ、ただ虚無の瞳で、あいつの望む通りの『壊れた玩具』になりきる。そうすれば、ロキは急速にお前への興味を失い、同時に『完全に屈服させた』と思い込んで油断する」
レイナはドレスの奥から、怪しく濁った紫色の液体が入った、親指ほどの小さな硝子瓶を取り出した。
「これは『魔噬の泥』。私が現役時代に調合した、最高級の遅効性毒素の触媒だよ。魔力を一切帯びておらず、通常の鑑定魔術では絶対に検知できない。これを、毎夜、あいつの寝酒に一滴ずつ混ぜるんだ」
「毒……。あいつを弱らせるの?」
「いや、肉体は傷つけない。この毒が蝕むのは、あいつの『魔力の制御器官』さ。毎日少しずつ、本当に微量ずつ、あいつの体内の魔力回路を狂わせていく。数ヶ月後――あいつが人生で最も重要な局面を迎えたその瞬間に、自慢の聖魔力が完全に暴走し、あいつ自身を崩壊させるようにね。ふふ、想像するだけで、身体が疼いてこないかい?」
レイナはマーリンの背後に回り込み、その華奢な身体を包み込むように抱きしめた。魔女の香気と、冷酷な復讐のシナリオが、マーリンの脳髄を心地よく麻痺させていく。
「あいつの油断を誘い、私たちが裏で動くための時間を稼ぐ。そして、屋敷の隠し書斎にある『奴隷売買の帳簿』と『密輸ルートの証拠』を掴む。それがお前の役目だよ、マーリン。……できるね?」
マーリンは、自身の細い拳を強く握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、血が滲む。だが、その痛みさえも、復讐への極上のスパイスだった。
「やるわ。あいつを地獄に落とせるなら、私はどんな悪魔にだって魂を売る」
「よく言った。お前は私の、最高に美しくて、最高に冷酷な毒人形だ」
レイナは再び、マーリンの唇に甘い口づけを落とすと、影が溶けるように、嵐の闇の中へと姿を消した。後に残されたのは、床に転がる鉄の首輪と、完全に復讐の鬼へと変貌を遂げた一人の少女だけだった。
◇
翌朝。嵐は去り、澄み渡るような青空が王都を包んでいた。
ロキの私邸の地下室には、いつも通り、傲慢な足音が響き渡る。
「おい、家畜。朝だぞ。さっさと這い出てきて、私の靴を磨け」
部屋の扉を乱暴に蹴り開け、入ってきたのは、これから王宮の定例会議へと向かう聖騎士ロキだった。その顔には、相変わらず「正義の味方」としての爽やかな仮面が張り付いているが、瞳の奥には、マーリンをいたぶるための嗜虐の光がぎらついていた。
床に横たわっていたマーリンは、ゆっくりと身体を起こした。
その首には、昨夜レイナが細工した、偽物の「鉄の首輪」が再び嵌められている。見た目は完全に元通りだが、内側の突起はすべて削り落とされ、ただの飾りと化していた。
マーリンはロキを見上げた。
いつもなら、彼の姿を見ただけで、身体が恐怖にすくみ、涙が溢れ、必死に許しを請うていた。
しかし、今の彼女の瞳には、何の感情もなかった。
レイナに教えられた通り、光を失った、完全に魂の抜け殻となった「虚無の目」で、ただじっとロキを見つめる。
「……なんだ、その目は」
ロキが不快そうに眉をひそめた。
彼はマーリンの髪を乱暴に掴み、強引に顔を近づける。
「おい、怯えろよ。いつもみたいに、泣き叫んで私に縋り付いたらどうだ? 反抗する気力すら失くしたか?」
グイ、と髪を引っ張られ、頭皮に激痛が走る。だが、マーリンの心は微動だにしなかった。彼女はただ、無機質な地上の泥を見るような目で、ロキの端正な顔を見つめ返した。
(あぁ、この男は、なんて哀れで、下劣な存在なのだろう)
心の中で、マーリンは冷酷に笑っていた。
民衆に崇められ、世界の中心にいる気になっているこの男は、今、自分の手のひらの上で転がされようとしている。その事実が、マーリンの胸に、かつてない歪んだ快感をもたらしていた。
「チッ、つまらん。完全に壊れやがったか。一級品の品物だから、もう少し長く遊べると思ったんだがな……。やはり家畜は家畜か」
ロキは興が削がれたように、マーリンの髪をゴミのように投げ捨てた。
彼が求めていたのは、抵抗するプライドを「へし折る」快感だ。最初から完全に壊れてしまった人形には、何の価値も見出せない。ロキの瞳から、マーリンに対する執着と警戒が、急速に薄れていくのが分かった。
「おい、そこに転がっているワインのボトルを片付けておけ。それと、今夜は私の寝室に、特製のハーブ酒を用意しておけ。最近、少し寝付きが悪くてな」
「……畏まりました、ロキ様」
マーリンは、感情の消えた声で、深く頭を下げた。
床に伏せた彼女の口元が、狂おしいほどの愉悦で、歪に吊り上がっていることなど、傲慢な英雄は知る由もなかった。
「ふん、精々メイドの雑用として、死ぬまで粉骨砕身働くんだな」
ロキは吐き捨てるように言うと、自身の白銀の外套を翻し、足早に部屋を去っていった。
バタン、と重い扉が閉まる。
静寂が戻った地下室で、マーリンはゆっくりと立ち上がった。
彼女の手には、昨夜、レイナから手渡されたあの小さな硝子瓶が握られていた。
「ええ、用意してあげるわ、ロキ。お前の命を、名誉を、すべてを蝕む……最高に極上の、お酒をね」
少女の呟きは、誰に届くこともなく、暗い地下室の壁に吸い込まれていった。
偽りの英雄の破滅へ向けた、最初の歯車が、静かに、しかし確実に回り始めた。




