奴隷と聖騎士と魔女
「――ロキ様! 万歳! 王国の至宝、輝ける聖騎士ロキ様に永遠の栄光あれ!」
地鳴りのような歓声が、王都の青空をどこまでも震わせていた。頭上からは、祝福の色彩を帯びた薔薇の花びらが惜しみなく降り注ぎ、白銀の甲冑に美しく撥ねる。中央大通りを堂々と行進するその男の姿は、まさに神話から抜け出してきた英雄そのものであった。
聖騎士ロキ。国を滅亡の淵へと追いやった稀代の魔女レイナを討ち払い、あまたの民を絶望から救い出した、清廉潔白を絵に描いたような男。彼は、彫刻のように整った端正な顔立ちに一切の奢りを感じさせない、慈愛と気品に満ちた完璧な微笑みを湛え、群衆へと優雅に手を振っていた。
「みんな、ありがとう。私はただ、この美しい王国の平和と、皆のささやかな笑顔を守りたいだけだ。私の剣は、常に弱き人々のためにある」
その凛とした、鈴の鳴るような美声が響くたび、うら若き乙女たちは狂喜の悲鳴を上げ、老人たちは涙を流して地べたに跪き、感謝の祈りを捧げた。誰一人として疑う者などいなかった。彼こそが、神の正義を地上で体現する、無垢なる救世主であると。
――だが、その眩すぎるほどの黄金の光が強ければ強いほど、彼がその背後に落とす影は、どす黒く、深く、吐き気を催すほどに酷悪に濁りきっていた。
◇
王都の一等地にそびえ立つ、壮麗なロキの私邸。その最奥、陽の光はおろか、世界のあらゆる慈悲さえも届かない地下深くの拷問室――否、彼の『遊戯室』。
ひんやりとした不快な湿気を帯びた石畳の床に、一人の少女が、まるで打ち捨てられた肉塊のように這いつくばっていた。名前は、マーリン。絹のように滑らかで、月光を編み込んだかのような美しい銀髪。夜空の最も深い場所から星を切り取ってきたかのような、神秘的な美を宿す青の瞳。ただそこに静ずくだけで、一流の宮廷画家ですら筆を震わせるほどの、圧倒的な気品と美貌を備えた少女だった。
しかし、現在の彼女にその面影を探すのは困難を極めた。衣服はボロ布同然に引き裂かれ、露出した白磁の肌には、生々しい赤紫色の打撲痕や、皮膚が裂けて凝固した血の筋が、まるで呪いの刺青のように無数に刻み込まれている。そしてその細い首には、内側に無数の小さな突起が仕込まれた、重々しい漆黒の鉄の首輪が容赦なく嵌められていた。少しでも身動ぎすれば、突起が柔肌に食い込み、鋭い痛みが走る仕組みだ。
「おい、家畜。主人が戻られたというのに、出迎えの挨拶も満足にできないのか? ずいぶんと耳が遠い雑種犬だな」
昼間の民衆を魅了した聖なる響きは、そこには微塵もなかった。鼓膜を不快に揺さぶるその声は、低く、ねっとりとした嗜虐の愉悦にひどく歪んでいる。白銀の鎧を脱ぎ捨て、血のように赤い豪奢なシルクの部屋着を纏ったロキが、極上のヴィンテージワインが注がれたクリスタルグラスを片手に、冷酷極まりない双眸でマーリンを見下ろしていた。
「……う、あ……も、申し訳ありません、ロキ……様……」
カサカサにひび割れた唇を震わせ、マーリンは額を冷たい石畳にこすりつける。少しでも言葉に詰まれば、あるいは彼の気に食わない呼吸をすれば、それだけで肉体を文字通りの『サンドバッグ』にされることを、彼女の身体は恐怖と共に完璧に理解していた。衣服で隠れる部分を選び、内臓に響くような容赦のない拳、あるいは鉄の芯が入った鞭が、彼女の華奢な骨を軋ませ、肉をすり潰すのだ。表舞台に出る時は、高度な治癒魔術で『傷跡だけ』を消去され、再び新品の玩具としてこの部屋に戻される。それが彼女の日常だった。
「ふん、声が小さい。まあいい、今日の民草どもの熱狂は、実に反吐が出るほど退屈でね。どいつもこいつも、私が少し微笑んでやれば涙を流して財布を差し出す。あんな無能な豚どもを守ってやっているのだから、私は世界で最も偉大な聖人だよ。なぁ、そう思わないか、マーリン?」
ロキは冷笑しながら、手にしたグラスを不意に傾けた。傾けられた赤黒い液体――血のように濃厚なワインが、マーリンの美しい銀髪の頭頂部へと、容赦なく、とろりと注ぎ込まれていく。
「あっ……」
「おっと、手が滑った。おい、汚いぞ。せっかくの美しい顔が台なしだ。ほら、私の床を汚すな。その卑しい舌で、綺麗に舐めとれ。一滴も残すなよ。絨毯に染み込んだ分は、歯を立てて吸い尽くせ」
マーリンの細い肩が、屈辱と絶望、そして底知れない自己嫌悪で激しく震える。彼女とて、かつては誇りある人間の娘だった。それをこの男は、ただの『物』、あるいは家畜以下の存在として徹底的に調教し、その尊厳が粉々に砕け散る瞬間を、何よりも好んだ。
拒絶すれば、さらに凄惨な「夜の責め苦」が待っている。彼女は涙を枯らし、奥歯を噛み締めながら、四つん這いの姿勢のまま、冷たい石畳へと舌を這わせた。ワインの渋みと、床に付着した鉄錆と泥の味が、彼女の口内にじわりと広がる。その惨めな姿を上空から見下ろしながら、ロキは喉を鳴らし、下卑た獣のような笑い声を上げた。
「ハハハハハ! 傑作だ! 最高だな、マーリン! 外で私を神のように崇めている愚民どもに見せてやりたいよ! 高潔なる聖騎士様が、誰もが振り返るような絶世の美少女を犬のように四つん這いにさせ、泥水を啜らせているこの極上の光景をな!」
ロキは突然、ワインで濡れそぼったマーリンの銀髪を、頭皮が引きちぎれんばかりの力で鷲掴みにし、無理やりその顔を仰向けにさせた。首輪の突起が喉元に深く突き刺さり、鮮血が伝う。息が詰まるほどの至近距離。ロキの瞳に宿っているのは、底なしの加虐欲と、歪みきった全能感だけだった。
「お前は本当に素晴らしい。どれだけ痛めつけても、どれだけ泥を啜らせても、その瞳の奥にほんの少しだけ『人間としての光』が残っている。それを、毎夜、毎夜、私の手でじわじわと、なぶり殺していくのが堪らないのだ。お前のような一級品を、誰にも怪しまれずに仕入れられるのも、私が国を救った『英雄』だからこそだ。裏の奴隷売買も、薬物の密輸も、すべてはこの地位があるからこそ誰にも暴けない。私が法であり、正義なのだからな」
彼はマーリンを乱暴に引きずり、冷たいベッドへと放り投げた。ボロ布が完全に引き裂かれ、彼女の無防備な肉体が曝け出される。ロキの冷酷な指先が、這い回る蛇のように彼女の肌を執拗に、そして容赦なく蹂躙し始めた。激しい苦痛と、それ以上に耐え難い精神的な強姦。マーリンは天井のシミを見つめ、ただ己の心を虚無へと沈めた。抵抗すれば狂気の暴力が増すだけだ。早く私を壊して、殺してくれ、誰か、誰でもいいから――。
漆黒に塗り潰された夜の地下室で、少女の音にならない絶望の悲鳴だけが、ただ虚しく、冷酷に響き渡っていた。
◇
それから、どれほどの永い地獄が通り過ぎただろうか。
昼は他のメイドたちから「奴隷」「ロキ様の玩具」と蔑まれながら過酷な労働を強いられ、夜はロキの歪んだ性欲と嗜虐欲をぶつけられる、終わりなき拷問の日々。マーリンの心は、すでに限界という境界線を遥かに超え、完全に擦り切れていた。
ある日、偶然に手に入れた手鏡で己の顔を見る。かつて美しいと称えられた青い瞳は、完全に光を失い、腐った沼のように濁りきっていた。生気のない、動くだけの屍。これ以上生きていれば、本当に心まで完全な『家畜』になってしまう。
(もう、嫌……消えたい……何もかも、終わりにしたい……)
この無限の地獄から逃れる術は、たった一つしかなかった。ロキが自分に飽きれば、待っているのはさらに劣悪な、死ぬまで犯され続けるような闇オークションへの売却だ。なら、せめて――自分という存在の最後の決定権だけは、この命を終わらせる権利だけは、奴に渡さない。
凄まじい嵐が吹き荒れる夜だった。窓を叩く激しい雨音と落雷の轟音が、世界を覆い尽くしていた。ロキが大量の高級酒と怪しげな薬物を摂取し、泥のように眠り込んだ隙を突いて、マーリンは音もなく部屋を抜け出した。傷だらけの裸足のまま、激しい雨風が吹き荒れる、最上階の開放されたバルコニーへと向かう。
吹き付ける氷のような雨が、彼女の体温を容赦なく奪っていく。しかし、不思議なほどに恐怖はなかった。あるのはただ、ようやくこの終わらない苦痛から解放されるという、ひどく穏やかで、奇妙な安盗感だけだった。
マーリンは濡れた手すりに細い手をかけ、よろめきながらも足をかけた。暴風が彼女の長い銀髪を狂ったように揺らし、引き裂かれた衣服が肌に張り付く。遥か下方を見下ろせば、闇が凝固したかのような、硬く冷たい石畳の地面が広がっている。ここから飛び降りれば、ほんの一瞬の衝撃のあと、すべてが永遠の無に帰す。
「神様、もしいるのなら……あの男に、呪いを……」
世界を心底から呪う気力すら、もう残っていなかった。ただ、消え去りたかった。マーリンがそっと目を閉じ、身体を前方の虚空へと傾けた――まさに、その刹那。
「――おやおや。ずいぶんと、お安い命の捨て方をするものだね。そんな風に果ててしまっては、あの男の思う壺だというのに」
不意に、激しい嵐の咆哮を完全に掻き消して、背後の闇から、濡れた極上の絹のように滑らかで、脳髄を直接痺れさせるほどに妖艶な声が響いた。
「っ!?」
驚愕に目を見開いたマーリンの身体が、突如として、重力を無視した不可視の力によってふわりと宙に浮き上がった。そのまま、抗う間もなくバルコニーの内側、嵐の届かない暗がりの床へと、優しく滑り落ちるように引き戻される。
雨のカーテンを割り、影そのものが形を成したかのように、暗闇からゆっくりと歩み出てきたのは、一人の女性だった。
夜の深淵をそのまま溶かし込んだかのような、妖しくうねる濡れ羽色の黒髪。すべてを見透かし、狂わせるような、淫らに輝く真紅の双眸。豊満な胸元と、割れたドレスの隙間から覗く雪のような太ももは、歩くたびに蠱惑的な香気を放っている。ただそこに佇むだけで、世界そのものが彼女の美しさに平伏すかのような、圧倒的な存在感――そして、禍々しいほどの魔性を放っていた。
マーリンはその妖艶な貌を、知っていた。王都の中央広場で、数か月前、ロキの剣によって確かに首を落とされ、魂まで焼き尽くされたはずの、国を滅ぼそうとした最悪の象徴。
「あなた、は……、魔女……レイナ……!?」
「ふふ、正解。死の淵から、あの忌々しい男に極上の挨拶を返すために戻ってきたよ、可愛いお嬢さん」
レイナは朱を塗ったような唇を妖しく歪め、そっと自らの濡れた人差し指を唇に当てた。処刑される直前、彼女は己の全魔力を賭して、超高度な時間差再生魔法を肉体に仕込んでいたのだ。辛うじて蘇生は果たしたものの、その代償として現在、かつて国を震撼させた強大な魔力の九割以上を失い、かろうじて小さな術を使える程度にまで落ちぶれている。しかし――その頭脳にある無限の「悪知恵」と、ロキへの燃え盛るような復讐心は、いささかも衰えてはいなかった。
レイナは、恐怖と混乱に身を竦ませるマーリンへと音もなく近づき、その床にへばりつく華奢な身体を抱き起こした。驚くほど温かく、そして甘美な香りがマーリンを包み込む。レイナの細い指先が、ワインと血で汚れたマーリンの頬をそっと撫で、その指を己の舌先で妖艶に舐めとった。
「ん……、これは酷いね。あの『聖騎士様』の、反吐が出るほど歪んだ性癖の味がする。可哀想に、こんな美しい身体を、あんな下劣な男の玩具にされてきたんだね……」
レイナの真紅の瞳の奥で、氷のように冷徹で、同時に地獄の業火よりも熱い「復讐の炎」がギラリと不気味に揺らめいた。彼女はマーリンの耳元に顔を寄せ、吐息混じりの、甘い毒のような声で囁いた。
「ねえ、マーリン。このまま何も残さず、あいつに蹂躙されただけの『壊れたおもちゃ』として、惨めに死んであげるのかい? それとも――」
レイナの手が、マーリンの顎を優しく、しかし拒絶を許さない強さで上向かせる。
「その残された命、この私に預けてみない? 私の知恵とお前の身体、二つが合わされば……あの偽物の英雄を、輝かしい光の舞台から引きずり下ろし、骨の髄まで、そのプライドごと、じわじわと嬲り殺しにしてやれる。あいつを私たちの『奴隷』にして、今度はお前が、あいつに泥を啜らせてやるんだよ。……どうだい? 悪くない取引だろう?」
魔女の囁きは、マーリンの凍てついていた心の最深部、絶望の泥に埋もれていた『何か』を、決定的に呼び覚ました。それは、これまでの調教で完全に消し去られたはずの、狂おしいほどの自己主張。ロキという存在に対する、宇宙よりも深い憎悪と、奴のすべてを破壊し尽くしたいという、血の渇望だった。
「私は……」
マーリンの濁りきっていた瞳に、生まれて初めて、世界を焼き尽くすような鮮烈な感情の光が爆発した。
「私は、生きたい……! 生きて、あいつに……ロキに、私が味わった以上の地獄を、屈辱を、絶望を味あわせてやりたい……! あいつのすべてを、この手で、徹底的に毟り取りたい……!!」
「くすくす……、あはははは! 素晴らしい! なんて最高に、ゾクゾクするほど美しい眼だ!」
レイナは歓喜に身体を震わせ、満面の、そして最高に邪悪で美しい笑みを浮かべた。彼女はマーリンの身体を強く抱きしめ、その唇に、契約の証として、深く、妖艶な口づけを交わした。
「契約成立だ、私の可愛い人形。さあ、始めよう。世界を騙す偽りの英雄を、永遠の絶望へと調教する、極上の断罪劇をね」
吹き荒れる嵐の夜。地獄の最底辺で、傷だらけの玩具と、力を失った妖艶な魔女の、血塗られた復讐の同盟が、ここに完全なる産声を上げた。




