第9話 救われた少女と、微笑む女神
「な、何者だ貴様ッ! 我が処刑の邪魔立てをする気か!?」
泡を飛ばしながら喚き散らすガルドの怒声に応じ、処刑台の周囲を固めていた屈強な用心棒たちが一斉に剣を抜いた。
都市の裏社会で名を馳せる、Aランク級の重装傭兵たちである。分厚い鋼鉄の鎧に身を包んだ巨漢たちは、殺気を剥き出しにして石床を蹴ると、処刑台へ上がってきたネロ目掛けて一斉に殺到した。
だが、迫り来る白刃の群れを前にしても、ネロの足取りは乱れなかった。
手にした木製の横笛を静かに構え、そのまま大気を撫でるように優雅に一振りする。澄み切った一閃の音色が広場へ響き渡った瞬間、不可視の【調律の神聖波】が空間そのものを大きく震わせながら、ネロを中心として全方位へ炸裂した。
ギギギィィッ――!
金属が軋み、圧縮されていく耳障りな音が立て続けに響き渡る。
襲いかかった傭兵たちの分厚い重装甲は、真正面から巨大な鉄槌でも叩きつけられたかのように激しく陥没し、鎧越しに凄まじい圧力を叩き込まれた巨体が次々と宙へ舞った。
「ぐぁあああッ!?」
「な、なんだこれは――ッ!」
数人の傭兵たちはまとめて数十メートル後方まで吹き飛ばされ、広場中央に設けられていた大噴水へ勢いよく叩き落とされた。
石造りの縁が轟音とともに砕け、水飛沫と鮮血が空高く噴き上がる。それまで血に飢えた歓声で満たされていた広場には、先ほどまでの騒ぎが嘘だったかのような重苦しい沈黙が広がった。
「ひ、あ……っ!?」
ガルドは腰を抜かし、尻餅をついたまま石畳の上を必死に這いずって後退した。
その脂汗に濡れた喉元へ、淡い神聖な燐光を纏った横笛の先端が音もなく突きつけられる。
「弁済金は、金貨五百枚だったね?」
静かな声音だったが、その声にはガルドを一歩たりとも逃がさぬ冷たさが宿っていた。
ネロは討伐依頼で稼いだばかりの革袋を取り出すと、そのままガルドの青ざめた顔面へ無造作に投げつけた。
「ぶっ……!?」
重い革袋が顔へまともにぶつかり、衝撃で口紐がほどける。中に詰め込まれていた王立金貨が勢いよく飛び出し、甲高い金属音を響かせながら処刑台の石床一面へ散らばっていった。
「金貨六百枚だ。五百枚は弁済金、残りの百枚はその子の買い取り代金として受け取れ。……処刑するくらいなら、僕がこの子を買い取る」
ネロは逃げ道を塞ぐように一歩踏み込み、冷え切った眼差しでガルドを見下ろした。
「これ以上この子に触れてみろ。次は金貨じゃない。お前の首が、この広場を転がることになるぞ」
普段の穏やかな少年からは想像もつかないほど鋭い言葉だった。
底知れぬ力を持つ者から向けられた威圧をまともに浴び、ガルドの喉がひくりと痙攣する。
「ひぃぃっ……! お、おぼえていろ……っ!」
ガルドは散らばった金貨を泥まみれになりながら両手で掻き集めると、倒れた用心棒たちの安否を確かめる余裕さえなく、這々の体で処刑台から逃げ去っていった。
取り囲んでいた野次馬たちも、ネロの常軌を逸した実力と凄みに完全に呑まれていた。つい先ほどまで少女の死を煽っていた者たちは誰一人として声を上げようとせず、やがて蜘蛛の子を散らすように道を空けると、互いに押し合いながら次々と広場から立ち去っていった。
広場に残されたのは、処刑台の上にいるネロと黒髪のエルフの少女だけだった。
ネロは荒い息を吐きながら蹲っている少女へ歩み寄ると、その前で静かに膝をついた。
恐怖に震える少女と目線の高さを合わせ、怯えさせないようゆっくりとその顔を覗き込む。
「もう大丈夫だよ。誰も君を傷つけない。……痛かったね」
ネロはそっと手を伸ばし、少女の細い首へ深く食い込んでいる黒鉄の【重層隷属環】へ触れた。
高位の魔導士であっても解除に数日を要する、複雑な呪術が幾重にも組み込まれた強固な束縛具だった。無理に壊そうとすれば、その負荷が装着者へ跳ね返り、激痛どころか命を奪う危険すらある。
ネロは横笛を唇へ運ぶと、少女を怯えさせないよう、ごく穏やかに息を吹き込んだ。
柔らかな旋律とともに神聖な調律の光が隷属環を包み込み、内部へ複雑に絡み合っていた魔力の流れを一つずつ読み取りながら、固く結ばれた糸を解くように静かにほどいていく。
やがて、パキィン、と澄んだ音が響いた。
黒鉄の輪は少女の肌を傷つけることなく幾つもの破片へ分かれ、呪縛の残滓とともに淡い光の粒となって空中へ霧散していった。
首を締めつけていた激痛と重圧から解放された瞬間、少女の琥珀色の瞳から大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。
「あ、貴方は……なぜ、こんな不吉な黒髪の私に……これほどの大金を……」
震える声で問いかける少女の手を、ネロは優しく両手で包み込んだ。
泥と血で汚れた小さな掌へ、自分がここにいることを伝えるように、そっと体温を重ねる。
「黒い髪、夜空みたいでとても綺麗だよ。それに、誰かの身勝手な都合で命を奪われていい人なんて、この世界のどこにもいないんだ」
ネロの脳裏には、かつて王都で無能と罵られ、路傍の石のように切り捨てられた自分自身の姿が浮かんでいた。
置かれた立場も、受けた仕打ちもまるで違う。それでも、自分には価値がないと決めつけられ、抗うことすら許されないまま捨てられる痛みだけは、嫌というほど知っていた。
「それに……その、何ていうか、自分でもよく分からないんだけどさ」
ネロは少し気恥ずかしそうに頬を掻き、それでも少女から目を逸らさずに微笑んだ。
「君を見ていると、すごく懐かしい気がするんだ。初めて会ったはずなのに、ずっと昔から知っているみたいな……そんな感じがして、どうしても放っておけなかった」
その言葉を聞いた少女は、涙に濡れた瞳を大きく見開き、胸元を押さえながら小さく息を呑んだ。
「……ラダ、です」
途切れそうな息の下から、少女は掠れた声で自らの名を紡ぐ。
「私の名前は……ラダ。……ありがとう、ございます。不思議です……私も、あなたの笛の音を聴いたとき……ずっと遠い昔に失くした光を、思い出したような気がして……」
最後まで言い切ることはできなかった。
極度の疲労と痛みに耐え続けていたラダの身体から力が抜け、そのままネロの方へ崩れ落ちる。
「ラダ!?」
ネロは慌てて腕を伸ばして華奢な身体を受け止めると、意識を失った少女を傷つけないよう慎重に抱き上げた。
◇ ◇ ◇
夕闇の迫る街を抜けて宿屋「木漏れ日亭」へ戻ると、ネロは意識を失ったラダを自室のベッドへ静かに横たえた。
傷だらけの身体へ毛布を掛けようとした、その時、室内の空気がふわりと揺らぎ、先ほどまで存在しなかった濃厚な百合の香りが立ち込めた。
黄金と白銀の燐光が宙で螺旋を描きながら集まり、その中心から、女神モヒーニカが音もなく姿を現す。
「まあ……素晴らしい行いですわ、ネロ。傷ついた者を救うことこそ、私の勇者に相応しい慈愛です」
モヒーニカは聖母を思わせる柔らかな微笑みを湛えながら、ベッドに横たわるラダへ透き通った手をかざした。
実体を持たないはずの指先から淡い光が零れ落ち、鞭によって背中へ刻まれていた深い裂傷や、全身に残された打撲の痕を優しく包み込んでいく。
苦痛に乱れていたラダの呼吸は、やがて規則正しい穏やかな寝息へと変わった。痛々しく開いていた傷口も跡を残さず塞がり、血の気を失っていた頬にも僅かな赤みが戻っていく。
「よかった……」
ネロは安堵したように息を吐き、眠るラダの顔を見つめた。
しかし、その隣で治癒を続けるモヒーニカの表情には、ネロの知らない変化が現れていた。
女神の視線が、ラダの艶やかな黒髪へ静かに落ちる。
続いて、その閉ざされた瞼の奥にある琥珀色の瞳へ、さらに少女の身体の奥深くに残された、ごく微かな魔力の残滓へと意識を向けた瞬間、モヒーニカの完璧な美貌から僅かに温度が失われた。
藍色の双眸の奥に浮かんだのは、先ほどまでの慈愛とは似ても似つかない、氷のような警戒だった。
まるで本来そこに存在するはずのない異物を見つけたかのように、女神は眠るラダを静かに見つめ続ける。
「……ふふ」
やがて小さく笑うと、モヒーニカは何事もなかったかのように手を下ろし、ネロとベッドの間を遮るように身体を滑らせた。
そのままネロの背後へ回り込み、透き通った両腕を彼の首元へ深く絡ませる。
実体を持たないはずの腕だったが、それなのに首筋にはまとわりつくような奇妙な重さと、刺すような冷気が確かに感じられ、その感覚は鎖骨からうなじへゆっくりと這い上がっていった。
「本当に……手のかかる、優しい子ですね。私の、ネロは」
甘く囁きながら、モヒーニカはネロの耳元の髪へ透き通った指を通し、愛おしむように何度も梳いていく。
唇に浮かべた微笑みだけを見れば、そこにあるのは傷ついた我が子を慈しむ母親のような優しさだった。
だが、ネロから見えない角度でベッドへ向けられたその眼差しには、自らの領域へ許可なく入り込んできた存在を冷静に見定めるような、鋭い拒絶が宿っている。
「……ネロ」
「どうしたの?」
鈴を転がすような声音は相変わらず甘かったが、その奥底には先ほどまでなかった微かな棘が混じっていた。
「貴方のその優しさは、とても美しいものです。けれど……この娘をわざわざここまで連れ帰る必要が、本当にあったのでしょうか?」
モヒーニカはネロの耳元へさらに顔を寄せ、吐息のような神気とともに、穏やかな口調で言葉を続けた。
「黒髪のエルフ……この世界の調和を乱す、忌まわしき原初の残滓を宿した亜人です。しかも、つい先ほどまで下賤な商人の隷属環に繋がれていたような身元の知れぬ者を拾い上げるなど、私の勇者たる貴方の格に見合うこととは思えません」
ネロを囲い込むように絡められていた腕へ、僅かに力が加わる。
「忘れてしまったのですか? 王都で貴方を無能と罵り、路傍に捨て去った者たちのことを。不調和な者を近くへ置けば、いずれ貴方の魂まで濁り、再び足元を掬われることになりかねません」
その口調には、あくまでネロの身を案じているかのような優しさが纏わされていた。
しかし、言葉を重ねるほどに、そこには別の感情も滲み始めている。
「……ただでさえ、貴方には魔王を討ち果たすという大願があるのです。これ以上、余計な荷物まで背負い込む必要はありませんわ」
ネロはしばらく黙ってモヒーニカの言葉を聞いていた。
自分を救い、価値を認め、誰にも信じてもらえなかった力さえ肯定してくれた女神である。そんな彼女から心配されれば、軽々しく聞き流すことなどできなかった。
「モヒーニカ、心配してくれてありがとう。君の言う通り、僕が軽率だったところはあるのかもしれない」
ネロは困ったように眉を下げながら振り返り、モヒーニカの藍色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「でも、あの広場で見捨てていたら、ラダは本当に殺されていたんだ。僕が王都で切り捨てられて、あの荒野で死にかけた時と同じように……何も悪いことをしていないのに、理不尽な理由だけで命を奪われそうになっていた」
膝の上に置いた拳をぎゅっと握り締めながら、ネロは静かに、それでも揺るぎない声音で続けた。
「黒い髪だからって、誰かを傷つけたわけじゃない。奴隷だったことだって、ラダ自身が望んだわけじゃないだろ? 彼女はただ生きていただけなのに、それだけで殺されそうになってた。……そんなのを見て見ぬふりをすることなんて、僕にはできないよ」
「ネロ……」
「僕は魔王を倒したい。君の実体だって、絶対に取り戻したいと思ってる」
一度言葉を切ると、ネロは眠るラダへ穏やかな視線を向けた。
「でも、そのために誰かを見捨てなきゃいけないなら、僕はそんな勇者にはなりたくない。自分の心に嘘をついてまで強くなったって、きっと意味がないと思うから」
モヒーニカから与えられた救いへの感謝も、彼女へ向ける信頼も、ネロの中では本物だった。
それでも彼の根底にある、困っている者を放っておけない純粋な善性までは、女神の言葉によって簡単に塗り替えられるものではなかった。
その真っ直ぐな眼差しを受け、モヒーニカの藍色の双眸がほんの僅かに細められた。
神たる己の導きよりも、偶然出会った一人の亜人の命を優先しようとする少年の頑固さに、胸の奥から昏い苛立ちが込み上げる。
しかし、それを露わにして強引に否定すれば、今は自分へ疑いなく向けられている信愛に、余計な綻びを生じさせかねない。
ほんの僅かな逡巡のあと、モヒーニカは胸の内に渦巻く感情を覆い隠すように表情を和らげ、いつもの完璧な慈愛の微笑みを取り戻した。
「……ふふ。本当に、貴方という子は……どこまでも真っ直ぐで、危なっかしいのですね」
モヒーニカはネロの首へ絡めていた腕を解くと、透き通った指先をその頭へ重ね、幼子を慈しむように優しく撫でた。
「分かりました。貴方のその尊い心を、私は尊重いたしましょう。ですが、決して油断してはなりませんよ。……私の選んだ勇者の魂に傷がつくことだけは、私が許しませんから」
「うん。ありがとう、モヒーニカ。君に迷惑はかけないようにするよ」
安堵したネロがほっと息を吐き、無防備な笑みを浮かべる。
モヒーニカはそんな少年の横顔を愛おしそうに見つめていたが、ネロの視線がベッドへ戻った瞬間、その表情から静かに温度が失われていった。
藍色の瞳が向けられた先には、深い眠りに落ちたままのラダがいる。
少女には女神の姿も、その冷たい眼差しも見えていない。
モヒーニカは何も言わず、ただ長い時間をかけてラダの寝顔を見下ろしていた。その眼差しには、先ほどネロへ向けていた慈愛など欠片もなく、自分と少年の間へ入り込んできた異物を静かに値踏みするような、底冷えのする警戒だけが宿っている。
やがてモヒーニカは何事もなかったかのようにネロへ顔を戻し、再び柔らかな微笑みを浮かべた。
その間もラダは何一つ知ることなく、ネロのすぐ傍らで穏やかな寝息を立て続けていた。




