第10話 太古の音律
ネロは街で買い求めた清潔な布をぬるま湯に浸し、ラダの顔や手足にこびりついた泥と血を、傷に触れないよう丁寧に拭い落としていた。
昨夜、モヒーニカの治癒を受けたことで、鞭によって背中へ刻まれていた深い裂傷や打撲の大半はすでに塞がっている。それでも、長期間にわたる飢えと虐待によって削られた体力まで一晩で元へ戻るはずもなく、眠り続けるラダの頬にはまだ僅かな青白さが残っていた。
どこまで回復しているのかを確かめるため、ネロは意識を集中させ、眠る少女へ視線を向ける。
【個体識別:ラダ】
・Lv.3 ジョブ[愛玩奴隷]
・HP:42/45(回復傾向)
・特記事項:種族 エルフ
「……っ」
視界へ浮かび上がったジョブ名を認識した瞬間、ネロの胸の奥を刃物で抉られたような強い吐き気が襲った。
一人の人間としての尊厳など微塵も認められず、主人の気まぐれな暴力や欲望を満たすためだけの「生きた玩具」として、世界そのものから定義づけられている。
昨日、処刑台でガルドや群衆から浴びせられていた言葉を思い返せば、この文字がラダの人生にどれほど残酷な影を落としてきたのか、想像するだけでも胸が締めつけられた。
(……こんなのが、ジョブだっていうのか?)
本来なら、その者が生まれ持った役割や適性を示すはずのものだ。それなのに、目の前へ表示された文字は、一人の少女の生き方も尊厳も、生まれた瞬間から奪うための烙印にしか見えなかった。
この世界のステータス制度が孕む底知れぬ醜悪さに眩暈を覚え、ネロはそれ以上の項目を直視することができなかった。最低限、HPが安全圏まで持ち直していることだけを確かめると、逃げるように意識を閉ざした。
それからネロは、街の仕立屋で急ぎ買い求めてきた柔らかな亜麻色のワンピースへラダを着替えさせ、宿の一階で用意してもらった湯気の立つ野菜シチューをテーブルへ並べた。
少女が目を覚ました時、少しでも温かいものを口にできるように。
そうして数刻が過ぎた頃、静かな部屋へ微かな衣擦れの音が響いた。
「……ん……っ」
長い睫毛が小さく震え、ラダの琥珀色の瞳がおずおずと開かれる。
まだ霞んでいる視界の中で見知らぬ天井を見つめ、しばらく状況を理解できずにいたものの、やがて身体を包んでいる柔らかな羽毛の寝台と、清潔な衣服の肌触りに気づいた瞬間、その表情から一気に血の気が引いた。
「ひ……っ!?」
ラダは何か恐ろしいものに触れたように寝台から飛び退き、そのまま床へ転がり落ちた。
「ラダ!?」
ネロが立ち上がるより早く、ラダは冷たい板張りの床へ両膝をつき、額が床へ擦れるほど深く身体を伏せた。
全身を小刻みに震わせながら、喉を引き攣らせ、必死に懇願の言葉を紡ぎ出す。
「ご、ご主人様……! も、申し訳ありません……っ! 身分を弁えず、こんな清らかな寝台を汚してしまいました……!」
「え……?」
「どのような過酷な雑用でも、夜のお相手でも、命じられるままに何でもこなします! 手足でも何でも切り落としてくださって構いません、ですから……どうか、捨てないでください……っ!」
その言葉を聞いた瞬間、ネロは息を呑んだ。
昨日まで受けていた暴力への恐怖だけではない。もっと長い年月をかけて、「役に立たなければ捨てられる」「主人の命令へ逆らえば壊される」という価値観そのものが、ラダの心へ深く刻み込まれているのだ。
床へ額を押しつけたまま、ラダは震える指先をネロの足元へ伸ばし、靴についた泥を自分の袖で必死に拭おうとした。テーブルに置かれたシチューの温かな香りが鼻先をくすぐるたび、空腹に耐えかねた身体は小さく反応しているが、それでも彼女は食事へ手を伸ばそうとせず、怯えきった声音で言葉を続ける。
「お、食事は……ご主人様の残飯を、床でいただくのが掟です……。私のような不吉な黒髪の亜人が、温かいものを口にするなど……」
「もういいんだ。やめてくれ……」
これ以上聞いていられなかった。
ネロは胸を締めつける痛ましさを押し殺しながら、床へ伏せているラダの細い肩へそっと手を添えた。
「ひっ……!」
「大丈夫。何もしないよ」
咄嗟に身体を強張らせたラダを驚かせないよう、ネロはできる限りゆっくりと華奢な身体を抱き起こし、冷たい床から引き上げた。
それから自分も膝を折って目線の高さを合わせ、怯えたまま視線を彷徨わせる琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「ラダ、よく聞いて。君はもう誰の所有物でもないし、奴隷でもないんだよ。僕を『ご主人様』なんて呼ぶ必要は、どこにもない」
「で、でも……私は金貨六百枚で買い取られた、あなたの……」
「僕は君を買ったんじゃない」
ネロは穏やかに言葉を遮ると、ラダの冷えた手を自分の両手で包み込んだ。
「君の自由と命を、あの悪党から取り戻すためにお金を払っただけだよ。だから、あの六百枚を理由に僕へ何かを返す必要なんてない」
「でも……そんな……」
「そんなふうに、自分を卑下して尽くそうとしなくていいんだ。夜の相手もしなくていいし、僕の靴を磨く必要もない。手足を切り落とすなんて、そんなこと絶対にさせない」
ラダは信じられないものを見るように、ネロの顔を見つめていた。
彼女にとっては、怒鳴られることも殴られることもなく、ただ「何もしなくていい」と告げられることの方が、理解し難い出来事なのかもしれない。
ネロはそんなラダの様子を見ながら、自嘲気味に小さく笑った。
「僕もね、つい最近まで『レベル0の無能だから価値がない』って、ずっと信じていた仲間に捨てられたばかりなんだ」
「ネロ様が……?」
「うん。役に立つかどうか、数字やステータスが優れているかどうか、それだけで存在の価値まで決められてしまうのって……すごく苦しくて、息が詰まるよね」
ネロは立ち上がると、テーブルに置かれていた野菜シチューの木椀を手に取り、木製のスプーンと一緒にラダへ差し出した。
「だから、僕の傍にいる時くらい、そんな呪いから自由でいてほしいんだ」
ラダは戸惑いながら両手を差し出し、湯気の立つ木椀を受け取った。
温かな器が掌へ触れた瞬間、その細い指先が震える。
「君がここにいて、生きていてくれるだけで十分だよ。僕たちは対等な『仲間』なんだ。これからは一緒に温かいご飯を食べたり、他愛のないことで笑ったり……僕は、そんな関係になりたい」
その言葉には、打算も嘲笑も、まして支配欲など微塵もなかった。一人の人間として自分を見てくれているという、ただそれだけの真っ直ぐな言葉が、長い年月をかけて凍りついていたラダの心へゆっくりと染み込んでいく。
やがて胸の奥で張り詰めていた何かが崩れ落ちたように、琥珀色の瞳から大粒の涙が次々と溢れ出した。
「あ……ぅ……あぁ……っ」
声にならない嗚咽を漏らしながら、ラダは木椀を落とさないよう両手で大切そうに抱え込んだ。
零れ落ちた涙が温かなシチューの表面へ落ち、小さな波紋をいくつも広げていった。
◇ ◇ ◇
しばらく泣いたあと、ラダはようやく震えの収まってきた指で木製のスプーンを握り、シチューを少しずつ口へ運び始めた。
一口、そしてもう一口と温かな料理が喉を通るたび、強張っていた小さな肩から少しずつ力が抜けていく。泥や涙の跡を綺麗に拭われたその横顔には、過酷な境遇によって隠れていた少女らしい幼さが色濃く残っていた。
「……おいしい、です。こんなに温かくて、優しい味……生まれて初めて食べました」
「よかった。おかわりもたくさんあるから、焦らずゆっくり食べてね」
ネロが穏やかに微笑むと、ラダは小さく頷いた。
しばらく静かな食事の時間が続いたあと、ラダは胸元に抱えた木椀を見つめたまま、長い睫毛を伏せる。やがて琥珀色の瞳の奥へ遠い記憶の影が浮かび上がり、ぽつりと掠れた声を漏らした。
「私の生まれた場所は……深い霧の森の奥にある、小さな里でした」
ネロは何も言わず、ラダの言葉へ耳を傾けた。
「かつて十勇者が世界を巡っていた時代に滅びた国。その末裔たちが身を寄せて暮らしていた、古代エルフの隠れ里です。そこでは今も、『精霊と太古の音律』が大切に受け継がれていました」
「太古の……音律?」
ネロが思わず問い返すと、ラダは小さく頷いた。
「はい。私たちの里では、絶対神『童子』が定めたとされる『ステータス』を、絶対のものとして受け入れていなかったんです」
ラダは記憶を一つずつ手繰り寄せるように、ゆっくりと語り続けた。
「風が木々の間を抜ける音、大地の微かな震え、川の流れや鳥の羽ばたき、それから生きとし生けるものが発する命の波長……。私たちは、世界には数字では表せないたくさんの『音』が満ちていると教えられて育ちました」
その説明を聞きながら、ネロは無意識に自分の木製の横笛へ視線を落とした。
「それが、『太古の音律』……?」
「そうです。世界の音へ耳を澄ませ、それに自分たちの命を重ねながら共に生きていく。それが、私たちの里にずっと伝わっていた生き方でした」
ラダは一度言葉を切ると、手の中のシチューへ視線を落とした。
「長老たちは、数字だけで人の価値を決めることをとても嫌っていました。『ステータスは、その者の魂そのものではない。数字で人を縛ることは、やがて魂まで汚してしまう』って……何度も聞かされていました」
穏やかな記憶を語っていたラダの表情が、そこで少しずつ曇っていった。
そんな里の平穏は、絶対の秩序を掲げる者たちによって、ある日突然無惨に引き裂かれた。
「ある日……王都から騎士団と討伐隊がやってきたんです」
ラダの指先に力が入り、木椀を握る手が白くなる。
「森へ火を放って、『不吉な黒髪の異端種』『神の定めに背く汚れた残党』って叫びながら、逃げ惑う人たちを次々に斬り伏せて……」
声が震え始める。
その琥珀色の瞳には、今も消えない業火に包まれた故郷の光景が映っているようだった。
「私の父も……母も……目の前で……」
ラダはそこから先を言えず、唇を強く噛み締めた。
ネロは何も急かさなかった。言葉にするだけで深い傷を抉る記憶なのだと分かっていたから、ただ彼女が自分の意思で続きを話せるまで静かに待った。
「……生き残った子供たちは、みんな縄で縛られて広場へ連れていかれました」
やがてラダは、途切れ途切れに話を再開した。
「そこには、大きな鑑定水晶が置かれていました。でも、ステータスそのものを見るための道具じゃありません。騎士たちが私たち一人一人に《ステータス・オープン》を使うと、その内容が水晶いっぱいに拡大して映し出されるようになっていたんです」
「大勢に……見せるために?」
ネロが眉をひそめると、ラダは怯えたように小さく頷いた。
「はい……。騎士だけじゃありません。その場には商人や役人もいて、みんなが私たちのレベルやジョブを見られるようになっていました」
ラダの声には、今でも消えない屈辱が滲んでいた。
「『神の定めに背いて生きてきた異端者が、どのようなジョブを授かっているのか見せてみろ』って……私たちは一人ずつ大勢の前へ引きずり出されて、まるで品物みたいにステータスを晒されたんです」
ネロの拳が、無意識のうちに強く握り締められる。
それは鑑定などではなかった。
幼い子供たちを人間としてではなく、値踏みされる商品として大勢の前に並べるための見世物だったのだ。
「そして……私の番になった時、水晶いっぱいに映し出された文字を見て、大人たちは……」
そこでラダの声が再び止まった。
恐怖と屈辱に震える唇を噛み締めても、それ以上の言葉を紡ぐことができない。ただ琥珀色の瞳から涙だけがぽろぽろと零れ落ちていった。
言わせる必要はなかった。
ネロの脳裏には、ラダを介抱した際に目にした、あまりにも残酷なジョブ名が鮮明に焼きついている。
ラダは震える呼吸を整えながら、しばらくして再び口を開いた。
「そのジョブを見た途端……私は、人間として扱われなくなりました。珍しい黒髪のエルフだから高く売れるって、商人たちに連れていかれて……それからは各地の領主や貴族の間を、何度も転々とさせられて……」
両腕で自分の身体を抱き締めるように縮こまり、俯いたまま言葉を続ける。
「殴られて、踏み躙られて……言われたことができなければ罰を受けて、壊れたら捨てられる。それだけの毎日でした」
「……ラダ」
「だから……昨日、ネロ様が広場で私を助けてくださった時……あの笛の音を聴いた瞬間、胸が張り裂けそうになったんです」
ラダはゆっくりと顔を上げた。
涙に濡れた琥珀色の瞳が、ネロの手元に置かれた木製の横笛へ向けられる。
「里で昔聞いた『太古の音律』に、とてもよく似ていました。優しくて、でも力強くて……風や木々も、世界そのものも一緒に震えているみたいな、温かな波長がネロ様の音から溢れていたから……」
ネロは思わず横笛を見つめた。
自分がモヒーニカから力を授けられた後に聞こえるようになった、世界を満たす無数の音。魔物の鼓動、魔力の流れ、大気の振動、それらを読み取り、その場で必要な旋律を組み上げる自分の力と、ラダが語る「太古の音律」は、偶然の一致だと言い切るにはどこか似すぎているようにも感じられた。
それでも今は、自分の疑問よりもラダのことが先だった。
ネロは席を立つと、震えている少女の小さな肩へ、包み込むようにそっと手を置いた。
「もう言わなくていいよ。無理して思い出さなくてもいい」
「ネロ、様……」
「世界の数字が君を何と呼ぼうと、それで君自身が変わるわけじゃない。僕にとってラダは、誰よりも誇り高い、大切な仲間だよ」
ネロの声は穏やかだったが、その言葉には迷いがなかった。
「だから、もう誰にも君を好き勝手に扱わせない。僕がいる限り、絶対に君を奪わせたりしないよ」
「ネロ様……っ」
ラダが涙に濡れた瞳でネロを見つめる。
その直後、ネロの鼻腔を、すっかり馴染み深くなった甘い百合の香りがくすぐった。
黄金と白銀の燐光が室内の一角へ静かに集まり、その中心から女神モヒーニカが音もなく姿を現す。
「ああ……何と残酷な宿命なのでしょう。愛しい我が勇者ネロ。貴方がこの哀れな娘を救ったのは、まさに神の導きでしたね」
モヒーニカは胸元へ手を当て、心から痛ましそうに眉をひそめながら、涙を浮かべるラダへ藍色の瞳を向けていた。
「モヒーニカ……」
ネロが何気なくその名を口にしたところで、ラダが不思議そうに瞬きをした。
「……ネロ様?」
「え?」
「その……先ほどから、どなたとお話ししているのですか?」
「……え?」
思いもよらなかった問いに、ネロは今度こそ目を丸くした。
ラダは困惑した様子でネロの視線の先へ目を向け、そこに何かがいるのか確かめるように何度も瞬きをしている。しかし、琥珀色の瞳はモヒーニカの姿を捉えることなく、その向こうにある古びた木壁を見つめていた。
「……ラダには、モヒーニカが見えないの?」
「モヒー……ニカ?」
聞き慣れない名前を確かめるように、ラダは小さく首を傾げた。
「はい……。ネロ様の隣には、誰もいないように見えますけど……」
「…………あ」
そこでようやく、ネロは今の自分がラダからどのように見えていたのかに気づいた。
何も存在しないはずの空間へ突然名前を呼びかけ、そこから返事が聞こえているかのように自然な顔で会話を始めている。
事情を知らない者から見れば、どう考えてもまともな光景ではない。
「ご、ごめん! 今の、かなり変に見えたよね!?」
「い、いえっ! ネロ様が変だなんて、そんな……!」
ラダは慌てて首を横へ振ったものの、その琥珀色の瞳には隠しきれない戸惑いが浮かんでいた。ネロと何もない空間を交互に見比べる様子を見れば、少なからず警戒していることは明らかだった。
「いや、その顔は絶対ちょっと怖がってるよ……」
「そ、そんなことは……」
「大丈夫。普通はそうなると思うから」
ネロは少し恥ずかしそうに頬を掻きながら、どう説明すれば信じてもらえるのか考えた。
その傍らでは、モヒーニカが二人のやり取りを眺め、どこか面白そうに微笑んでいる。
「当然ですわ、ネロ。今の私には、現世に留まるための肉体がありませんもの。神気の波長が深く結びついている貴方だからこそ、こうして私の姿を見て、声を聞くことができるのです」
「……そういうことみたい」
ネロがモヒーニカの言葉へ頷くと、当然ながら何も聞こえていないラダは、さらに困惑した表情を浮かべた。
「あっ、ごめん。また今、そっちと普通に話しちゃった……」
「……やっぱり、そこに誰かいらっしゃるんですか?」
「うん。僕には見えてるし、声も聞こえてる」
ネロは一度息を整えると、できるだけ順序立てて説明することにした。
「モヒーニカっていう女神様なんだ。僕が仲間に捨てられて、荒野で死にかけていた時に見つけてくれた人で……今の僕の力を授けてくれたのも彼女なんだよ」
「女神……様……?」
ラダは驚いたように目を見開き、もう一度ネロの隣へ視線を向けた。
しかし、やはりそこには何も見えていない。
「前に宿の主人がこの部屋へ来た時も、モヒーニカのことは全然見えていなかったんだ。その時はあまり深く考えなかったけど……どうも、今の彼女の姿や声を認識できるのは僕だけみたいなんだ」
ネロはそこまで説明すると、少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「だから……無理に信じてくれなくてもいいよ。昨日会ったばかりの僕が突然『ここに女神様がいます』なんて言い出したら、普通は怪しいと思うだろうし」
「…………」
ラダはすぐには答えなかった。
ネロの顔を見つめ、それから何もないようにしか見えない傍らへ視線を向け、もう一度ネロへ戻す。
琥珀色の瞳には戸惑いも、不安も残っていた。
やがてラダは胸元へそっと手を当て、小さく息を吐いた。
「正直に言えば……少し、驚いています。その女神様のお姿も見えませんし、声も何も聞こえませんから……」
「うん……そうだよね」
「でも」
ラダは僅かに表情を和らげた。
「ネロ様が昨日、私を助けてくださったことは、この目で見ました。私を傷つけず、奴隷として扱わず、こうして温かい食事まで与えてくださったことも……全部、本当です」
「ラダ……」
「ですから、その女神様については……私にはまだ何も分かりません。でも、ネロ様が私を騙すために嘘をついているとは思いません」
その言葉を聞き、ネロは胸の奥へ入っていた力が抜けていくのを感じた。
「ありがとう。そう言ってもらえるだけで十分だよ」
モヒーニカはラダの言葉を聞きながらも、その真意を測るように藍色の瞳を細めていた。もっとも、その視線が自分へ向けられていることを、ラダが知る術はない。
やがてモヒーニカはネロへ顔を向け、聖母のような柔らかな微笑みを浮かべた。
「ところでネロ。この娘に刻まれた不吉なジョブですが……あれは、神が定めた真の天職などではありませんよ」
「……え?」
ネロが思わず声を漏らすと、ラダの肩がぴくりと動いた。
「どうしたんですか、ネロ様?」
「待って。今、モヒーニカがラダのジョブについて何か知ってるみたいなんだ」
「私の……?」
ネロはラダへそう告げると、再びモヒーニカへ顔を向けた。
モヒーニカは慈愛に満ちた表情を崩すことなく、静かに説明を続ける。
「かつて魔界『クル国』の魔王が放った邪悪な瘴気が、原初の精霊を祀る血筋へ深く絡みつき、魂の器を歪めてしまった――いわば『魔王の呪毒』なのです」
ネロはその説明を聞き終えると、驚いたままラダへ向き直った。
「ラダ。モヒーニカがね……君に刻まれているあのジョブは、本来の君のものじゃないって言ってる」
「……え?」
ラダの指先が、膝の上で僅かに震えた。
「クル国っていう魔界にいる魔王が放った瘴気が、原初の精霊を祀っていた血筋へ絡みついて、魂そのものを歪めてしまったらしいんだ。だから、そのジョブは神様が本来ラダに与えた天職じゃなくて……魔王の呪いなんだって」
「魔王の……呪い……?」
ラダは呆然と呟き、自分の胸元へそっと手を添えた。
生まれた時から自分自身の一部なのだと信じ込み、その文字を理由に長い間人間以下の存在として扱われ続けてきた。
もし、それが本来の自分とは何の関係もない歪みだったのだとすれば、これまで生きてきた世界の前提そのものが覆されることになる。すぐに理解し、受け入れられるはずもなかった。
「じゃあ……私は、生まれた時から……神様に、ああいう存在として決められていたわけではないんですか……?」
ラダの震える問いを聞き、ネロは反射的にモヒーニカへ視線を向けた。
女神は慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、ゆっくりと頷く。
「ええ。その娘そのものが穢れているわけではありません。人の欲深さが、魔王によって生じた歪みを都合よく利用し、奴隷として縛りつけていたに過ぎないのです」
ネロは聞いた内容を、そのままラダへ伝えた。
「違うって。ラダ自身が悪いわけじゃないってモヒーニカは言ってる。人間たちが、その歪みを自分たちの都合のいいように利用して、君を奴隷として扱っていただけなんだって」
「……そう、だったんですね……」
ラダは俯き、胸元の服を小さく握り締めた。
その表情に浮かんでいるのは、単純な安堵だけではなかった。長い間「自分はそういう存在なのだ」と信じ込まされ、それを理由にあらゆる苦痛へ耐えてきた少女にとって、その根拠そのものが覆されたとしても、すぐに心まで解放されるわけではない。
それでも、ほんの僅かに肩から力が抜けたように見えた。
モヒーニカはそんなラダをしばらく見つめたあと、ネロの手元にある木製の横笛へ慈しむような視線を落とした。
「ですが、悲しむ必要はありません。私の加護を受け、世界を正しく調律する貴方の笛の音色ならば……いずれ魔王を討ち果たした時、この娘の魂へ絡みついた呪いも完全に浄化してあげられるはずです」
ネロはその言葉を聞き、目を見開いた。
「本当に……僕ならラダを治せるの?」
「ええ。貴方ならば、きっと」
モヒーニカが穏やかに頷く。
ネロはすぐにラダへ向き直った。
「ラダ。モヒーニカが、僕の力ならいつかその呪いを消せるかもしれないって言ってる」
「ネロ様が……?」
「うん。魔王を倒せば、きっとラダを苦しめているものも消せるって」
ネロの胸の中で、これまで散らばっていた出来事が少しずつ一本の線へ繋がっていく。
魔王との戦いによって実体を失ったと語るモヒーニカ。
魔王の瘴気によって歪められたというラダのジョブ。
そして、その両方を救うための力を、自分は今手にしている。
モヒーニカの実体を取り戻すためだけではない。
ラダを長い間苦しめてきた呪いから解放するためにも、自分は魔王を倒さなければならない。
ネロは木製の横笛を胸元へ引き寄せ、その使い込まれた管体を両手で強く握り締めた。
「僕、絶対に魔王を倒すよ」
「ネロ様……」
「モヒーニカの実体を取り戻して、それからラダを縛っている呪いも消す。僕の笛で、二人とも絶対に救ってみせるから」
迷いのない声音だった。
ラダはその言葉を受け、胸を打たれたように琥珀色の瞳を潤ませた。
ただし、その視線が向けられているのは、自分には見えない女神ではない。昨日、自らの命を救い、今も目の前で真っ直ぐに言葉を届けてくれているネロだった。
「……ありがとうございます、ネロ様」
その傍らでは、ラダには決して見ることのできない女神モヒーニカが、満足そうに藍色の瞳を細めていた。
「ええ、信じていますよ。私の誇り高き勇者様」
その甘い声音が届いているのは、ネロただ一人だった。
モヒーニカは慈愛に満ちた微笑みを浮かべたまま、透き通った指先をネロの頭へそっと重ねる。
ネロはその言葉を疑うことなく受け止めていたが、ラダはそんな少年の横顔を見つめながら、自分には何一つ見えない空間へほんの一瞬だけ視線を向けた。
そこに本当に女神がいるのか、ラダには確かめる術がない。
それでも、自分を救ってくれたネロの言葉だけは信じてみたいと、今はそう思っていた。




