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第11話 辺境でスローライフを

自由交易都市リンドブルムの石畳を踏みしめながら歩くネロの隣で、ラダは落ち着かない様子で小さく身を縮こまらせていた。


首を締め付けていた【重層隷属環】は、すでに砕け散っている。


身を包んでいるのは、ネロが仕立屋で買い求めた上質な亜麻色のワンピースだ。


泥と血に汚れていたあの夜とは見違えるほど、清楚で可憐な佇まいになっている。


それでも、すれ違う街の人々がラダへ向ける視線は、凍てつくように冷たく鋭かった。


「おい、見ろよ……あの黒髪のエルフ……」


「確か、昨日の公開処刑でガルド様に引きずり出されていた、奴隷落ちの忌み子だろ」


「あんなレベル0の少年と一緒に歩いて……いくら買い取られたからって、平気な顔で表を歩けるなんて気味が悪い」


露店の並ぶ通りへ出ると、その悪意はさらに露骨な形となって現れた。


買い出しのためにネロが立ち寄った果物商の店先で、店主はラダの姿を一瞥するや否や、あからさまに顔をしかめて鼻を鳴らした。


「おいおい、黒髪の亜人崩れが触った果物なんて、不吉で他の客に売れやしねえよ。買うなら相場の三倍だ。……どれどれ、なんだその薄汚いステータスは……『愛玩奴隷』だってよ。やっぱり屑はどこまでいっても屑だな」


通りすがりの冒険者たちも、物珍しそうにラダへ視線を走らせては、勝手に『ステータス・オープン』を発動させる。

表示されたジョブを覗き見ては、品定めでもするかのように下卑た笑い声を上げた。

わざとネロたちの耳に届くよう冷やかしの言葉を投げつけ、すれ違いざまに地面へ唾を吐き捨てる者までいる。


「っ……」


ラダは恐怖と屈辱に肩を震わせ、周囲の視線から身を隠すように、ネロの服の裾を両手でぎゅっと握りしめた。


かつて奴隷商の館や貴族の屋敷で浴びせられ続けた蔑みの記憶が、消えない傷となって彼女の足を竦ませる。


逃げ場のない疎外感の中で、ラダは涙を堪えながら小さな身体を丸めた。


そんな姿を目にしたネロの胸を、鋭い痛みと激しい憤りが貫いた。


ガルドのような悪党を一人叩きのめしたところで、この街の隅々にまで根を張った偏見や、ステータス制度に毒された歪んだ価値観まで、一朝一夕に変えられるわけではない。


無力な少女を傷つけようとする無数の悪意から庇うように、ネロはラダの細い手をしっかりと握り返した。


「大丈夫だよ、ラダ。顔を上げて。……僕がついてるから、もう誰にも君を傷つけさせない」


絞り出すようなネロの言葉に、ラダは潤んだ琥珀色の瞳をわずかに上げ、震えながらこくりと頷いた。


だが、街全体を覆う重苦しい排他性と、二人を異物として排除しようとする冷たい空気は、ネロの肩にも重くのしかかる。


やり場のない無力感だけが、胸の奥へじわじわと積もっていった。


どれほど強大な魔獣を討伐し、金貨の山を積み上げようとも、この世界の底に流れる悪意からは逃れられないのだろうか。


そんな澱のような焦燥を抱えながら、二人は重い足取りで宿屋「木漏れ日亭」へと戻った。


夕暮れの光が薄暗い部屋の窓から差し込む中、ベッドの端に腰掛けたラダは、まだ恐怖の余韻から抜け出せず、膝を抱えて俯いていた。


「ごめんなさい……私、せっかくネロ様が買ってくれた服を着ているのに、一緒に歩くだけで、あなたにまで変な目を向けさせてしまって……」


消え入りそうな声で謝罪するラダの頭を、ネロは優しく撫でようと手を伸ばしかけた。


その瞬間、室内の空気がふわりと揺れ、甘く芳しい百合の香りで満たされた。


黄金と白銀の燐光が螺旋を描くように立ち上り、音もなく顕現したのは、完璧な美貌を湛えた女神モヒーニカだった。


モヒーニカはネロの背後へ回り込むと、その優美な腕をそっと彼の肩へ添え、ベッドに俯くラダへ慈愛に満ちた聖母の微笑みを向けた。


もちろん、その姿も声もラダには届いていない。前日にモヒーニカの存在を聞かされてはいるものの、ラダの目に映っているのは、ネロの背後に広がる何もない空間だけだった。


「人の世の偏見とは、なんと浅ましく、そして残酷なものなのでしょう……。目に見える数字やくだらない謂れに囚われ、異なる者を排斥することしかできない愚かな俗物たち。傷つき、疲弊した貴方たちにとって、この騒がしい街は少々息苦しすぎるようですわ」


鈴を転がすような甘やかな声音が、ネロの耳へ柔らかく流れ込んでくる。


「……モヒーニカ」


ネロが小さくその名を呼ぶと、俯いていたラダが僅かに顔を上げた。


「ネロ様……あの女神様が、いらっしゃるのですか?」


「ああ、うん。今、ここにいるよ」


前日の一件があったため、ラダもネロが誰もいない空間へ話しかけ始めた理由はすぐに理解したようだった。もっとも、その琥珀色の瞳をどれほど凝らしても、ネロの傍らに立つ女神の姿を捉えることはできない。


モヒーニカはそんなラダの様子を気に留めることなく、ネロの耳元へ身を寄せ、まるで甘い誘惑を囁くように言葉を続けた。


「ねえ、ネロ。いっそのこと、こんな俗世を離れてみませんか? 王都の目も届かない、南の最果て――緑豊かで、誰にも邪魔されない静かな辺境の地に、貴方たちだけの穏やかな家を構えるのです」


「辺境に……家を?」


突然の提案に、ネロは思わず目を丸くして振り返った。


ラダにはモヒーニカの言葉が聞こえていないため、ネロが突然口にした「辺境」という言葉の意味が分からず、不思議そうに二人がいるはずの場所へ視線を向ける。


「ええ。魔物狩りやギルドの権力争い、街の人間たちの醜い偏見などに縛られる必要はありません。朝は鳥のさえずりで目を覚まし、自分たちの手で小さな畑を耕し、木漏れ日の中で貴方に笛を奏でてもらう……」


モヒーニカはふっと柔らかく微笑み、ネロの頬へ実体のない指先を滑らせた。


「そんな心穏やかな暮らしこそ、今の傷ついた貴方たちに最も相応しいはずですわ」


その藍色の瞳が、優しくネロを覗き込む。


「魔王を討ち果たすという大願は、心が十分に癒やされ、真の強さを手に入れたその後でも遅くはありません。……どうです? 私の可愛い勇者様。あの娘と二人、穏やかな暮らしを始めてみませんか?」


それは、過酷な追放と裏切りに満ちた世界から逃れ、大切な者と平穏な日常を送るという、疲弊したネロの心にとってあまりにも甘美な誘惑だった。


「辺境で、静かに暮らす……か……」


モヒーニカの言葉を反芻するように呟いたネロの瞳へ、かすかな救いの光が宿った。


数字に縛られ、他人から値踏みされ、偏見に晒され続ける息苦しい街。


そこから遠く離れ、誰の視線も届かない場所で土を耕し、穏やかな音色を響かせながら暮らす。


かつて王都で切り捨てられ、ただ生き延びることだけに必死だったネロにとって、それは夢のような光景だった。


ネロはベッドの端に座るラダへ向き直り、その手をおずおずと包み込んだ。


「ラダ。今、モヒーニカがね……この街を離れて、南の最果てにある静かな辺境で暮らしてみたらどうかって言ってるんだ」


「南の……辺境ですか?」


「うん。王都の目も届かなくて、緑がたくさんある静かな場所らしい。そこで小さな畑を耕したりしながら、しばらく穏やかに暮らしてみたらどうかって」


モヒーニカから聞いた提案を伝え終えると、ネロは改めてラダの琥珀色の瞳を見つめた。


「……どうかな、ラダ。この街を出て、南の果てへ行ってみないか。誰も僕たちのステータスを笑ったりしない、静かな場所へ」


ラダは伏せていた顔をゆっくりと上げ、潤んだ琥珀色の瞳でネロを見つめ返した。


まだ、過去の恐怖が完全に拭い去られたわけではない。


それでも、目の前にいる少年の掌から伝わる確かな体温が、彼女の凍てついた心を少しずつ溶かしていた。


「……はい」


ラダは小さく、それでも確かな意思を込めて頷いた。


「ネロ様と一緒なら……どこへでも行きます。あなたの隣にいられるなら、それだけで十分です」


「ありがとう、ラダ」


ネロは安堵の息を吐き、柔らかく微笑みかけた。


その様子を見届けたモヒーニカは満足そうに目を細めると、黄金と白銀の粒子となって、静かに夕闇の中へと溶けていった。


その光景が見えているのもネロだけであり、ラダには女神が現れた時と同じように、いつ姿を消したのかすら知ることはできなかった。


◇ ◇ ◇


翌朝。


まだ夜が明けきらぬ薄暗がりの中、二人は出立の準備を整えた。


ネロは冒険者ギルドの受付へ立ち寄り、事務的に登録の抹消手続きを済ませる。


中央の統制が緩い自由交易都市のギルドは、レベル0の少年が籍を抜くことなど気にも留めず、淡々と書類へ印を落とすだけだった。


宿屋「木漏れ日亭」の宿泊費を精算し、単独討伐で得た金貨の袋と、街道を進むために必要な最低限の旅道具を背負い袋へ詰める。


深い朝霧が街の輪郭を白くぼかす中、二人はリンドブルムの南門へと足を向けた。


石造りの巨大な門をくぐる。


背後では、冷たい視線を投げかけてきた街のざわめきが、ゆっくりと遠ざかっていった。


見送る者など誰一人としていない。


ひっそりとした旅立ちだった。


「寒くないかい、ラダ」


「はい、大丈夫です。……空気が、とても澄んでいますね」


南へと続く緩やかな下り坂の街道を、二人は並んで歩き出した。


前方に広がるのは、見渡す限りの深い原生林と、朝霧の向こうに幾重にも連なる山並み。


そしてネロの肩のすぐ後ろ。


誰の目にも映らぬ空間には、甘い百合の香りを纏った神聖な気配が、寄り添うように漂っていた。


踏み出す一歩ごとに、王都の呪縛からも、街の悪意からも遠ざかっていく。


そう信じて歩く少年と少女の背中を、見えない女神の視線が静かに見つめていた。

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