第12話 ハーレムの夢
リンドブルムの南門を抜けてから半日。
街道を外れた深い原生林の中に、かつて木こりや狩人が使っていたのであろう、簡素な丸太小屋がひっそりと佇んでいた。
傾きかけた夕陽が木々の隙間から赤く差し込む中、ネロとラダは雨露をしのぐため、その小屋で一夜を明かすことにした。
埃を払い、暖炉に火をくべると、冷え切っていた小さな部屋は柔らかな橙色の温もりに満たされた。
部屋の隅。
暖炉の火影さえ届かぬ薄暗がりに、黄金と白銀の燐光をまとったモヒーニカが音もなく姿を現した。
彼女はネロが古びた木製の寝台へ身を横たえるのを満足そうに見届けると、氷のように滑らかな唇を緩めた。
「良き夢を、我が愛しき勇者」
鈴の音を思わせる甘美な囁きを残し、モヒーニカの姿は光の粒子となって、夜の静寂へと溶け込んでいった。
「ラダ、本当にベッドを使っていいんだよ? 僕が床に毛布を敷くから」
ネロが身を起こして声をかけると、寝台のすぐ脇に清潔な毛布を整えていたラダは、慌てて両手を振りながら首を横に振った。
「い、いえ……! 屋根のあるお部屋で、こんなに柔らかい毛布をいただけるだけで、私には身に余る幸せです。ネロ様は今日一日、ずっと私を気遣って歩いてくださいました。どうか、お身体を休めてください」
そう言って恐縮しながら、ラダは寝台の足元に小さく丸まった。
長年の奴隷生活で染み付いた遠慮深さに、ネロは苦笑交じりのため息を漏らした。
それでも無理強いはせず、持っていた厚手の上掛けを、彼女の華奢な肩へそっと掛けてやる。
「おやすみ、ラダ」
「おやすみなさいませ、ネロ様……」
暖炉の薪が爆ぜる微かな音と、やがて聞こえ始める少女の規則正しい寝息。
ネロは寝台へ身を沈め、静かに瞼を閉じた。
一日の重い疲労が波のように押し寄せ、意識は急速に深い微睡みの底へ沈み込んでいく。
――ふわりと。
嗅いだこともないほど芳しい、百花と香油の匂いが鼻腔をくすぐった。
肌を撫でる風は暖かく、頭上からは眩いばかりの黄金の陽光が降り注いでいる。
ネロの意識が浮上した場所は、薄暗い丸太小屋ではなかった。
見上げるほど巨大な白亜の尖塔が連なり、大理石の宮殿が地平の彼方まで続く、壮麗極まりない巨都の大通り。
(……ここは、どこだ……?)
視線を落とすと、自分の手足が見えた。
だが、それは見慣れた少年の身体ではなかった。
鍛え抜かれた強靭な四肢。
ネロは黒い髪を堂々と風になびかせる一人の偉容ある青年戦士になっていた。
そしてその胸中には、自ら経験したものとしか思えない、鮮烈な記憶が刻み込まれていた。
世界を永きにわたって恐怖と絶望で塗り潰していた、凶悪無比なる魔界の王。
そして、その配下たる数万の魔軍。
それらすべてを、この手で――ただ一人で叩き伏せ、完全に討ち滅ぼしたのだという、揺るぎない凱旋の記憶。
『勇者様万歳――ッ!』
『救世の英雄に栄光あれ――ッ!』
地鳴りのような大歓声が、天地を揺るがしていた。
通りを埋め尽くす何十万もの民衆が、狂乱せんばかりの熱狂とともに、視界を覆い尽くすほどの極彩色の花びらを降らせている。
青年は悠然たる足取りで白亜の宮殿へ進み、その最奥にある壮麗な玉座の間へと至った。
壇上に並ぶ王族や神官、高位貴族たちが、畏怖と諂いの入り混じった笑みを浮かべ、山のような領地目録と最高位の爵位証書を恭しく差し出してくる。
だが、青年は片手を軽く上げ、笑みを浮かべたままそれらを制した。
そして、自らの背後に控えていた大勢の女性たちを振り返り、その一人一人へ向けるように大きく腕を広げた。
「俺は、この過酷な戦いで苦楽を共にし、救い出してきたすべての女性たちを妻として迎える。誰一人として見捨てる気はない!」
青年の朗々とした声が、静まり返った大広間へ轟き渡った。
彼の周囲に身を寄せ、涙ぐみながら寄り添っているのは、当時の階級社会において「穢れている」「卑しい」と一方的に蔑まれ、日陰へと追いやられてきた女性たちばかりだった。
魔王の地下迷宮で家畜のように繋がれていた、元奴隷の少女たち。
故郷の森を焼かれ、人間社会から異端として爪弾きにされていたエルフや獣人の娘たち。
ジョブの低さゆえに虐げられていた者たち。
魔王軍の人質として囚われ、無事に救出されたにもかかわらず、心ない世間から純潔を疑われ、生家から拒絶された哀しき姫君や貴族令嬢たち。
そして、戦火の中で夫を理不尽に奪われ、社会の片隅で行き場を失っていた未亡人たち。
青年の破天荒な宣言に、玉座を取り囲む神官や貴族たちは泡を食って色めき立った。
『き、狂気の沙汰だ! 身元も知れぬ穢れた女どもや異種族を、一度に娶るなど前代未聞!』
『神聖なる秩序を何と心得る! 神罰が下るぞ!』
激しい罵声と反発の嵐が吹き荒れる。
だが、青年はそれらの非難を、涼しい顔で高らかに笑い飛ばした。
「神の秩序が彼女たちを救わなかったのなら、俺が彼女たちを救い、誇りを与える。文句があるなら、俺から彼女たちを奪ってみせるがいい」
圧倒的な威厳と底知れぬ包容力。
青年は寄り添う女性たちを守るように立ち、世界中のあらゆる偏見と悪意から、その尊厳を己の身一つで守り抜くと宣言した。
女性たちは青年へ縋りつき、熱い感謝と崇愛の涙を流していた。
――場面が、ふいに夜の静寂へと転じた。
満天の星々が瞬く、甘い夜風の吹き抜ける美しい庭園。
薄絹の天幕が風に揺れるその中央に、一人の女性が青年を迎えるように佇んでいた。
夜空のように美しい黒髪を風に揺らし、琥珀色の瞳を潤ませている少女――ラダだった。
だが、その姿は昼間の怯えた奴隷の少女とはまるで異なっていた。
凛とした誇りと、青年に対する深い慈愛。
そして、熱い情愛をその瞳の奥へ宿している。
青年は愛おしさを堪えきれぬように歩み寄り、ラダの滑らかな頬を両手で優しく包み込んだ。
「ずっと待たせてすまなかった、ラダ。これからは誰にも邪魔されず、お前と共に生きる」
「……はい、私の英雄様。私の心も命も、すべてはずっとあなたのものです」
ラダが夢見るように微笑み、二人の顔がゆっくりと近づいていく。
触れ合う吐息。
やがて、ラダの柔らかな唇が青年の唇へと重なった。
一度触れただけでは終わらない。
互いを求めるように唇を重ね、青年はラダの華奢な身体をそっと抱き寄せる。
ラダも拒むことなく、その胸元へ身を預けた。
甘い夜風の吹き抜ける天幕の中、二人は互いの温もりを確かめるように寄り添い、そのまま愛し合うように夜の褥へと身を沈めていった――。
「っ――!?」
息を呑む鋭い呼気とともに、ネロの身体が寝台の上で跳ねるように起き上がった。
視界に飛び込んできたのは、粗末な丸太小屋の天井と、窓の隙間から差し込む青白い未明の月光。
暖炉の火はすでに熾火となり、寝台の足元では、ワンピース姿の現実のラダが、毛布に包まりながら静かな寝息を立てていた。
「っ……あ……う……!?」
心臓が早鐘のように胸を打ち鳴らしている。
首筋から耳の先、頬まで、一気に熱が駆け上がった。
ネロは両手で真っ赤に染まった顔を覆い、荒い呼吸を必死に押し殺した。
(な、なんだ……っ!? 今の夢は……っ!?)
混乱のあまり、頭の中が真っ白になりそうだった。
魔王を一人で倒したかと思えば、大勢の女性たちを妻にすると高らかに宣言し、貴族や神官たちを一喝。
それだけでも普段の自分からは到底考えられない。
ましてや――。
ネロの脳裏に、先ほどの光景が鮮明に蘇る。
ラダの潤んだ琥珀色の瞳。
柔らかな唇の感触。
腕の中へ預けられた華奢な身体の温もり。
そして、そのまま二人で夜の褥へと――。
「~~~~っ!!」
声にならない悲鳴を上げ、ネロはますます強く両手で顔を覆った。
(な、何を夢見てるんだ僕は……っ! 出会ったばかりのラダとキスして、それどころか、そのまま……っ!)
そこから先を思い出しただけで、顔から火が噴き出しそうだった。
普段の自分からは到底考えられない、傲岸不遜なまでの振る舞い。
あまりにも自分に都合のよすぎる展開。
そして何より、夢の中で触れたラダの唇や身体の温もりが、妙に生々しく脳裏へ焼き付いて離れない。
(お、落ち着け……っ! ただの夢だ……! 追放されたり、急に強い力を手に入れたりしたせいで、疲れて変な夢を見ただけに決まってる……!)
眠っているラダへ、恐る恐る視線を向ける。
何も知らずに丸くなって眠る少女の姿を見た瞬間、夢の中のラダと重なり、ネロは反射的に顔を逸らした。
(こんなの、もしラダに知られたら……絶対に軽蔑される……! というか、どんな顔して話せばいいんだよ……っ!)
ネロは音を立てないよう、必死に忍び足で寝台を抜け出した。
そのまま土間に置かれていた水瓶へ駆け寄り、震える手で柄杓を掴む。
汲み上げた冷水を、一息に喉へ流し込んだ。
冷たい感触が喉から胃の腑へ落ちていく。
それでも、顔と胸の奥に残る猛烈な火照りは、容易には収まりそうになかった。
どれほど冷水を胃の腑へ流し込んでも、一度火がついてしまった胸の動悸は収まってくれない。
柄杓を水瓶へ戻し、ふう、と熱い息を吐き出した、その時だった。
「……ん……っ」
背後の毛布から、衣擦れの音が微かに響いた。
ネロの背筋が凍りつく。
「ネ、ネロ様……?」
目を擦りながら身を起こしたラダが、土間に立ち尽くすネロへ琥珀色の瞳を向けた。
まだ眠気の残る無防備な表情。肩から滑り落ちかけた毛布。その華奢な首筋や唇が目に入った瞬間、脳裏へ先ほどの天幕の光景が鮮烈にフラッシュバックする。
「うわぁっ!? な、なんでもない! なんでもないからねっ!?」
飛び退くように後退り、ネロは咄嗟に顔を背けた。
視線を右往左往させ、絶対にラダの顔と目を合わせないよう、明後日の方向にある丸太壁の木目を穴が開くほど見つめる。
「え……? あ……」
その露骨な拒絶とも取れる態度に、ラダの顔から一気に血の気が引いた。
琥珀色の瞳がみるみるうちに不安と恐怖で揺らぎ、昨夜の奴隷としての怯えが急速にぶり返していく。
「も、申し訳ありません……っ! 私、寝相が悪くてネロ様のお邪魔を……!? それとも、いびきをかいてしまっていたでしょうか……っ!?」
「ち、違う! 全然違うから! ラダはすごく静かに寝てたよ!」
「で、では……私の呼吸の音がうるさかったですか……!? 不吉な黒髪の私が同じ部屋で息をしていること自体、お目汚しで……っ」
「だから違うってば! ラダは何にも悪くないんだ!」
必死に両手を振って否定するものの、ネロは決してラダの正面を見ようとしない。耳の先まで真っ赤に染め上げたまま、あからさまに視線を斜め上へ逸らし続けている。
そんなネロの不自然極まりない様子を見て、ラダはますます自分を責めるように、床の上で小さく縮こまってしまった。
「うぅ……絶対に怒っていらっしゃいます……。私、何か粗相をしてしまったんだわ……捨てられたらどうしよう……」
「怒ってない! 誓って怒ってないから! ……あ、朝ごはん! 朝ごはんの準備してくるから外の空気吸ってくるね!!」
耐えきれなくなったネロは、転がるように丸太小屋の扉を開け放ち、まだ明けきらぬ冷たい森の空気の中へと逃げ出していった。
バタン、と勢いよく閉まった扉を見つめながら、ラダは毛布を胸元まで引き上げ、オドオドと部屋に取り残される。
一方、外の木陰へ飛び出したネロは、朝露に濡れる草むらへしゃがみ込み、再び両手で激しく頭を抱えていた。
(……ダメだ。意識しすぎて、まともに顔が見られない……っ!)
南の辺境へ向かう穏やかなはずの旅路に、早くも別の意味での過酷な試練が訪れようとしていた。




