第13話 神の数字 ※暁の刃視点
立ち込める濃密な硫黄の臭気と、湿った岩肌を伝って粘液が滴り落ちる不快な音。
王都グラン・アルカが指定したSランク昇格試験、その最終区域――迷宮第50階層「奈落の顎」は、文字通り生者を呑み干す奈落の底だった。
広大な円形空洞の中央では、幾重もの節足と分厚い甲殻を持つ巨大な迷宮主――アビス・カラミティが、岩盤を震わせながら凶暴な咆哮を上げている。
かつての『暁の刃』であれば、この規模の魔獣であっても、まるで一つの舞踏を演じるかのような連携で整然と追い詰めていたはずだった。
ネロの木製横笛が奏でる旋律が大気を巡る魔素を整え、仲間たちの呼吸を自然に同期させる。余分な疲労や魔力の滞留を抑えながら、それぞれの攻撃、防御、回避の間に生じる僅かな歪みを埋め、五人の動きを一つの流れとして噛み合わせていたからだ。
だが今、広大な空洞を満たしているのは、耳障りな衝突音と苛立ちに満ちた罵声ばかりだった。
「消え失せろ、業火の檻――【インフェルノ・カノン】!」
後方から放たれたドミニクの極大魔術が、轟音とともに紅蓮の爆炎を巻き上げた。
しかし、その着弾点は敵の装甲ではない。前衛のバクが、まさに踏み込もうとしていた足元すれすれだった。
猛烈な熱風が吹き荒れ、舞い上がった火の粉がバクの視界を埋め尽くす。
「おい、ドミニク! どこを狙ってやがる! 俺を焼き殺す気か!」
「黙って敵を押さえつけていろ! 貴様の位置取りがコンマ数秒遅いから、私の詠唱と射線がずれるんだ!」
ドミニクは額に青筋を浮かべながら怒鳴り返した。
だが、その呼吸は酷く乱れ、指先は魔力の逆流による痺れで小刻みに震えている。以前なら意識するまでもなく最短で組み上がっていた術式陣も、今では粘つく泥をかき分けるかのように重く、展開に明らかな遅れが生じていた。
ギチィィィッ!
苛烈な爆炎を突き破り、アビス・カラミティが突進する。硬質な前脚の爪が、バクの構える黒金の大盾へ容赦なく叩きつけられた。
ガギィィィンッ――!
骨まで軋ませる凄まじい衝撃が、盾越しにバクの全身を突き抜ける。
かつてならば、ネロの奏でる微かな低音が盾そのものの振動を抑え、受け止めた衝撃を足元の大地へ滑らかに逃がしていた。
だが、今は違う。
巨体から叩き込まれた猛烈な衝撃は逃げ場を失い、そのままバクの両腕と肩へ直撃した。
「ぐ、あああぁッ……!? クソが、回復が遅いぞカクス! 障壁の強度も足りてねえ!」
バクは大盾の裏で膝をつき、口元から血を吐き散らした。
後方で聖印を掲げるカクスもまた、肩を激しく上下させ、脂汗に濡れた顔を歪めている。
「私を責めるな! 前線が敵の突進を殺しきれていないから、神聖結界の消耗が跳ね上がっているんだ! このままでは魔力ポーションが底を突くぞ!」
その混乱の隙を突き、死角へ回り込んで脚の腱を断ち切ろうとしたリクトの影が揺らぐ。
完全に崩れた敵意の誘導によって、それまでバクへ向けられていた魔獣の複眼が、突如としてリクトを捉えた。
「――っ!」
巨大な尾が轟音とともに空気を薙ぎ払った。
リクトは咄嗟に身を捻ったものの、その先端が防具を掠める。猛烈な衝撃に腕が弾かれ、愛用していた業物の双剣の一本が、甲高い音を立てながら暗闇の彼方へ吹き飛んでいった。
「しまっ……!?」
陣形は崩れ、魔力も容赦なく擦り減っていく。
互いに不信と苛立ちをぶつけ合い、完全な機能不全へ陥った『暁の刃』は、もはや一流の冒険者集団とは呼べなかった。
そこにあるのは、一人一人が持つ高い能力を自分勝手に振るうだけの、まとまりを失った集団だった。
「――目障りだ、虫けらがァッ!!」
瓦解寸前の空気を引き裂いたのは、鼓膜を破らんばかりの怒号だった。
金髪を逆立て、青白い雷光を全身から噴き上げながら、パラシュが地を蹴る。その手に握られているのは、身の丈を超える巨大な戦斧だった。
戦術も連携も知ったことではない。
敵を圧倒的な力で叩き潰す。ただそれだけのために振るわれる純粋な暴力の塊が、雷光を纏いながら宙を舞う。
「死ねッ! 【神威雷霆・断頭衝】ッ!!」
ドォォォォンッ!!
雷光を纏った大戦斧が、アビス・カラミティの分厚い頭部甲殻へ力任せに叩き込まれた。
硬質な甲殻が砕け散り、濁った体液が四方へ噴き出す。
ギャアアアアアアアッ!!
迷宮主が狂乱し、無数の脚を振り乱して暴れ狂う。
だが、パラシュは斧をさらに深くねじ込むと、全身の膂力だけで巨大な頭部を押さえ込み、そのまま岩盤へ叩き伏せた。
ドガァァァンッ!!
岩盤が爆ぜ、巨大なクレーターが穿たれる。
断末魔の絶叫とともにアビス・カラミティの巨躯が激しく痙攣し、やがて完全に動かなくなった。
立ち込める土煙と血飛沫の中、パラシュは頭部へ食い込んだ大戦斧を引き抜き、肩を大きく上下させながら荒い息を吐いた。
Sランク昇格試験、突破。
本来ならば、歓喜と達成感に満たされるはずの瞬間だった。
しかし、残された四人は誰一人として喜びの声を上げなかった。満身創痍のまま床へ倒れ込み、あるいは壁へ身体を預けながら、ただ互いを険しい目で睨みつけている。
身体は傷だらけで、鎧には亀裂が走り、魔力も枯渇寸前まで削られていた。
そこに漂っているのは勝利の余韻ではなく、擦り切れ、ささくれ立った険悪な沈黙だけだった。
仕留めた魔獣の血肉を布で乱暴に拭い落としながら、パラシュは一人、冷え切った岩壁へ背を預けた。
荒い呼吸が少しずつ静まっていく。
その視界の隅にこびりついた赤黒い血潮が、脳の奥底に眠っていた古い記憶を呼び起こした。
◇ ◇ ◇
王都グラン・アルカから遥か北。
深い原生林との境界へへばりつくように、名もなき貧しい寒村が存在していた。
平民の家に生まれたパラシュの幼少期は、決して裕福とは言えなかった。父の顔は知らず、痩せた畑から採れる僅かな根菜と、森で拾い集めた薪を売りながら、母と二人で身を寄せ合うように暮らしていた。
冬の風が吹き荒れる夜には、隙間風の入り込む粗末な丸太小屋で、母が畑仕事によってひび割れた手を暖炉へかざしながら、いつも薄いスープをパラシュの木椀へ少し多めによそってくれた。
『パラシュ、たくさんお食べ。大きくなって、立派な大人になるんだよ』
幼かったパラシュは、森で拾ってきた不格好な木の枝を剣のように振り回しては、母の前で得意げに胸を張った。
『母さん、俺、絶対に強くなるよ。街の騎士様よりも強くなって、母さんに金貨のベッドを買ってあげるんだ。魔物なんて俺が一発でやっつけて、母さんをずっと守ってやるから!』
根拠など何一つない少年の誓いに、母は細い目を三日月のように細め、愛おしそうにパラシュの金髪を撫でてくれた。
『ふふ、頼もしいねえ。私の小さな騎士様』
母はそう笑ったあと、ほんの少しだけ寂しそうに目を細めた。
『……でもね、パラシュ。誰かを力でねじ伏せるより、誰かを守るためにその優しい心を使うんだよ。お前は、本当に心の優しい子なんだから』
ひび割れてささくれた、それでも陽だまりのように温かかった母の掌。
あの温もりこそが、貧しい日々の中で、幼いパラシュにとって世界のすべてだった。
――そして、七歳になった年。
村外れの小さな礼拝堂で執り行われた神託の儀において、パラシュの右肩へ黄金の神紋が刻まれた。
それは、絶対神『童子』に選ばれたことを示す証だった。
生まれながらに与えられていた[ウォリアー]のジョブ。そして七歳の儀式によって、初代勇者の魂を継ぐ者として神に選ばれたことが示された。
貧しい寒村に生まれた少年は、その日から「神に選ばれた勇者」と呼ばれるようになった。
だが、当時のパラシュにとって、それは誇りこそあれど、世界の頂点へ立つための資格などではなかった。
これほど強い力を与えられたのなら、母を守ることができる。
幼い彼が願ったのは、ただそれだけだった。
だが、そのささやかな願いは、ある漆黒の夜に唐突に打ち砕かれた。
深夜、耳をつんざくような物音にパラシュは眠りから叩き起こされた。
直後、頬へ生温かな何かが飛び散る。
鼻腔を突いたのは、強烈な鉄の臭いだった。
『……え?』
暗闇の中、冷たい板張りの床へ夥しい血が広がっている。
その中心で、最愛の母は喉元を深く切り裂かれ、光を失った瞳を虚空へ向けたまま、二度と動かない骸となっていた。
『あ……ぁ……母、さん……?』
震える手で触れた母の身体は、急速に熱を失っていった。
どれだけ名を呼んでも、必死に身体を揺さぶっても、もう二度とあの優しい微笑みでパラシュの名を呼んでくれることはなかった。
暗がりから冷たい夜風が吹き込む中、少年の魂は絶叫とともに砕け散った。
そして、その破片はやがて黒々とした憎悪の炎へと焼き直されていく。
(魔族だ……。魔族が、俺の母さんを奪ったんだ……!)
あの夜から、パラシュの世界は一変した。
優しい心だけでは、何も守れない。
たとえ童子に選ばれた勇者であろうと、弱ければ大切な者一人すら守ることができない。
奪われないために。二度と蹂躙されないために。
理不尽そのものを力で叩き潰すほどの、圧倒的な強さが必要なのだと、幼いパラシュは信じ込んだ。
母を無残に殺した魔族を、この世から一匹残らず根絶やしにする。そして童子に選ばれた勇者として誰よりも強くなり、二度と誰にも見下されることのない至高の頂点へ立つ。
それだけが、いつしかパラシュにとって生きる意味となっていった。
やがて年月が過ぎるにつれ、その思いは少しずつ形を変え、さらに歪んでいく。
自分は童子に選ばれた。
ならば、力なき凡人の下に従う理由などない。
神に選ばれた自分こそが、この世界の頂点に立つべき存在なのではないか。
幼い日に母を守るためだけに欲したはずの力は、いつしか誰にも屈しないための力へと変わり、やがては他者を従わせ、自らが頂点へ立つための力へと姿を変えていた。
◇ ◇ ◇
「おい……そろそろ行くぞ。転移陣へ戻る」
パラシュが短く吐き捨てる。
他の四人も、重い身体を軋ませながら無言で立ち上がった。
迷宮最下層の転移陣を抜け、ギルド本部の奥に設置された「ステータス更新の祭壇」へ辿り着いた一行は、誰からともなく蒼白い光を放つ巨大な更新水晶へ歩み寄った。
全身は傷だらけで、防具も見る影なく破損している。連携は崩壊し、パーティとしての実質的な戦闘能力は、ネロを追放する以前より明らかに落ちていた。
しかし、それぞれがギルドプレートを水晶の表面へ押し当てた、その瞬間。
キィィィン……ッ!
空間そのものを震わせるような神聖な燐光が迸った。
そして水晶の鏡面へ、常識を遥かに超えた異様な文字列が次々と浮かび上がっていく。
【パーティ『暁の刃』最新ステータス】
・パラシュ:Lv.52 ───→ Lv.63[選ばれし勇者:ウォリアー]
・バク :Lv.46 ───→ Lv.59[ガーディアン]
・ドミニク:Lv.47 ───→ Lv.61[ウィザード]
・カクス :Lv.45 ───→ Lv.58[プリースト]
・リクト :Lv.46 ───→ Lv.60[シーフ]
「……っ!?」
浮かび上がった数字を目にした、その刹那。
先ほどまでいがみ合っていたメンバーたちの顔から、人間らしい感情の揺らぎが、まるで拭い取られたかのように消え去った。
瞳の奥に宿っていた疲労も、焦燥も、苛立ちも、急速に薄れていく。代わりに浮かび上がったのは、底知れぬ陶酔に濁った虚ろな光だった。
「あは……あはははっ! 見ろよ……一気に十以上も跳ね上がったぞ!」
「神の恩寵だ……! 俺たちは間違っていなかった! あのレベル0の足手まといを捨てたからこそ、神が我らに真の力を与えてくださったんだ!」
口々に乾いた歓喜を叫び、歪んだ笑みを浮かべ合う仲間たち。
肉体は悲鳴を上げ、技術も連携も明らかに瓦解している。それにもかかわらず、水晶が示した「神の数字」という絶対的な麻薬が、目の前にあった戦闘の現実さえ塗り潰し、彼らの理性を瞬く間に侵食していった。
しかし、歓喜に湧く仲間たちの輪から一歩離れた場所で、パラシュだけは自らのプレートへ刻まれた文字を凝視していた。
【Lv.63[選ばれし勇者:ウォリアー]】
その数字を見つめながら、パラシュは苦々しく奥歯を噛み締める。
(まだだ……まだ足りない……ッ!)
王都グラン・アルカの最深部。
白亜の王城、その中心には神聖なる玉座が据えられている。
その場所には初代聖王の時代より、神が施した絶対不可侵の術式結界が張り巡らされていた。
玉座へ触れ、真の統治者として君臨することを許される条件は、血統でも武勲でもない。
神のシステムが定めた、ただ二つの条件。
最高位ジョブ【選ばれし勇者】を冠すること。
そして、人間が到達し得る極限の数値――【Lv.99】へ至ること。
その双方を満たした者だけが、神聖なる玉座へ至る資格を得る。
平民の出であるパラシュが、自分を内心では見下し、都合のいい前線戦力として使い潰そうとしている腐敗貴族どもを力でねじ伏せ、玉座から引きずり下ろすためには、神が定めたこの絶対的な条件を満たさなければならない。
(俺は童子に選ばれた勇者だ……。本来なら、この俺こそが頂点に立つべきなんだ)
パラシュの指が、ギルドプレートへ強く食い込む。
(なのに、レベル99まで……まだ36も足りない……ッ!)
もっと魔物を殺さなければならない。
もっと強大な敵を倒し、経験値を得なければならない。
力を。
神が定めた、王となるための数字を。
もっと、もっと、もっと――。
母を殺した魔族への憎悪と、玉座への執着。そして「神に選ばれた自分こそが頂点に立つべきだ」という歪んだ確信が絡み合い、パラシュの思考を焼き焦がしていく。
「ふ、ふふ……そうだ。俺たちは選ばれた存在だ。すぐに届かせてやる……」
パラシュは血の気の失せた唇を吊り上げ、飢えた獣のような笑みを漏らした。
その時、剥き出しになった右肩に刻まれた黄金の神紋が、微かに脈打った。
七歳の神託の儀によって刻まれた、絶対神『童子』に選ばれし者の証。
これまで黄金の光しか放ったことのなかったその神紋が、宿主の狂気的な渇望へ呼応するかのように、皮膚の下へ細い根を伸ばし始める。
やがて、その輝きへ異質な色が混じった。
黄金の奥から滲み出すように現れた、青黒く禍々しい燐光。
それは誰にも気づかれることなく、パラシュの肉の奥深くへじわり、じわりと根を張りながら、不吉な明滅を繰り返していた。




