第14話 村での暮らし
霧深い渓谷を抜け、切り立った岩肌を縫うように伸びる獣道を下りきった先。
そこに広がっていたのは、外界の喧騒と悪意から完全に隔絶された、奇跡のような隠れ里だった。
すり鉢状の盆地を囲む鬱蒼とした原生林が冷たい風を遮り、中央を流れる清冽な小川が、柔らかな陽光を反射して煌めいている。手入れの行き届いた段々畑には瑞々しい作物が青々と実り、白壁と木組みの素朴な家々の煙突からは、細い煙がのどかに立ち上っていた。
王都グラン・アルカにあった冷徹な選別も、自由交易都市リンドブルムで浴びせられた刺すような蔑視も、ここまでは届かない。
まるで、おとぎ話の中に描かれたスローライフの理想郷そのものだった。
「……あそこが、モヒーニカの言っていた場所なのかな」
ネロが背負い袋の紐を直しながら呟く。
隣を歩くラダは長い耳を伏せ、恐る恐る村の入り口を見つめていた。これまで幾度となく浴びせられてきた石や唾、冷酷な嘲笑の記憶が、少女の足を無意識に竦ませている。
だが、二人が村の小道へ足を踏み入れても、予想していた拒絶はどこにも訪れなかった。
畑で鍬を振るっていた青年や、木陰で籠を編んでいた老人、洗濯物を干していた少女たち。見知らぬ来訪者に気づくや否や、彼らは作業の手を止め、花が綻ぶような穏やかな笑みを浮かべて二人のもとへ駆け寄ってきた。
「ようこそ、旅のお方。こんな山奥まで、よく来られたね」
「まあ、ずいぶん遠くから歩いてきたんじゃないかい? 喉が渇いているだろう。冷たい井戸水をお飲みなさい」
「焼きたてのライ麦パンもあるよ。お腹が空いているなら、遠慮しないで食べてね」
温かな言葉とともに差し出される、柔らかなパンと澄んだ水。
誰一人として、ラダの夜空のような黒髪を忌み嫌う様子はなかった。その尖った耳を珍奇なものとして品定めする者もいない。
ネロのみすぼらしい旅装束も、二人が漂わせるどこか逃亡者めいた雰囲気さえも気に留めず、村人たちはまるで昔から知っている家族を迎え入れるかのような、無条件の親愛で二人を包み込んでいく。
「あ……あの、私……不吉な黒髪の、エルフで……」
ラダが戸惑いと怯えの入り混じった声で呟く。
すると、水を差し出していた麦わら帽子の少女は不思議そうに小首を傾げた後、鈴を転がすような声で笑った。
「黒い髪? とっても艶やかで綺麗じゃない。ねえ、お兄さんもそう思うでしょう?」
「……っ」
その裏表のない純粋な言葉に、ラダの琥珀色の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
全身を縛り付けていた透明な枷が、ふっと解けたかのようだった。ラダはその場にへたり込みそうになる身体をネロの腕へ預け、小さく咽び泣いた。
「よかったね、ラダ……。ここなら、誰も僕たちを傷つけない。二人で、新しくやり直せるよ」
ネロは心からの安堵を覚えながら、ラダの華奢な肩を優しく抱き寄せた。
しかし、温かな歓迎の輪の中で、ネロがふと村人たちのステータスへ意識を向けた瞬間、奇妙な違和感が胸の奥をかすめた。
【個体識別:エルド】
・Lv.28 ジョブ[一般農民]
・筋力:145/魔力:35
・主要スキル:【土壌改良】【耕作適性】【疲労耐性】
・特記事項:特になし
【個体識別:リーネ】
・Lv.26 ジョブ[給仕見習い]
・筋力:42/魔力:90
・主要スキル:【製パン技術】【軽快動作】【家事全般】
・特記事項:特になし
(……え? レベル28に、26……?)
ネロは思わず瞬きを繰り返した。
王都で出会った新米の衛兵や、街道を行き交う駆け出しの冒険者ですら、レベルは十代前半であることが大半だ。
だというのに、目の前にいるのは、血を流すような過酷な訓練も、魔獣との命懸けの死闘も経験していないように見える、ごく普通の村人たちだった。ただ土を耕し、パンを焼き、穏やかに日々を暮らしているだけの人々にしか見えない。
(戦士系のジョブでもないのに……みんな、どうしてこんなにレベルが高いんだろう。変なの……)
首を傾げながらも、ネロはそれ以上深く追究することはしなかった。
広場では、麦わら帽子を被った少女たちが木の実を拾いながら笑い合い、エプロン姿の娘たちは井戸端で楽しそうに言葉を交わしている。畑では男たちが額に汗を浮かべながら土を耕し、老人たちは木陰に腰掛けて穏やかに談笑していた。
誰もが屈託のない笑みを浮かべ、柔らかな陽光の中で満ち足りた暮らしを営んでいる。
そして何より、ラダが心から安らげる場所を、ようやく見つけることができた。
その尊さに比べれば、ステータスに浮かんだ些細な疑問など、今のネロにとってはどうでもいいことのように思えた。
◇ ◇ ◇
村長から村外れにある手入れの行き届いた小さな空き家を譲り受けた二人は、その日から穏やかな共同生活を始めた。
朝には、朝露に濡れた裏庭の雑草を抜き、柔らかな黒土を耕してハーブや野菜の種を蒔く。昼には森の入り口まで足を運び、澄んだ香りを放つ野草や木の実を摘んだ。
夕暮れになれば竈の火を囲み、不器用ながらも二人で作った温かなシチューを分け合う。
そんな穏やかな日々が、少しずつ二人の生活になっていった。
「ネロ様、見てください! 裏庭の芽が、もうこんなに顔を出しました!」
亜麻色のワンピースの裾を揺らし、泥のついた小さな手で芽吹いた若葉を指差すラダ。
その顔には、かつて処刑台の上で死を待っていた奴隷の面影は、もうほとんど残っていなかった。そこにあるのは、春の陽だまりを思わせる無邪気で温かな笑顔だった。
「本当だ。思っていたより、ずっと早かったね」
「はい! もっと大きくなったら、私がお料理しますね」
「じゃあ、楽しみにしてる」
「……はいっ!」
弾むような返事とともに、ラダが嬉しそうに笑う。
午後になると、ネロは木漏れ日の降り注ぐ大樹の根元へ腰を下ろし、使い古された木製の横笛を唇へ当てた。
穏やかな調べが静かな村の空気を優しく震わせていくと、ラダは楽しそうに琥珀色の瞳を輝かせ、音色に合わせて軽やかなステップを踏み始める。
黒髪と亜麻色のスカートを風に揺らしながら、くるり、くるりと楽しそうに舞い踊る。
王都で味わった裏切りも、ステータスによって切り捨てられた痛みも、リンドブルムで浴びせられた冷たい視線さえも、この隔絶された楽園を流れる緩やかな時間の中へ、少しずつ溶けて消えていくようだった。
青く澄み渡る空の下、ネロの奏でる穏やかな笛の音とラダの楽しげな笑い声が、静かな村の木漏れ日の中へいつまでも響き渡っていた。




