第15話 湯けむりの休日
村で暮らし始めてから、十日ほどが過ぎた。
朝になれば鳥の声とともに目を覚まし、裏庭へ出て朝露に濡れた畑の様子を見る。昼には森へ入り、食べられる野草や木の実を探し、夕暮れになればラダと並んで竈の火を囲む。
そんな何でもない一日の繰り返しが、いつしかネロにとって当たり前の生活になりつつあった。
王都で《暁の刃》と行動していた頃は、翌日にどんな依頼が入るのか、誰が傷つく可能性があるのか、そのために自分はどんな旋律を組み立てるべきなのかと、常に先の戦いばかりを考えていた。
けれど、この村では違う。
今朝もネロが寝台から身体を起こした時、台所から漂ってきたのは焼いたパンと野菜の香ばしい匂いだった。
「ネロ様、起きていらっしゃいますか? 朝ご飯、もうできますよ」
扉の向こうから聞こえてきたラダの声に、ネロは欠伸を噛み殺しながら髪を掻いた。
「起きてるよ。……たぶん」
「たぶん、ですか?」
「身体は起きたんだけど、頭がまだ半分くらい寝てるみたいだ」
くすくすと笑う声が返ってくる。
そんなやり取りを交わせること自体が、少し前までのネロには想像もできなかった。
誰かに起こされ、一緒に朝食を食べ、今日することを話し合う。
ただそれだけの時間が、不思議なくらい心地よかった。
◇ ◇ ◇
その日の昼過ぎ。
ネロは裏庭へしゃがみ込み、畑を囲う柵の修理をしていた。
先日の雨で一本の杭が傾いてしまい、放っておけば畑へ小動物が入り込むかもしれない。新しい杭を土へ打ち込み、縄を結び直していると、背後から杖をつく音が近づいてきた。
「お前さん、また働いてるのかい」
振り返ると、籠を背負った村の老人が呆れたような顔で立っていた。
「またって……これくらいなら大したことないですよ。昨日の雨で柵が緩んでいたから、今のうちに直しておこうと思って」
「昨日は薪小屋の屋根を直していたじゃないか。その前は畑を広げてたし、村へ来てから休んでるところをほとんど見たことがないぞ」
老人に指摘され、ネロは手にした金槌を見下ろした。
「でも、家まで使わせてもらっていますから。何もしないで世話になっているだけっていうのも、なんだか落ち着かなくて」
「若いのに妙なところで律儀だな」
老人は白い髭を撫でながら笑ったが、やがて村の北側に聳える山へ杖の先を向けた。
「だったら今日は、休むのも仕事だと思って言うことを聞きな。あの山を少し登ったところに湯が湧いている。村の連中で石を積んで、簡単な湯場にしてあるんだ」
「湯場?」
「温泉さ。今の時間なら空いているだろうし、嬢ちゃんも連れて行ってきな。毎日働いてばかりじゃ、二人ともそのうち本当に倒れるぞ」
言いたいことだけ言うと、老人は満足そうに頷き、再び村の小道を歩いていった。
ネロはしばらくその背中を見送った後、金槌を膝へ置く。
「……休むのも仕事、か」
これまでの自分なら、休む暇があるなら笛の練習をした方がいいと考えていただろう。
だが、ふと家の軒先へ目を向けると、洗濯物を取り込んでいたラダと目が合った。
「どうかなさいましたか?」
「いや。村の人に、働きすぎだから今日は休めって怒られちゃってさ」
「ネロ様がですか?」
ラダは少し驚いた後、どこか納得したように頷いた。
「……私も、少しだけそう思っていました」
「ラダまで?」
「だって、朝から晩まで何かしていますから。昨日も私が寝る頃まで、裏庭で道具を直していましたよね」
思わぬところから援軍を失い、ネロは苦笑した。
「二対一じゃ勝てないな。ところで、山の上に温泉があるらしいんだけど……ラダも行ってみない?」
「温泉……」
ラダの長い耳が小さく動いた。
一瞬だけ驚いたような顔をした後、琥珀色の瞳に懐かしそうな色が浮かぶ。
「……行ってみたいです」
その返事を聞いたネロは、ようやく金槌を工具箱へ戻した。
「じゃあ今日は、本当に何もしない日にしよう。僕が途中で薪を拾い始めたら止めてくれる?」
「はい。全力で止めます」
「そんなに信用ないのかな……」
珍しく楽しそうに笑うラダを見ながら、ネロもつられて頬を緩めた。
◇ ◇ ◇
村から山道を登ること半刻ほど。
鬱蒼とした森を抜けた先に、白い湯気に包まれた小さな岩場があった。
崖の割れ目から透明な湯が絶えず流れ出しており、その下には平たい石を積み上げて作られた二つの湯船が並んでいる。中央には背丈より高い板壁が設けられ、男湯と女湯が簡素に仕切られていた。
辺りに漂うのは強い硫黄の臭いではなく、濡れた岩と木々、それに山の草花が混じった穏やかな香りだった。
頭上では木々の隙間から青空が覗き、吹き抜ける風が湯気をゆっくりと揺らしている。
「思ってたより立派だな……」
ネロが感心していると、隣にいたラダはなぜか少し落ち着かない様子で板壁を見つめていた。
「ちゃんと分かれてるみたいだから、僕は向こう側に入るよ。何かあったら声をかけて」
「は、はい。分かりました」
「そんなに緊張しなくても、壁を越えて行ったりしないから大丈夫だよ」
「そ、そういう心配をしているわけではありませんっ」
耳の先まで僅かに赤くしたラダに勢いよく否定され、ネロは何がまずかったのか分からないまま首を傾げた。
それ以上触れれば余計に怒られそうな気がして、素直に男湯側へ向かう。
衣服を脱いで湯へ身体を沈めると、肩から一気に力が抜けていった。
「……これは、村の人が休めって言うわけだ」
思わず声が漏れる。
ここ数日、畑仕事で酷使していた肩や背中がじわじわと温まり、身体の奥へ溜まっていた疲労が湯の中へ溶けていくようだった。
しばらくすると、板壁の向こうから小さな水音が聞こえる。
「……あったかいです」
ラダの声にも、普段より少し力が抜けていた。
「気持ちいいよね。こういうところ、ラダは初めて?」
「いえ……ずっと小さい頃、里にも少し似た場所がありました」
その答えが意外で、ネロは湯船の縁へ背中を預けた。
「ラダの故郷にも温泉があったんだ」
「温泉と呼べるほど大きなものではなかったんですけど、森の奥に一年中温かい水が湧く場所があったんです。冬になると、お母さんとよく入りに行きました」
これまで故郷について話す時、ラダの声にはいつもどこか痛みが混じっていた。
だが、今の声音は違う。
失った故郷の悲惨な最期ではなく、それより前に確かに存在していた幸福な時間を思い出しているのだろう。
ネロは余計な言葉を挟まず、その続きを待った。
「お母さんは、湯へ香草を浮かべるのが好きだったんです。森で摘んだ葉を乾かして、布へ包んで……少し苦い匂いがするんですけど、身体がすごく温まるんですよ」
「へえ。ラダも作れるの?」
「少しなら。小さい頃は、お母さんの真似をして色々作っていましたから」
「色々って?」
問いかけると、板壁の向こうでラダが少し考える気配がした。
「花を編んだり、細い蔓で腕輪を作ったり、綺麗な葉を本の間に挟んで残したり……。森で綺麗なものを見つけると、持って帰って何かにするのが好きだったんです」
「それ、いい趣味じゃないか」
「……趣味?」
「うん。ラダが好きでやってたんでしょう?」
ネロが何気なく返すと、しばらく答えがなかった。
代わりに、小さく湯を掬う音だけが聞こえてくる。
「どうしたの?」
「いえ……ただ、そういうふうに言われたことがなかったので」
ラダの声が少しだけ小さくなる。
「奴隷になってからは、役に立たないことをしていると叱られました。料理や掃除なら主人のためになりますし、荷物を運べば仕事になります。でも、花を編んだり、綺麗な石を集めたりしても、誰の役にも立ちませんから」
「それで、やめちゃったの?」
「はい。……だんだん、好きなだけで何かをするのは悪いことなんだと思うようになりました」
その言葉を聞いて、ネロは湯面へ落ちてきた一枚の葉を見つめた。
妙に他人事とは思えなかった。
自分もまた、笛を吹くことに「役に立つ理由」を求められ続けてきたからだ。
仲間を強化できるから価値がある。
戦闘で役立つから意味がある。
そして役に立っていないと判断された瞬間、自分の笛は「雑音」と呼ばれた。
「……僕も似たようなことを考えてた時期があったよ」
板壁の向こうが静かになる。
「笛を吹いてもレベルは上がらないし、剣みたいに敵を斬れるわけでもない。だから、誰かの役に立つ音を出さなきゃ意味がないんだって、ずっと思ってた」
「ネロ様でも……?」
「というより、僕の場合は人よりずっと気にしてたと思う。Lv.0だったから、何か役に立てることを証明しないと、そこにいてはいけないような気がしてたんだ」
ネロは少し自嘲気味に笑った。
「今思えば、随分窮屈だったな」
「……でも、ネロ様の笛は皆さんの役に立っていたんですよね?」
「役には立ってたと思う。でも、それと僕が笛を好きなことは、本当は別なんだよ」
ネロは目を閉じ、幼い頃の記憶を思い出した。
まだ戦いも、勇者も、レベルの意味すらよく分かっていなかった頃。
初めて笛から綺麗な音が出た時、ただそれだけで嬉しかった。
「最初から誰かを強くするために笛を吹いてたわけじゃないんだ。音が出るのが面白くて、上手く吹けるようになると嬉しくて、それで続けてただけだった」
少し間を置き、ネロは板壁の向こうへ向かって続けた。
「だからラダも、好きならまたやればいいんじゃないかな。花を編んでもいいし、綺麗な石を集めてもいい。役に立つかどうかまで、いちいち誰かに許可を取らなくていいよ」
向こう側から、かすかな吐息が聞こえた。
「……誰の役にも立たなくても?」
「むしろ、役に立たないから駄目って考え始めたら、僕たち休むことすらできなくなるよ。今日だって、温泉に入ってること自体、畑の仕事には何の役にも立ってないし」
「それは……確かにそうですね」
「でしょう? だから今日は、堂々と何の役にも立たない日にしよう」
その言い方がおかしかったのか、板壁の向こうから小さな笑い声が漏れた。
「ふふ……ネロ様は、時々変なことを言いますね」
「今のは結構いいことを言ったつもりだったんだけどな」
「いいことでした。ただ、言い方が少し変です」
「そこは認めるんだ……」
今度は二人とも笑った。
森の中へ、湯の流れる音と笑い声が静かに溶けていった。
◇ ◇ ◇
温泉を出た帰り道、ラダは何度も小道の脇へ視線を向けていた。
最初は足元が危ないのかと思っていたネロだったが、やがて彼女が草木を熱心に見ていることへ気づく。
「さっきから何か探してない?」
「あ……分かりましたか?」
「三回くらい同じ方向を振り返ってたから。忘れ物でもしたのかと思ったよ」
ラダは少し恥ずかしそうに笑うと、道端にしゃがみ込んだ。
「少しだけ、待っていただいてもいいですか?」
「もちろん。今日は何の役にも立たない日だから、急ぐ理由もないしね」
「まだそれ言うんですね」
そんなことを言いながら、ラダの声は楽しそうだった。
彼女は柔らかな蔓を何本か選び、さらに道沿いに咲いていた白と淡い青の小花を摘んでいく。
ネロは近くの切り株へ腰掛け、その様子を眺めていた。
「なるほど。温泉で話してたやつか」
「久しぶりなので、上手にできるかは分かりませんけど……」
ラダはネロの隣へ座り、摘んできた蔓を細い指で器用に編み始めた。
一本を折らないよう慎重に曲げ、そこへ別の蔓を絡ませ、小さな花を一定の間隔で挟み込んでいく。
「それで下手なら、僕がやったら縄の塊になると思う」
「ネロ様は笛がお上手じゃないですか」
「笛の穴と蔓は全然違うよ」
「でしたら今度、私がお教えします」
「本当に? じゃあ僕もラダに簡単な笛の吹き方を教えようかな」
思いつきで言っただけだったが、ラダは驚いたように顔を上げた。
「私でも、吹けるでしょうか?」
「最初から上手く吹ける人なんていないよ。それにラダは音を取るのが上手いから、案外すぐ覚えるかもしれない」
「音を取るのが……?」
「僕が笛を吹くと、いつもすぐ拍子を合わせて踊ってるだろ? 普通はあんなに自然にはできないよ」
ラダは少し照れくさそうに視線を落とし、再び蔓を編み始めた。
「……昔から、音楽が好きだったんです」
「やっぱり」
「里のお祭りでも、誰かが楽器を鳴らすとすぐ踊っていました。お母さんには『ラダは音を聞くより先に身体が動くね』って、よく笑われて……」
懐かしそうな笑みが、その横顔へ浮かんだ。
ネロは何も言わずに聞いていた。
こうして話しているラダは、「奴隷だった少女」ではない。
花を編むのが好きで、音楽が聞こえると踊りたくなり、母親の思い出を大切にしている、ごく普通の一人の少女だった。
そのことが、なぜか嬉しかった。
やがてラダの手の中に、小さな腕輪が完成した。
細い緑の蔓へ白と淡い青色の花を編み込んだ、素朴な飾りだった。
「綺麗だね」
ネロが素直に感想を口にすると、ラダは一度腕輪を見つめ、それから少し迷うように唇を動かした。
「……あの、ネロ様」
「ん?」
「これ……もしよろしければ、受け取っていただけませんか?」
「僕に?」
「はい。久しぶりに作ったので、あまり上手ではありませんし、花もすぐ枯れてしまうと思いますけど……」
言い終わる前に、ネロは笑って手を差し出した。
「じゃあ、ありがたく貰うよ」
「本当にいいんですか?」
「ラダが久しぶりに作った一個目なんでしょう? むしろ僕が貰っていいのかって思ってるくらいだよ」
ネロは受け取った腕輪を左手首へ巻いてみる。
少し形は歪んでいたものの、白と青の花が意外なほどよく馴染んだ。
「どう?」
「……似合っています」
「よかった。じゃあ、このまま帰ろう」
「そのまま村まで着けていくんですか?」
「せっかく貰ったのに、すぐ鞄にしまう方が変じゃない?」
ネロが当然のように答えると、ラダは一瞬ぽかんとした後、嬉しそうに笑った。
「……ありがとうございます」
「お礼を言うのは僕の方だよ。それに、本当に綺麗にできてる。さっき『役に立たない』なんて言ってたけど、こういうものを作れるのも立派なことだと思うな」
「でも、何かの役に立っているわけでは……」
「少なくとも僕は、これを貰って嬉しいよ。それじゃ駄目かな?」
ラダは言葉を失った。
やがて小さく首を横へ振る。
「……いいえ。十分です」
その返事をした時の表情は、温泉へ向かう前よりも少しだけ明るく見えた。
◇ ◇ ◇
村へ戻り、ラダが家の中へ荷物を置きに入った頃だった。
ネロは軒先に腰掛け、左手首の腕輪を眺めていた。
少し不格好な編み目まで含めて、妙に気に入っている。
その時、夕暮れの空気へ甘い百合の香りが混じった。
「随分と楽しそうですね、ネロ」
聞き慣れた声に顔を上げる。
いつの間に現れたのか、黄金と白銀の燐光を纏ったモヒーニカが、ネロのすぐ隣へ立っていた。
「モヒーニカ。来てたんだ」
「ええ。先ほどから少しだけ」
女神の藍色の瞳が、ネロの顔からゆっくりと左手首へ移る。
「その可愛らしいものは?」
「ああ、これ?」
ネロは腕を持ち上げた。
「ラダが作ってくれたんだ。昔、こういうものを作るのが好きだったらしくてさ。今日、久しぶりに作ってくれたんだよ」
「……ラダが」
モヒーニカは腕輪を見つめた。
その微笑みはいつもと変わらず美しかったが、藍色の瞳の奥で何かが僅かに揺れたように、ネロには見えた。
「どうかした?」
「いいえ」
女神はすぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「あなたが楽しそうでしたので、少し安心しただけです」
「そう?」
「ええ。少し前までのあなたは、いつも誰かの役に立たなければならないと、自分自身を追い詰めていましたから」
その指先が、ネロの頬へそっと触れた。
温もりのないはずの指なのに、触れられた場所から甘い神気が染み込んでくる。
「この場所で心を休めることも、今のあなたには必要なのでしょう」
ネロは少し意外に思いながら笑った。
「今日、村の人にも同じことを言われたよ。僕、そんなに休むのが下手なのかな」
「とても」
即答された。
「そんなにはっきり言う?」
「私から見れば、あなたは放っておけば自分が倒れるまで誰かのために動こうとします。少しくらい、自分が楽しいと思うことを優先してもよいのですよ」
「……それ、今日僕がラダに言ったこととほとんど同じだ」
「まあ」
モヒーニカは楽しそうに目を細める。
「ならば、ようやく私の教えが身についてきたということでしょうか」
「それはちょっと違うと思うけど……」
ネロが苦笑した、その時だった。
家の扉が開き、ラダが籠を抱えて出てくる。
「ネロ様、お待たせしました。夕食の前に少しだけ畑を――」
彼女は途中で言葉を止めた。
ネロが自分の隣――ラダには何も見えない空間へ顔を向けていたからだ。
「……ネロ様?」
「ん?」
「いえ……今、どなたかとお話しされていましたか?」
ネロは一瞬返事に詰まった。
横を見ると、モヒーニカは口元へ指を当て、面白そうにこちらを見ている。
「……ちょっと独り言を」
「そうだったんですか?」
「うん。最近、一人で考えてるとつい声に出ちゃうみたいで」
我ながら苦しい言い訳だと思ったが、ラダはそれ以上追及しなかった。
「でしたら、そろそろ中へ戻りましょう。温泉で温まったのに、身体を冷やしてしまいます」
「ああ、そうだね」
ネロが立ち上がる。
その横で、モヒーニカはラダへ一度だけ視線を向けた。
微笑みは崩れていない。
それでも、その藍色の双眸は何かを確かめるように、黒髪の少女を静かに見つめていた。
「では、また後で。ネロ」
「うん。またね」
モヒーニカの姿が淡い燐光となって消えていく。
ラダには、その光さえ見えていなかった。
◇ ◇ ◇
夕食までには、まだ少し時間があった。
ネロは軒先へ座り直し、何となく木製の横笛を手に取った。
「せっかくだし、少し吹こうかな」
その言葉を聞くや否や、ラダの琥珀色の瞳がぱっと明るくなる。
「では、私も外にいていいですか?」
「もちろん。というか……ラダ、踊る気でしょう?」
「な、なぜ分かったんですか?」
「もう何度も見てるからね」
ネロは笑いながら横笛を唇へ当てる。
流れ始めたのは、戦場で仲間を支えるための《調律》でも、魔獣を打ち倒すための術式でもなかった。
誰かに求められた音ではない。
ただ、今この時間に吹きたいと思った旋律だった。
柔らかな笛の音が夕暮れの村を流れていくと、ラダはしばらく目を閉じて耳を澄ませていた。
やがて草の上へ一歩踏み出す。
亜麻色のスカートが風を孕み、長い黒髪が夕陽を受けて柔らかく揺れる。
ネロが旋律を少し速めれば、ラダの足取りも自然と軽くなる。
逆に音を落ち着かせれば、彼女の動きも緩やかなものへ変わった。
一曲を吹き終え、ネロは横笛から口を離す。
「やっぱり、ラダって踊るの好きなんだね」
ラダは急に我に返ったように足を止めた。
「……見ていて、おかしくありませんか?」
「どうしておかしいと思うの?」
「だって、勝手に身体が動いてしまうので……」
「僕は好きだよ」
あまりに自然に口から出た言葉に、ラダの目が丸くなる。
ネロも一拍遅れて、自分の言い方に気づいた。
「あ、いや。ラダが踊ってるのを見るのが、って意味で」
「……分かっています」
ラダは口元を押さえながら、小さく笑った。
「そんなに慌てなくても大丈夫です」
「いや、今の言い方はちょっと……」
「ふふ」
からかわれていることに気づき、ネロは困ったように頭を掻いた。
少し前までのラダなら、こんな風に冗談を返してくることすらなかっただろう。
その変化が嬉しくて、ネロは改めて尋ねた。
「でも、本当に不思議なんだよな。僕が曲を変えても、ラダはすぐ合わせられる」
「そうでしょうか?」
「さっきだって、僕が拍子を少し崩したのに、ほとんど遅れなかった。なんというか……次にどんな音が来るか、先に分かってるみたいだった」
ラダは首を傾げた。
「言われてみれば……ネロ様の笛は、次にどんな音が来るのか分かる時があります」
「やっぱり?」
「でも、耳で考えているわけではないんです。なんとなく、こっちへ音が流れる気がするというか……身体の方が先に知っているような感じで」
「身体の方が……」
ネロは少しだけ考え込んだ。
普通なら、初めて聞く即興曲へここまで自然に合わせるのは難しい。
まして、自分は途中で意図的に拍子まで変えている。
だが、楽しそうに自分を見つめているラダを前にすると、今わざわざ答えを求める必要もないように思えた。
「まあ、相性がいいってことなのかな」
「音楽に、ですか?」
「僕の笛とラダの踊りに」
ラダは一瞬きょとんとした後、嬉しそうに笑った。
「それなら……嬉しいです」
ネロは再び横笛を構える。
「じゃあ、もう一曲いこうか。今度は少し難しくするよ」
「負けません」
「勝ち負けなの?」
思わず笑いながら、笛へ息を吹き込む。
先ほどより軽快な旋律が村へ流れ出し、ラダも負けじと地面を蹴った。
その音に誘われて近所の子供たちが集まり、やがて見よう見まねで踊り始める。
夕食の支度をしていた村人たちまで足を止め、子供たちの姿を見て笑っていた。
ネロはただ笛を吹き、ラダはただ踊った。
誰かを強くするためでもなければ、何かの役に立つためでもない。
そこにいる者たちが楽しいから、それだけで続いている時間だった。
◇ ◇ ◇
夜になり、村人たちがそれぞれの家へ戻った後。
ネロとラダは家の前へ並んで腰掛け、星空を見上げていた。
昼間の温泉で身体の芯まで温まったせいか、心地よい疲労が残っている。
「今日は……楽しかったです」
ラダがぽつりと口にした。
「温泉も?」
「はい。それから、腕輪を作ったことも、踊ったことも……全部です」
ラダは膝を抱きながら、自分の言葉を確かめるように続けた。
「こういう一日って、本当にあるんですね。朝起きて、誰にも怒鳴られなくて、何かを失敗しても叩かれる心配をしなくてよくて……ただ、自分がやりたいと思ったことをして一日が終わる」
その言葉を聞き、ネロは少し考えてから答えた。
「僕も、似たようなことを思ってるよ」
「ネロ様も?」
「王都にいた頃は、強くならなきゃとか、役に立たなきゃとか、仲間に置いていかれないようにしなきゃとか……ずっと何かに追われてた気がするんだ。でも、ここへ来てから初めて、明日の予定が畑仕事だけでも悪くないなって思えるようになった」
ネロは左手首を持ち上げた。
ラダが作った腕輪の花は、少しだけ萎れ始めている。
「それに今日は、これも貰えたしね」
ラダが照れたように目を伏せる。
「今度は、もっと上手に作ります」
「今日のだって十分上手だったよ」
「もっとです。次はもう少し丈夫な蔓を使って、花も長持ちする種類を選びます」
普段より少し強い口調に、ネロは目を瞬いた。
それから、嬉しそうに笑う。
「じゃあ楽しみにしてる。でも、一つだけ約束してくれる?」
「何でしょう?」
「僕にあげるためだけに作らなくていいからね。ラダ自身が作りたいものも、ちゃんと作ってほしい」
ラダは少し驚いたようだった。
「自分のために……?」
「そう。髪飾りでも、部屋に飾るものでも、何でもいい。せっかく好きだったことをまた始めるんだから、誰かのためだけにしたら勿体ないよ」
ラダはしばらく黙った後、自分の両手を見つめた。
「……では、今度は自分の髪飾りも作ってみます」
「いいね。きっと似合うよ」
「まだ作ってもいないのに分かるんですか?」
「ラダが作ったものなら、多分大丈夫」
「それ、根拠になっていませんよ」
「そうかな?」
二人の笑い声が、静かな夜の村へ溶けていった。
村を囲む原生林も、その向こうへ連なる山々も、いつもと何一つ変わらず穏やかに静まり返っている。
ネロの左手首には、白と青の小さな花を編み込んだ腕輪が残っていた。
明日になれば、また畑を見に行くだろう。
ラダは料理を作り、時には花を編み、ネロは好きな時に笛を吹く。そんな日々を二人で少しずつ積み重ねていけばいいのだと、ネロは自然に思えるようになっていた。
そしてラダもまた、この村でなら「誰かの役に立つため」だけではなく、自分自身が好きだと思えるものを、もう一度一つずつ取り戻していけるような気がしていた。
この穏やかな暮らしが、明日も、その次の日も続いていく。
その夜の二人は、まだ何の疑いもなくそう信じていた。




