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第16話 魔族の襲撃

穏やかな鳥のさえずり。


裏庭の草木を揺らす、柔らかな風の音。


そんな平穏は、耳を劈く地響きと樹木の裂ける轟音によって、唐突に打ち砕かれた。


盆地を取り囲む鬱蒼とした原生林。その巨木が、まるで紙細工のように次々とへし折られていく。


舞い上がった土煙の向こうから、異様な重圧が雪崩のように押し寄せた。大地が震え、澄み渡っていた青空さえも、どす黒い紫煙と瘴気によって瞬く間に覆い尽くされていく。


「な……何が起きたの……!?」


洗濯物を抱えていたラダが目を見開き、息を呑んだ。


倒伏した木々の隙間から姿を現したのは、見上げるほど巨大な異形の軍勢だった。


その先頭に立つのは、黒光りする鋼鉄のような皮膚と、天を突くようにねじ曲がった巨大な水牛の角を持つ漆黒の巨魁。血走った複眼を爛々と輝かせ、凶悪な両刃の黒鉄戦斧を軽々と肩へ担ぎ、大地を震わせるような低い唸り声を喉の奥から響かせている。


その背後には、獣の四肢へ昆虫の外骨格と複眼を融合させた無数の異形魔族たちが続いていた。言葉にならない凶暴な咆哮を上げ、涎を撒き散らしながら、その群れは地の果てまで連なっている。


まるで、地獄の底が抜け落ちたかのようだった。


魔族の大群が、すり鉢状の盆地へ一斉に雪崩れ込んでくる。丹精込めて耕された段々畑は巨大な足に踏み荒らされ、昨日まで人々の笑い声に満ちていた木組みの家々も、異形の怪力によって次々と叩き壊されていった。


つい先ほどまで穏やかな光に包まれていた楽園は、一瞬にして阿鼻叫喚の戦場へと姿を変えた。


「村のみんな、中央広場へ逃げて! 家の中に隠れちゃ駄目だ! 一箇所に集まるんだ!」


ネロは叫びながら、腰に差していた木製の横笛を素早く唇へ運んだ。


かつて王都で無能と蔑まれていた少年は、もはや迷わない。村人たちを守るため、真っ先に最前線へ身を躍らせた。


笛へ息を吹き込み、指孔の上を指先が滑る。


響き渡ったのは、高く澄み切った旋律だった。


ネロの全身から黄金の神気が噴き上がり、大気を巡る魔素を猛烈な勢いで引き寄せ、巨大な術式へと編み上げていく。


――【調律・翠嶺の聖壁】!


旋律とともに黄金の波紋が円環状へ広がり、次の瞬間、村全体をすっぽりと覆う巨大な黄金の防壁が展開された。


突進してきた下級魔族たちが障壁へ激突し、甲高い音と火花を散らしながら次々と弾き飛ばされていく。


「くっ……!」


ネロは額に脂汗を滲ませ、広域結界の維持へ全神経を集中させる。


だが、敵軍の頂点に立つ水牛の巨魁は、血走った複眼を細めると、結界の中心にいるネロを明確な標的として捉えた。


ドンッ!!


大地を爆砕し、巨躯が宙へ跳ね上がる。


黒鉄の大戦斧が猛烈な風切り音を上げ、隕石のような勢いでネロの頭上へ振り下ろされた。


ネロは笛の構えを崩さない。鋭く息を吹き込み、瞬時に旋律を組み替える。


――【調律・穿孔破調】!


圧縮された大気と神聖魔力が、一条の高密度衝撃波となって撃ち出された。


ドォンッ!!


衝撃は真正面から巨魁の胸元へ直撃する。


だが――。


ギィンッ!!


響いたのは、乾いた金属音だけだった。


巨魁の鋼鉄皮膚を覆う禍々しい魔導装甲は、ネロの放った不可視の一撃を傷一つ負うことなく真正面から弾き返したのだ。


「なっ……!?」


迎撃したその瞬間、ネロは意識を研ぎ澄ませ、眼前の異形へ視線を集中させた。


【個体識別:マヒシャ】

・Lv.65 ジョブ[魔界巨魁・狂戦士]

・筋力:780/魔力:310

・主要スキル:【剛殻装甲】【暗黒闘気】【質量粉砕】

・特記事項:魔導装甲重層化


(マヒシャ……レベル65、筋力780……っ!? 桁が違いすぎる……。こんな凶悪な魔将が、どうしてこんな辺境に……!)


視界に展開された圧倒的な数値に、ネロの背筋を冷たい汗が伝う。


王都の深層迷宮に潜む主級の魔獣にも匹敵する怪物。


そして、その怪物が振り下ろした大戦斧が――黄金の結界へと叩きつけられた。


ズガァァァンッ!!


凄まじい衝撃に防壁が激しく軋み、ネロの足元の地面が放射状に砕け散る。


村人たちを守るための大結界を維持しながら、眼前から繰り出される規格外の質量攻撃を受け止め、そのうえ周囲から押し寄せる無数の魔族による波状攻撃にも耐え続けなければならない。


あまりにも大きすぎる負荷に、ネロの身体が一瞬で限界近くまで軋み、肺から苦悶の息が漏れた。


「ネロ様ッ!」


避難誘導に走っていたラダが、悲痛な声を上げた。


その時、広場の隅で一人の幼い少女が足をもつれさせ、地面へ転倒した。


「危ないっ!」


ラダは即座に駆け寄ると、逃げ遅れた少女を庇うようにその小さな身体を抱きしめた。


だが、その背後では、攻撃によって一瞬だけ薄くなった結界の隙間を蟷螂型の魔族がすり抜けていた。漆黒の鎌が、音もなく振り上げられる。


「ラダ、逃げろ――ッ!!」


ネロの絶叫が響き渡った。


だが、ラダは逃げなかった。腕の中の少女を強く抱きしめ、自らの背中で庇う。


ザシュッ――!!


肉を断つ生々しい音が響いた。


「――っ!!」


ラダの背中が深く切り裂かれ、鮮血が宙へ飛び散る。その身体は少女を抱えたまま、前のめりに崩れ落ちた。


「ラダァッ!!」


ネロの心に、激しい動揺が走った。


呼吸が乱れ、旋律が揺らぐ。


結界を維持していた神聖魔力の波長が一瞬で狂い、黄金の防壁へ蜘蛛の巣のような亀裂が走った。


その隙を、マヒシャが見逃すはずもない。


『オオオオオオオォォォッ!!』


両腕へ凶悪な暗黒闘気を滾らせ、黒鉄の大戦斧を天高く掲げる。


防御の崩れたネロの頭上へ、大地ごと両断しかねない絶死の一撃が、轟音とともに振り下ろされた。


刃がネロの鼻先へ迫り、死の影が視界を覆い尽くした――まさに、その刹那。


シュバァッ――!!


原生林の奥深くから、深緑の木々の隙間を縫って一筋の白銀の光条が大気を引き裂き、戦場へ飛来した。


ギシャァァァンッ!!


光条は寸分の狂いもなく、マヒシャの右腕にある装甲の継ぎ目を貫いた。


『グォッ……!?』


それは、眩い白銀の輝きを帯びた神聖なる破邪の閃光。


ネロの攻撃さえ弾いた鋼鉄の装甲をいとも容易く穿たれ、マヒシャの右腕が大きく跳ね上がる。巨魁は濁った苦悶の声を漏らしながら、数歩後方へよろめいた。


舞い散る木の葉と立ち込める土煙。その向こうから、一つの影が軽やかな足取りで戦場へと降り立った。


白銀と群青の布を幾重にも重ねた、古風な法衣を纏う一人の少年。


月光を溶かしたような透き通る銀髪が風に揺れ、その華奢な体躯には不釣り合いなほど重厚な銀の錫杖を、片手で軽々と携えている。


錫杖の表面には、現代の神聖教会が用いるものとは異なる古代文字がびっしりと刻み込まれ、そこから清冽な魔力が滝のように溢れ出していた。


少年の双眸は、荒れ狂う戦場にあってなお、水鏡のように澄み渡っている。その奥に宿るのは、底知れぬ静けさと鋭い理知だった。


少年は手にした錫杖を、トン、とただ一度だけ大地へ突き立てた。


キィィィィン――ッ!!


空気そのものが、澄み切った鐘のような音を響かせる。


少年の足元から幾重もの白銀の光環が爆発的に広がり、大地へ精密な幾何学模様が次々と刻み込まれていった。それは、現代の神聖教会が用いる術式とは根本から異なる、複雑に重なり合った古代の多重方陣だった。


光の陣は一瞬にして盆地全体へ拡張し、空を覆っていたどす黒い瘴気を灼き払いながら、村全体をすっぽりと包み込む超高密度の結界を形成する。


『ギ――ッ!?』


障壁へ触れた下級魔族たちの身体が白銀の炎に包まれた。


断末魔を上げる暇すらない。その肉体は瞬く間に光の粒子へと変わり、跡形もなく消滅していく。


「……あ、あなたは……?」


横笛を構えたまま、ネロが呆然と息を呑んだ。


銀髪の少年は肩をすくめ、不敵な光を宿した瞳をネロへ向ける。


「ちょっと遅くなっちまったな。……俺の名はジナだ。あんたの笛の音を聞きつけて、手を貸しに来てやったよ」


ジナは一切の詠唱を行わなかった。


祝詞を紡ぐことも、神の名を讃える祈りの言葉を口にすることもない。ただ錫杖を握り、ほんの僅かに魔力を巡らせるだけで、常識外れの神聖術を次々と発動している。


「さて……まずは、そっちの娘からだな」


ジナは倒れているラダへ錫杖の先端を向けた。


先端の銀環がチリン、と微かに触れ合うと、清冽な白銀の光が降り注ぎ、ラダの背中の傷口を優しく包み込む。


ジュウ……と微かな蒸気が立ち上った次の瞬間、肉を深く裂いていた傷が、まるで時間そのものを巻き戻すかのように滑らかに塞がっていった。


流れ出ていた鮮血も光の中へ吸い込まれるように消え、裂傷の痕跡すら残さず、白い肌が完全に再生する。


「あ……っ……? 痛みが……消えた……?」


ラダは信じられない思いで自らの背中へ手を触れ、琥珀色の瞳を丸くした。


あれほど深かった傷が、瞬き一つの間に綺麗さっぱり消えている。


「念のためだ。魔族の腐食毒や呪いが残ってないか診るぞ」


ジナは無造作に指先を払った。


ラダのステータスが空中へ展開される。


【個体識別:ラダ】

・Lv.3 ジョブ[愛玩奴隷]

・HP:45/45(全回復)

・特記事項:種族 エルフ


「――っ!」


空中に浮かび上がった冷酷な文字列を目にした瞬間、ラダの顔から一気に血の気が引いた。


「あっ……だ、駄目……見ないで……っ!」


過去に浴びせられた屈辱と嘲笑が、一瞬で脳裏へ蘇る。


ラダは青ざめた顔で両腕を交差させ、震える手でステータス画面を遮ろうと身を縮こまらせた。


 だが、ジナは眉一つ動かさなかった。


その視線には嘲笑も蔑みもなく、憐れむような余計な同情さえ欠片ほども含まれていない。その歪なジョブ名など最初から存在していないかのように意識の外へ流し、ただ淡々と数値と状態異常だけを確認していた。


「よし。HP全快。毒も呪詛系の異常も綺麗に消えてるな。問題なし」


そう言うや否や、ジナは何の感慨も示さず、ステータス画面をさっと消し去った。


「え……?」


侮蔑の言葉どころか、驚きすら返ってこない。


ラダは自らの身体を庇った姿勢のまま、呆然と琥珀色の瞳を瞬かせた。


そんなラダの反応を気に留める様子もなく、ジナは流れるような動作で錫杖をネロへ向け、口元に不敵な笑みを浮かべる。


「よし、傷は塞がった。お次はあんただ」


「え……あ、うん……!」


「ここまで来たんだ。半端な援護で終わらせる気はねえよ。……受け取りな、特大のやつだ」


ジナが錫杖を振る。


目も眩むほどの白銀の閃光が、一直線にネロの胸元へ吸い込まれた。


「――っ!?」


その瞬間、全身の細胞が一斉に目覚めたかのような凄まじい感覚が、ネロの身体を駆け巡った。


擦り切れていた魔力回路が一瞬で満たされ、それだけでなく、体内の魔力循環が何十倍もの勢いで加速して、巨大な奔流となって全身を駆け巡り始める。


疲労も、筋肉の軋みも、酷使された神経の消耗も、そのすべてが白銀の光によって瞬く間に洗い流されていった。


視界は極限まで研ぎ澄まされ、聴覚は遠く離れた木の葉の擦れる音すら拾い上げる。肌は大気の僅かな流れまで捉え、全身の感覚がそれまでとは比較にならないほど鋭敏になっていた。


力、俊敏性、魔力充填率、精神感応。


そのすべてを一時的に限界以上へ引き上げる、規格外の超重層強化。


(身体が……軽い……!? 力が、身体の底から溢れ出して止まらない……!)


満ち足りている、などという次元ではなかった。


まるで、自分自身が巨大な魔力の発生源へと造り変えられたかのような感覚。ネロの全身を、これまで味わったことのないほどの力が満たしていく。


『オ、オオオォォォッ……!!』


右腕を貫かれ、後退していたマヒシャが咆哮した。


傷口から黒い血を滴らせながら、怒り狂った複眼を血走らせる。残された左腕で黒鉄の大戦斧を握り直し、全身から噴き上がる暗黒闘気を限界まで膨張させた。


ドンッ!!


マヒシャが地を蹴り、巨大な身体が一直線にネロへ迫ってくる。


だが、今のネロの目には、その踏み込みさえ酷く緩慢に映っていた。


「……僕たちの居場所を壊して、ラダまで傷つけたこと……絶対に許さない」


ネロは木製の横笛を唇へ当てた。


胸の奥に宿る女神モヒーニカの神気が、ジナから与えられた超強化と激しく共鳴し、黄金の神気となって劫火のように噴き上がる。


ネロは迫り来る魔族たちの魔力の流れ、装甲の振動、息遣いを一瞬で捉え、その場で最適な音律を組み上げていく。


指孔の上を指先が滑り、鋭く息を吹き込む。


響き渡ったのは、大気そのものを共鳴させ、周囲の空間さえ歪ませる神威の旋律。


――【調律・千層穿孔波陣】!


横笛から放たれたのは、一撃の衝撃波ではなかった。


大気を圧縮し、神聖魔力を極限まで尖らせた無数の不可視の光錐。それらが豪雨のような連射となり、扇状に撃ち出される。


ドガガガガガガガガッ――!!


『ギャアアアッ!?』


『グギィィッ!?』


マヒシャの背後に控えていた昆虫型の異形魔族たちが、避ける間もなく無数の光錐に全身を穿たれた。巨体が次々と穴だらけになり、黒い血と肉片を撒き散らしながら吹き飛んでいく。


さらにネロは間髪入れず、眼前のマヒシャが纏う装甲の振動を捉えながら、旋律の調性を低音へと滑らかに移行させた。


――【調律・共振崩壊律】!


低く響く旋律が、マヒシャの全身を包み込む。


ネロの放つ音波が、重層魔導装甲と鋼鉄の皮膚――その双方が持つ固有振動を正確に捕捉し、寸分違わぬ周波数で完全に同調した。


ピキィィィィン……ッ!!


『ガ……ッ!? な、何が……ッ!?』


マヒシャが苦悶の絶叫を上げた。


外部から破壊されたのではない。自らの装甲と肉体そのものが、内部から凄まじい振動を起こし始めたのだ。


あれほどネロの攻撃を容易く弾き返した硬質な魔導装甲へ、蜘蛛の巣のように無数の亀裂が走る。


ピシッ、ピシピシピシッ――!!


次の瞬間。


ガシャァァァンッ!!


まるで凍りついた硝子のように、重層魔導装甲が粉々に砕け散った。その下にある黒光りした皮膚にも無数の裂け目が走り、黒い血飛沫が勢いよく噴き出す。


『グオオオオオオォォッ!!』


「これで……終わりだ!」


ネロは大きく息を吸い込み、横笛を力強く吹き鳴らした。


全身を巡る神聖魔力が一点へと急速に収束していき、黄金の燐光が横笛の周囲へ集まる。やがてその輝きは、目も眩むほど巨大な光の奔流へと膨れ上がった。


その眩さは、まるで地上へ太陽が降り立ったかのようだった。


――【調律・天響崩界破】!!


凝縮された黄金の奔流が撃ち出された。


空間を震わせ、大気を焼き焦がしながら一直線に突き進み――マヒシャの巨大な身体を真正面から呑み込む。


ドォォォォォォォォンッ――!!


天地を揺るがす轟音と、目も眩むほどの黄金の閃光。


凄まじい爆発が盆地の中央で巻き起こり、巨大な衝撃波が大地を駆け抜けた。



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