第17話 プリースト ジナ
濛々たる土煙と焼けた大気の熱気が漂う中、粉々に砕け散った大地の裂け目から、不気味な肉の軋む音が響いた。
完全に消滅したかと思われたマヒシャの巨躯は、右半身を大きく削ぎ落とされ、ねじ曲がった巨大な水牛の角も根元から無残にへし折られている。それでもなお、怪物は息絶えてはいなかった。
傷口からどす黒い血を滝のように流し、千切れた筋肉を痙攣させながら、残された一本の腕で泥を掻くようにして這い起きる。
だが、その血走った複眼が向けられたのは、致命の一撃を放ったネロではなかった。
ただ静かに佇む銀髪の少年――ジナ。その姿を、燃え盛る憎悪と、それ以上に深い悲壮を宿した眼差しで見据えていた。
『ジ……ナ……。ネ……ロ……』
引き裂かれた喉の奥から絞り出されたのは、獣の咆哮ではない。掠れ、途切れながらも、そこには明確な意思を宿した人の言葉があった。
『オマエラガ……崇メル……神ガ……何ヲ喰ライ……コノ世界ノ……何ヲ間引イテイルカ……。ソレヲ……知レバ……貴様ラ……人間トテ……我ラト同ジ……絶望ヲ……知ルコトニ……ナル……!!』
「魔族が……人間の言葉を……!?」
ネロは息を呑み、横笛を握る指を強張らせた。
王都の教えでも、冒険者ギルドで叩き込まれた知識でも、魔族とは神の秩序を乱す知性なき害獣であり、破壊衝動に突き動かされるだけの悪意の塊だと教えられてきた。
その魔族が今、自らの意思で言葉を紡いでいる。しかもそれは単なる命乞いでも、死に際の呪詛でもない。まるで、この世界そのものに隠された何かを告発するかのような言葉だった。
だが、ジナはその言葉に動揺する様子を見せなかった。ただ痛ましげに双眸を細め、瀕死のマヒシャを静かに見つめている。
先ほどまで浮かべていた少年らしい不敵な表情は完全に消え去り、その横顔には底知れぬ静寂だけが宿っていた。
「……もう喋るな。これ以上、魂を擦り減らす必要はない」
ジナはゆっくりと歩み寄り、マヒシャの砕かれた頭部の前で立ち止まると、手にした銀の錫杖を静かに掲げた。
先端の銀環が微かに触れ合い、チリン――と清冽な鐘の音にも似た響きが、荒れ果てた大地へ染み渡っていく。
「眠れ。理不尽に狂わされた、哀れな魂よ」
錫杖から溢れ出したのは、先ほど魔族たちを灼き尽くした破邪の閃光ではなかった。夜露のように穏やかで柔らかな白銀の燐光が広がり、無数の光の粒子となってマヒシャの傷だらけの巨体を包み込む。
それは、その身にこびりついた黒い血と瘴気を優しく洗い流していくかのようだった。
『……グ、オ……』
マヒシャの複眼から、凶暴な狂気がゆっくりと抜け落ちていく。掠れた呼気を最後に、その巨大な肉体は静かに白銀の光へと融け始め、苦痛に歪んでいた異形の顔からも次第に力が抜けていった。
まるで、永い悪夢からようやく解放されたかのように。
やがて巨躯は完全に光の粒子となって消え去り、地面にはへし折られた巨大な角の欠片だけが残された。
「魔族を……弔うなんて……」
後ろでその光景を見つめていたラダが、信じられないものを見るように琥珀色の瞳を揺らした。
「あんなに凶暴で……私たちを殺そうとした化け物なのに……。どうして、そんなふうに安らかに見送ってあげるんですか?」
ジナは地面に残った黒い灰を静かに見つめながら、ゆっくりと錫杖を下ろした。
「化け物、か……」
小さく呟いたジナは、どこか寂しげに目を細める。
「あいつだって、最初からあんな姿で暴れ回りたかったわけじゃないさ。どんな姿になろうと、生きとし生けるものの一つであることに変わりはない」
風が吹き抜け、地面に残った黒い灰を少しずつ空へと運んでいく。
「……理不尽に生き方を捻じ曲げられ、挙げ句に命まで奪われるなら、せめて最後くらいは静かに送られて然るべきだろ」
どこか遠い過去の残像を見つめているかのようなジナの横顔に、ネロもラダも何も言葉を返すことができなかった。
◇ ◇ ◇
破壊された森の縁を離れ、ネロとラダはジナを案内しながら、木漏れ日の落ちる小道を歩いていた。
西の空は赤銅色に染まり始め、盆地を囲む山々の稜線も、少しずつ紫色の夕闇へと沈み始めている。つい先ほどまで命の危機に晒されていたとは思えないほど、辺りには静かな夕暮れが戻っていた。
その道中、ラダはずっと俯いたまま、自らのワンピースの裾を指先で弄んでいた。何度も何かを言いかけては口を閉ざし、やがて意を決したように小さく息を吸う。
「あの……ジナ様」
「ジナでいいよ。様なんて柄じゃない」
「……ジナ、さん」
ラダは一度唇を結び、それから恐る恐る言葉を続けた。
「あの……先ほど、私のステータス……見ましたよね」
その声は、今にも消え入りそうなほど震えていた。
王都でも、リンドブルムでも、自分のステータスを見られた瞬間、相手の視線は決まって欲望か蔑みのどちらかに染まった。その時に向けられた視線の冷たさが、今なおラダの記憶へ深く刻み込まれている。
「……何か、思わなかったんですか?」
ラダは俯いたまま、震える声を絞り出した。
「あんな……酷いジョブが刻まれているのに……。どうして、何事もなかったみたいにしていられるんですか……?」
ジナは歩みを止めることなく、肩をすくめて軽く息を吐いた。
「あんなもの、誰かが勝手に決めたただの文字列だ。人の価値を測る指標になんかなりゃしないよ」
「……え?」
「あんたがどんな奴で、何を考えて、どう生きてきたか。そんな大事なこと、あんな薄っぺらい文字列には何一つ書いちゃいない」
あまりにもあっけらかんと言い放つジナに、ラダは思わず目を見開いた。
「まあ、プリーストとしては、相手の残りの体力とか、妙な状態異常にかかってないかとかを確認するのに手っ取り早いからな。そういう意味じゃ、ちょっと便利だけど」
ジナは錫杖を肩へ担ぎ、何でもないことのように続けた。
「俺にとっちゃ、それだけだ。それ以上の意味なんてないね」
ステータスとジョブこそが神から与えられた絶対の運命であり、それこそが人間の価値そのものだと信じ込まされているこの世界において、その考え方はあまりにも異端だった。
けれどネロには、それが同時に、ひどく当たり前で真っ当な言葉のようにも聞こえた。
「……あんなもの、何の指標にもならない……」
ネロは胸の奥を強く打たれたように、その言葉を反芻した。
レベル0の無能、役立たずと罵られ、仲間たちから切り捨てられた自分。そして、生まれ持ったジョブによって一人の人間としての尊厳を奪われ続けてきたラダ。
二人を長い間縛り続けてきた呪いにも似た枠組みを、この銀髪の少年は、人の価値を決める絶対的な法則などではなく、ただの便利な道具程度にしか捉えていないのだ。
「ジナ。本当にありがとう」
ネロは立ち止まり、ジナへ向かって深く頭を下げた。
「君がいなかったら、僕もラダも、この村も……どうなっていたか分からないよ」
少し間を置いて、ネロは顔を上げる。
「もうすぐ陽も落ちる。今から森の外へ出るのは危険だし、今日は僕たちの家に泊まっていくといいよ。粗末な場所だけど、温かいスープくらいなら作れるから」
「そうですね……! 私、腕によりをかけてご馳走を用意します!」
ラダもまた、胸を覆っていた影が少し晴れたように、花が咲くような笑顔を浮かべた。
ジナは二人の真摯な申し出に、一瞬だけ面食らったように目を瞬かせると、やれやれといった様子で首を振った。
「まあ、野宿するよりはマシか。それじゃ、お言葉に甘えるとするよ」
「決まりだね。それじゃあ、まずは村の中心へ行こう。避難しているみんなに、魔族を撃退したことを伝えて安心させてあげないと」
三人は並び、再び村の中央広場へ向けて歩き出した。
その道中、ネロはジナの少し後ろを歩きながら、胸の内に湧き上がる純粋な興味を抑えきれずにいた。
無詠唱で村全体を覆う古代の多重方陣を展開し、致命傷を一瞬で治癒しただけでなく、ネロ自身へ規格外の超重層強化まで施してみせた。その技量は、かつて『暁の刃』にいたカクスなど到底比較にならない。同じプリーストとは思えないほど、次元が違っている。
(一体、どこのSランクパーティにいる高位プリーストなんだろう……?)
失礼だとは思った。だが、好奇心に負けたネロは意識を研ぎ澄ませ、前を行くジナの背中へ視線を集中させた。
そして脳裏で、強く念じる。
(――ステータス・オープン)
しかし、何も起きなかった。
「……?」
視界の端に淡い光が瞬くことも、空中に半透明の文字列が浮かび上がることもない。ただ、夕風に揺れるジナの継ぎ接ぎだらけの法衣と、銀色の髪だけが見えている。
(……あれ?)
ネロは怪訝に瞬きをした。
(もう一度……ステータス・オープン!)
さらに意識を集中させ、念を込める。
それでも何も現れなかった。大気はぴくりとも揺れず、ステータスを示す文字列は一切姿を見せない。
(……どういうことだ?)
魔獣であれ、罪人であれ、生まれたばかりの赤子であれ、この世界に生きるすべての存在には、神が定めたステータスが刻まれている。
視界に収めて念じれば、その輪郭は必ず浮かび上がる。それが、ネロにとって疑う余地すらなかったこの世界の常識だった。
なのに――。
(ステータスが……表示されない……?)
ネロは思わず足を止めかけた。
数値が低いわけではない。表示を妨害する隠蔽系の術式が発動しているようにも見えない。
それ以前に、まるで読み取るべき「何か」そのものが存在していないかのようだった。
(まるで……この世界そのものの外側にいるみたいだ……)
ぞくりと、理由の分からない寒気がネロの背筋を走った。
(そんなこと……あり得るのか……?)
夕闇は刻一刻と濃さを増し、森の木々を少しずつ暗い影へと塗り替えていく。
その小道の先を、何事もなかったかのように銀の錫杖を揺らしながら歩いていく銀髪の少年。
ネロはその後ろ姿から目を離すことができなかった。
つい先ほど、ステータスなど人の価値を決めるものではないと笑い飛ばした少年には、そのステータスそのものが存在しない。
偶然などとは、とても思えなかった。
言葉にできない奇妙な戦慄と、それ以上に大きな疑問が、ネロの胸の奥で静かに根を張り始めていた。




