第18話 嘘付きプリースト
夕闇が紫紺の深みへと移ろう中、三人は村の中央広場へと辿り着いた。
広場の中央には、祈るように身を寄せ合っていた村人たちの姿があった。石造りの井戸の周りでは、麦わら帽子を被った幼い少女たちを囲むように男たちが立ち並び、不安そうに森の方角を見つめている。
ネロとラダが姿を現すと、村人たちの顔にぱっと明るい光が差した。
「ネロさん! ラダちゃん!」
「ああ、無事だったんだね! あの凄まじい地響きと閃光が収まったから、まさかとは思ったが……」
「魔族を……あの恐ろしい化け物どもを追い払ってくれたのかい!?」
安堵と感謝に満ちた声が次々と上がり、駆け寄ってくる足音が広場に響く。先ほどまで恐怖に強張っていた男たちや少女たちの顔には、初めて出会った時と同じ、どこまでも純朴で温かな笑みが浮かんでいた。
自分たちの平穏を取り戻してくれた恩人を、心から迎え入れようとする無垢な善意。その光景にネロもようやく緊張を解き、胸を撫で下ろした。
「うん、もう大丈夫だよ。森から現れた魔族は全部退治したから、もう安心して――」
ネロが笑顔で応じかけた、その刹那だった。
村人たちの視線が、一斉にネロの斜め後ろへと向けられた。そこにいたのは、二人に歩調を合わせながら静かに歩いていた銀髪の少年――ジナ。
ピキリ、と。
まるで目に見えない亀裂が走ったかのように、広場の空気が一瞬で凍りついた。
「…………」
駆け寄ってきていた先頭の農夫エルドが、不自然なほど唐突に足を止めた。その顔から、先ほどまで浮かんでいた穏やかな温もりが、まるで仮面を剥ぎ取られたかのように綺麗さっぱり消え失せている。
エルドだけではない。井戸の周りにいた男たちも、洗濯籠を抱えた娘たちも、全員がまったく同時に動きを止め、ゆっくりと首を傾けながらジナだけを凝視した。
瞳孔が針の先のように極限まで収縮し、濁った白目には赤黒い毛細血管が蜘蛛の巣のように浮かび上がっていく。額やこめかみの青筋がミミズのように脈打ち、頬の筋肉が引き攣れ、先刻までの柔和な面影は跡形もなく崩れ去った。
誰もが同じように、憎悪に歪んだ異様な相貌へと変貌していた。
「……出たな」
誰の喉から漏れたのかすら判別できないほど、低く押し潰されたような濁声だった。
「出たな、神を冒涜する大嘘つきめ……!!」
「忌まわしい異端者めが! よくもまた、この清らかな村に足を踏み入れたな!」
「穢れを持ち込むな! 神の秩序を乱す、汚らわしい害虫め!!」
鼓膜を突き破らんばかりの怒号が、夕暮れの広場へ轟き渡った。さっきまでラダへ優しく笑いかけていた麦わら帽子の少女たちまでもが、顔を憎悪に歪ませ、甲高い金切り声でジナを罵倒し始める。
「え……? み、みんな……どうしたの……!?」
ネロは息を呑み、思わず一歩後ずさった。
だが、村人たちの狂気は言葉だけでは終わらなかった。足元に転がっていた拳大の石、耕作用に積まれていた硬く尖った土塊、泥のついた野菜の残骸――村人たちは手当たり次第に掴み取ると、躊躇いもなくジナへ向かって投げつけ始めた。
ビュッ、と鋭い風切り音が走る。
バキッ、と鈍い破裂音が響き、硬い角礫がジナの額を容赦なく打ち割った。透き通るような銀髪に赤黒い鮮血が滲み、陶器のように白い頬を伝って、ぽたぽたと石畳へ落ちていく。
それでも村人たちの腕は止まらない。雨霰のように飛来する石礫が少年の古びた法衣を泥で汚し、華奢な肩や腕を容赦なく打ち据え続けた。
「やめてくれッ!!」
ネロは我を忘れ、ジナの前へ身体を割り込ませた。
両腕を広げ、自らの背中で飛来する石を受け止めながら、狂乱する村人たちへ向かって絶叫する。
「やめるんだ! 彼は魔族から村を救ってくれたんだぞ!? 彼がいなければ僕もラダも死んでいたし、この村だって踏み潰されていたんだ! どうしてそんな酷いことをするんだ!」
「お願いです、やめてください……!」
ラダも血の気を失った顔でネロの隣へ駆け寄り、涙を零しながら必死に訴えた。
しかし、村人たちの瞳には、ネロの姿もラダの涙も映っていなかった。その視線は、ネロの背後に立つジナだけへ狂気的なまでに固定されている。
ネロの叫びも、道理の通った説明も、まるで分厚い鉛の壁に遮られているかのように、誰の心にも届いていなかった。
「嘘つきだ! あいつは嘘つきだ!」
「神託を歪める悪魔め!」
「神の教えに背く者を許すな!」
「殺せ! 村から叩き出せ! 殺せ、殺せ――ッ!!」
全員の口から、寸分違わぬ憎悪の言葉が、同じリズム、同じ無機質な抑揚で繰り返される。
それは、人々が怒りに任せて暴徒化した姿とは明らかに違っていた。特定の言葉や存在という「引き金」に反応した仕掛け人形たちが、感情すら介さず、あらかじめ組み込まれた排除命令を機械的に実行している。
つい先ほどまで感じていた温もりも、優しさも、すべてが精巧に作られた張り子細工だったのではないか。そう錯覚してしまうほどの、おぞましい狂気がそこにはあった。
「っ……みんな、どうしちゃったんだよ……!?」
理性の通じない異様さに、ネロの背筋を氷のような戦慄が走った。
「やっぱりな……」
その時、ネロの震える肩へ、トン、と軽い感触が置かれた。
「……無駄だ、ネロ。庇うな」
額から鮮血を流したまま、ジナがネロの横へと歩み出ていた。
頭部から血が流れているというのに、その表情には痛がる素振りも、村人たちに対する怒りすら微塵も浮かんでいない。ただ冷ややかで、それでいて底知れぬ哀れみと諦念を湛えた双眸で、石を投げ続ける人形のような群衆を静かに見つめていた。
「彼らを責めるな。……あいつらの頭の中には、最初から『俺の言葉を聞いてはならない』『俺を異端として排除しろ』っていう、神の強固な楔が打ち込まれてるんだ。あいつら自身の意志じゃないのさ」
「楔……? 神の……?」
ネロが呆然と呟くと、ジナは手にした銀の錫杖を軽く宙で回した。飛来する石の雨が不可視の魔力膜にぶつかり、カンッ、カツンッ、と硬質な音を立てながら次々と弾き飛ばされていく。
そしてジナはネロへ顔を寄せ、周囲を埋め尽くす狂乱の怒号を縫うように、その耳元へ低く静かな囁きを落とした。
「ネロ。……あんたがその笛で奏でているものは、神に与えられた力なんかじゃない」
「え……?」
ネロの心臓が、大きく跳ねた。
女神モヒーニカから力を授けられたあの日、ネロは[選ばれし勇者]となり、それまでとはまるで違う形で世界の音を認識できるようになった。
雨粒が地面を打つ振動も、生命の鼓動も、魔力の流れも。それらを無数の音律として捉え、その時々の状況に応じた新たな調律を即興で組み上げる力。
ネロはずっと、それこそがモヒーニカから授けられた神の権能なのだと思っていた。
それをジナは、迷いなく真っ向から否定した。
「この村の『温もり』に騙されるなよ。……あんたの耳には、まだ届いていないのか? この楽園の底で軋んでいる、気味の悪い不協和音の響きが」
ジナの双眸が、鋭くネロを射抜いた。
「あいつらが押しつけてくる、耳障りのいい『調和』をなぞるな。世界の歪み、神が隠している綻び……その狂った旋律にこそ、耳を澄ませろ」
ジナは一瞬だけ、ネロの胸元にある木製の横笛へ視線を落とした。
「調律ってのはな、敷かれた譜面に従って綺麗に鳴らすことじゃない。狂った音を暴き出し、己の音で塗り替えることだ」
「ジナ……」
ネロがその言葉の意味を問い返すより早く、ジナは肩に置いていた手を離した。
「じゃあな。助けた礼なら、さっきの加護でチャラってことにしといてくれ」
「あ、待ってくれ、ジナ――!」
ネロが制止の声を上げる間もなく、ジナは身を翻した。
降り注ぐ石礫の嵐の間を、まるで風が木々の隙間をすり抜けるような軽やかな足取りで駆け抜ける。追いすがる村人たちの怒号を置き去りにし、その銀髪は暮れなずむ原生林の深い闇へと溶け込んでいった。
ジナの姿が完全に視界から消え去った、まさにその瞬間だった。
「……あれ?」
「……おや、ネロさん? どうしてそんなところに立っているんだい?」
ピタリと投石が止んだ。
石を握りしめていた男たちも、金切り声を上げていた娘たちも、何事もなかったかのように互いの顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げている。
針のように収縮していた瞳孔は元の丸みを取り戻し、額に浮き出ていた青筋も綺麗に引いていた。彼らの手からぽろぽろと小石が零れ落ち、広場を満たしていたおぞましい殺気は、霧が晴れるように跡形もなく消えていく。
「さあ、早く広場の真ん中へおいでよ。魔族を倒してくれたお礼に、とっておきの干し肉と温かいスープを振る舞わなきゃねえ」
老婆が、いつもの柔和で慈愛に満ちた笑みを浮かべながらネロたちを手招きする。周囲の村人たちも、ほんの少し前まで自分たちが何をしていたのかすら認識していない様子で、心からの感謝を込めて拍手を送り始めた。
温かな笑顔と、優しい言葉。そして、自分たちを歓迎する拍手。
ほんの少し前までなら、ネロもラダも心から安堵できたはずの光景だった。
だが、その満面の笑顔に囲まれながら、二人はただ呆然と立ち尽くしていた。
――この楽園の底で軋んでいる、気味の悪い不協和音。
ジナが残した言葉が、ネロの耳の奥で何度も反響している。
目の前で笑っている村人たちは、本当に先ほど石を投げていた者たちと同じなのか。
あの温かさも、優しさも、本当に彼ら自身のものなのか。
それとも――この村そのものが、何者かによって「そうあるように」調律されているのではないか。
全身の血が凍りつくような冷たい悪寒に震えながら、ネロはもはや以前と同じ目で、この村を見ることができなくなっていた。




