第19話 勝利の宴
高く積み上げられた薪がパチパチと乾いた爆ぜ音を立て、赤々と燃え盛る篝火が夜の帳を朱色に染め上げていた。
村の中央広場では、何頭もの大角猪が丸ごと太い鉄串に刺され、香ばしい脂の煙を立ち上らせている。林檎を漬け込んだ木樽の果実酒も惜しげなく振る舞われ、昼間の凄惨な破壊と流血が嘘だったかのように、広場は熱狂的な歌声と手拍子、大地を踏み鳴らす無数のステップによって揺れ動いていた。
魔族の巨躯によって抉り取られた畑の黒土は、すでに手際よく均されている。ジナの額を割り、流れた鮮血で汚れたはずの広場の石畳も、まるで最初から何一つ起きなかったかのように、塵一つ残さず掃き清められていた。
「さあ英雄様、もっと呑んでくだせえ! あんたが村を救ってくれたんだ!」
「ネロ様万歳! 我が村の誇り高き救世主様万歳!」
赤ら顔の農夫エルドが満面の笑みで木製のジョッキを差し出し、昼間に般若のような形相で金切り声を上げていた少女たちも、野花で編んだ花冠を揺らしながら愛くるしい笑みでネロの腕に縋り付いてくる。
だが、誰一人として「ジナ」という少年の名を口にする者はいなかった。
額を割り、泥を投げつけ、村から追い払った異常な暴力の記憶など、綺麗さっぱり脳裏から消去されてしまったかのようだった。マヒシャが今際の際に遺した、神への告発とも取れる言葉や、この世界の裏側を匂わせる警告について思いを巡らせる者もいない。
あの凄まじい豹変も、おぞましい排他性も、すべてが心地よい宴の狂騒の底へと押し流されていた。
(……笑ってる。みんな、さっきあんなに狂った目でジナを殺そうとしていたのに……)
押しつけられた酒杯の冷たさが、ネロの掌からじわじわと体温を奪っていく。
無邪気な感謝と賞賛の言葉を浴びせられれば浴びせられるほど、胃の底へ鉛の塊を流し込まれたような吐き気が込み上げてきた。耳元で弾ける歓声や笑い声さえ、今のネロには金属をヤスリで擦り合わせるような不快な音となって、頭蓋の奥で反響している。
血走った瞳と、寸分の狂いもなく揃った機械的な罵声の合唱。そして、自分たちの命を救った恩人であるジナを容赦なく排除しようとした、異常なまでの敵意。
その冷酷な歪みは、かつて王都のギルドで自分を無能と切り捨て、嘲笑いながら見下ろしてきた仲間たちの冷え切った眼差しと、あまりにも生々しく重なり合っていた。
耐えきれなくなったネロは、強張った口元に愛想笑いを貼りつけたまま人垣をすり抜け、篝火の熱気が届かない広場外れの大樹の根元へと逃げ込んだ。
ひんやりとした夜風が、火照った頬と首筋を撫でていく。
荒い息を吐きながら幹の陰へ腰を下ろし、膝を抱え込んでいると、暗がりの中からカサリと落ち葉を踏む柔らかな足音が近づいてきた。
「ネロ様……」
亜麻色の簡素なワンピースの裾を夜風に揺らし、木皿に盛った野イチゴと革の水袋を胸に抱えたラダだった。
琥珀色の瞳に痛ましいほどの気遣いを滲ませながら、ネロの隣へおずおずと腰を下ろす。
「やはり、お顔色がすぐれません……。どこか、お怪我でも痛むのですか?」
「……ううん。怪我はジナが綺麗に治してくれたから、痛いところはないよ。心配かけてごめんね、ラダ」
「そうですか……」
ラダは僅かに安堵したものの、ネロの表情を見れば、それだけではないことも分かっていた。
ネロは無理に微笑もうとしたが、その笑みは途中で力なく崩れた。視線を落とし、それから逃げるように夜空の星々へ瞳を彷徨わせているうちに、胸の奥へ澱んでいた思いが、梢を揺らす葉擦れの音に紛れるように少しずつ零れ落ちていった。
「……昼間の村の人たちを見ていたらね、どうしても昔の仲間たちのことを思い出しちゃったんだ」
「昔の……お仲間、ですか?」
ラダは小首を傾げ、不思議そうに問い返した。
彼女にとってネロは、処刑台から自分を救い出してくれた心優しき恩人だった。だが、ネロがそれ以前にどのような仲間と旅をし、どんな日々を過ごしてきたのかまでは、まだ詳しく聞いたことがなかった。
ネロは乾いた唇を舐め、遠い日を懐かしむように、それでいて苦い痛みを滲ませながら言葉を継いだ。
「うん。……僕にはね、王都でずっと一緒に旅をしていた仲間がいたんだ。リーダーのパラシュは昔からの幼馴染でさ。あいつ、口下手で不器用で、怒りっぽいところもあったけど……本当は誰よりも情に厚くて、理不尽に虐げられている人を見たら、自分の危険も考えずに飛び出していくような熱血漢だったんだよ」
少年時代の記憶をたぐり寄せるネロの瞳に、微かな温もりが宿る。
「他の仲間たちもそうだった。ウィザードのドミニクは、いつも一番後ろから全員の魔力や息遣いを気遣ってくれたし、プリーストのカクスなんて、怪我をした教会の孤児を見かければ、自分の懐が寂しくなるのも気にせず無償で治癒を施すような……本当に優しくて、正義感に溢れた人たちだったんだ」
しかし、その頃の彼らを思い出すほど、ネロの声音からは少しずつ温かさが失われていった。
「だけど……迷宮に潜って、レベルが30、40と上がっていくにつれて、みんな少しずつ変わっていってしまったんだ。以前ならみんなで大笑いしていたようなくだらない冗談にも誰も笑わなくなって、道端で困っている人を見かけても『時間の無駄だ』『効率が悪い』って平気で切り捨てるようになった」
冷え切った迷宮の奥で見てきた仲間たちの姿が、ネロの脳裏へ次々と蘇ってくる。
「みんなの瞳から少しずつ色が消えていって……まるで、数字しか見えない別の生き物に作り変えられていくみたいだった。そして最後には……レベル0の僕を、目障りなゴミみたいに追い出したんだ」
ネロは膝の上で両手を強く握り締めた。
「……さっき石を投げていた村の人たちの顔を見た時、あの頃の仲間たちの目と、まったく同じに見えてしまって……」
かつて信じていた絆が、数字の前にいとも容易く踏みにじられた記憶。その傷口が、昼間に目の当たりにした村人たちの狂気によって、再び生々しく抉り開かれていた。
「ネロ様……」
奴隷として虐げられ、人の悪意に晒され続けてきたラダは、ネロが抱えてきた痛みを察し、その強く握られた手を自分の小さな両手でそっと包み込んだ。
だが、それと同時に、ラダの胸には別の違和感も芽生え始めていた。
(……人が力を持って傲慢になることは、あるのかもしれない。でも……みんなが、そんなふうに同じように変わっていくものなの……?)
一人の人間が力を得て増長するなら、まだ理解できる。置かれた環境が変わり、長い戦いの中で心が荒んでしまうことだってあるだろう。
しかし、もともとは心優しかったという複数の人間が、レベルの上昇とともに同じように冷淡さを増し、似た方向へ人格を歪ませていったというのは、どこか不自然に思えた。
昼間に自分自身が目撃した、ジナを排除しようとする村人たちの揃いすぎた狂気も脳裏へ蘇る。
つい先ほどまで命を救われたことへ感謝していたはずの者たちが、ジナを認識した途端に豹変し、同じ言葉を叫びながら石を投げつけた。そして彼が村を離れた途端、まるでそんな出来事など最初から存在しなかったかのように、今は広場で楽しそうに笑っている。
ネロが語った仲間たちの変貌と、今日目にした村人たちの異常な変化。
その二つの間に、何か似たものがあるような気がしてならなかった。
(……本当に、ただその人たちの『本性』が出ただけなのかな……)
答えの出ない薄気味悪さを胸へ抱えたまま、ラダはネロの手を包み込んでいた。
二人の間に重い沈黙が落ちた時、ネロの鼻腔を、ふわりと甘やかな百合の香気がくすぐった。
空間が淡く揺らぎ、白銀と黄金の光の粒子が螺旋を描きながら集まっていく。その中心から夜の静寂を押し広げるように姿を現したのは、神々しい薄絹を纏い、非の打ち所のない美貌を湛えた女神モヒーニカだった。
「モヒーニカ……!」
ネロが突然、誰もいないはずの夜闇へ向かってその名を呼んだことで、隣にいたラダもすぐに事情を察した。
「ネロ様……あの女神様が、いらっしゃるのですか?」
「うん。今、ここにいる」
ラダはネロの視線を追うように大樹の傍らへ目を向けたが、そこに見えるのは夜風に揺れる草木と暗闇だけだった。
以前と同じように、モヒーニカの姿も声も、ラダには一切届いていない。
ネロはそんなラダの様子へ構う余裕もないまま、モヒーニカへ向き直った。
「今までどこにいたの? 村が魔族に襲われて、ラダが死にかけた時……僕、何度も心の中で君を呼んだんだ。でも、何の返事も聞こえなくて……!」
少年の純粋な不信を含んだ眼差しを受け、モヒーニカの完璧な相貌が一瞬だけ微かに強張った。
しかし次の瞬間には、心底から痛ましげな憂いの色を浮かべ、胸元へ手を当てながら儚げな吐息を漏らす。
「ああ……愛しいネロ。本当に恐ろしい思いをさせてしまいましたね。貴方の声は、私の魂にも届いておりました。……ですが、あの銀髪の不吉な少年――あのような異端の術者が展開した歪な結界が、私の神気と貴方との交信を、一時的に激しく遮断してしまったのです」
「異端……? ジナが……?」
その名を耳にしたラダが、小さく反応した。
「ジナさんが……どうしたのですか?」
モヒーニカの声が聞こえていないラダには、ネロがなぜ突然ジナの名前を口にしたのか分からない。
ネロは一瞬迷ったものの、ラダもあの戦いを共に経験している以上、隠す理由などないと思い直した。
「モヒーニカが……あの時、自分が来られなかったのは、ジナが張った結界に邪魔されていたからだって。それで、ジナは異端の術者だって言ってる」
「ジナさんが……?」
ラダの眉が僅かに曇った。
彼女自身、その銀髪の少年によって致命傷を癒された一人である。自分のステータスを見ても蔑むことなく、ただ傷ついた一人の人間として治療してくれたジナの姿と、「異端」という言葉が、どうにも結びつかなかった。
ネロも同じ思いだった。
「そんなことない! ジナは僕たちを助けてくれたんだ! ラダの致命傷を一瞬で塞いでくれて、僕にも力を貸してくれた……。あいつがいなかったら、僕もラダも、この村のみんなだって死んでいたんだぞ! ジナは悪い奴なんかじゃない!」
命を救ってくれた恩人を貶められ、ネロは珍しくモヒーニカに語気を荒らげた。
ラダもネロの隣で小さく頷いている。
モヒーニカはそんな二人を見つめながら、まるで慈愛深い母が、物分かりの悪い幼子を宥めるかのように、柔らかく哀れむような笑みを浮かべて首を横に振った。
「いいえ、ネロ。思い出してごらんなさい。あの少年は、村を蹂躙し、愛するラダを殺しかけた醜悪な魔族――あのマヒシャに祈りを捧げ、弔っていたではありませんか」
「それは……」
ネロの反論が、一瞬だけ途切れた。
「神の秩序に仇なし、無垢な民を喰らう穢れた魔族に同情を寄せるなど、正常な神の使徒にできるはずがありません。魔に心を寄せ、魔を憐れむ者……それこそが、この世界で最も忌み嫌われるべき『異端』なのですわ」
モヒーニカの声音はどこまでも穏やかだった。
「貴方の清らかな心を利用し、神の庇護から引き剥がそうとする甘言に惑わされてはなりません」
その冷徹な断定が、ネロの胸を鋭く突き刺した。
確かに、魔族を祈りとともに見送ったジナの行為は、この世界の常識から見れば異様極まりないものだった。
「ネロ様……?」
ラダが心配そうに声を掛ける。
「モヒーニカは……ジナがマヒシャを弔ったことも、異端の証拠だって言ってるんだ」
「……でも、ジナさんは……」
ラダはそこまで言いかけて、口を閉ざした。
自分を救ってくれたからといって、その人間のすべてを知っているわけではない。それでも、命を失いかけた自分へ何の見返りも求めず手を差し伸べ、魔族であるマヒシャに対してすら静かな最期を願ったジナの姿を思い出すと、それだけで彼を邪悪な存在だと決めつけることには強い違和感が残った。
モヒーニカの声を直接聞くことのできないラダには、それ以上反論することもできない。
ネロが言葉を詰まらせた、その隙を逃すことなく、モヒーニカは優美な足取りで背後へ回り込んだ。
甘い百合の香りとともに、その滑らかな両腕がネロの首筋へ優しく回される。耳元へ唇を寄せ、甘く痺れるような声音で、囁くように言葉を流し込んでいった。
「可哀想に、ネロ……。貴方はどこまでも優しく、純粋な心を持ったお方ですわね。ですが、そんなふうにご自分を責めたり、かつての仲間たちの変化を不可解に思う必要など、少しもありませんわ」
「え……?」
「人は誰しも、心の奥底に醜い傲慢さと身勝手さを隠し持っているもの。……彼らのあの冷たい態度こそが、最初から魂の底に眠っていた『本性』だったのです」
モヒーニカの声は、柔らかな真綿のようにネロの思考へ絡みついていく。
「力を持たぬ頃は、誰かに守ってもらうために優しさを装っていただけの浅ましい愚か者たち。それが、レベルという絶対的な力を手に入れたことで自惚れ、調子に乗り、無力な貴方を見下して本性を露わにしたに過ぎません」
「あいつらの……本性……」
隣でその呟きを聞いたラダの表情が、僅かに強張った。
つい先ほどまで、ネロは確かに「昔の仲間たちは本当に優しかった」と語っていた。具体的な思い出を挙げながら、失われたものを惜しむように話していたはずなのに、今は何も見えない空間から届く言葉へ耳を傾けながら、その記憶そのものを否定するような言葉を口にしている。
(……本性……?)
ラダの胸に、先ほど芽生えた疑問が再び浮かび上がった。
モヒーニカはそんなラダの困惑など気にも留めず、ネロを安心させるようにゆっくりと言葉を重ねていく。
「弱者に力を与えれば、己こそが特別な存在だと思い込み、際限なく傲慢になる。それが、人の世の哀しき限界というものですわ。ですから、そんな薄情な者たちのことなど、思い出す価値すらありません。過去の亡霊に囚われて、貴方の美しい心を痛めるのはおやめなさい」
モヒーニカはネロの肩をそっと抱き締めると、広場の篝火が揺らめく方角へ、その顔を優しく向けさせた。
「ほら、前をごらんなさい。今の貴方には、過去を問わず心から迎え入れてくれた、この村の心優しい民たちがいます。そして何より……貴方を誰よりも慕うラダと、この私が、ずっと傍にいるではありませんか」
眩い笑顔で踊り明かす村人たちの姿と、隣で自分を案じながら手を握ってくれているラダの温もりが、ネロの意識へ入り込んでくる。
つい先ほどまで胸を満たしていた冷たい疑念は、モヒーニカの甘美な言葉を聞き続けるうちに、少しずつ輪郭を失い始めていた。
それが本当に納得によるものなのか、それとも女神の声へ耳を傾けているうちに、考え続けることそのものがどうでもよくなり始めているのか、今のネロ自身にもその違いを判別することはできなかった。
一方、ラダにはモヒーニカが何を語りかけているのか分からない。
ただ、自分には何も見えない空間へ耳を傾けているうちに、先ほどまで仲間たちの変化へ苦悩していたネロの表情から、少しずつ緊張が抜けていく様子だけは、すぐ隣からはっきりと見えていた。
(……女神様は、ネロ様に何を話しているんだろう……)
助けられたばかりの頃なら、そんな疑問を抱くことすら恐れていたかもしれない。
だが今は違う。
ラダはネロを信じている。
だからこそ、ネロが信頼しているという、自分には姿を見ることも声を聞くこともできない女神の存在が、初めて僅かな不安を伴って胸へ引っかかった。
「今宵は、貴方が手にした勝利の夜です。あのような愚者たちの記憶など酒と共に流してしまい、この温かな宴を存分に楽しむのですわ。我が愛しき勇者様」
モヒーニカは、いつもの慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
ネロには、それが荒んだ心を包み込んでくれる優しい女神の微笑みに見えている。
しかし、その藍色の双眸の奥では、揺らめく篝火の影に紛れるように、人の心を自ら望む方向へ導こうとする冷徹な光が、ほんの一瞬だけ静かに揺らめいていた。




