第20話 プールの夢
広場を包んでいた篝火が燃え尽き、狂騒に満ちた宴が夜の底へと沈み切った頃、村外れの小さな木造家屋には深々とした静寂が戻っていた。
板張りの寝台に横たわるネロの意識は、昼間の激戦と宴で覚えた重苦しい吐き気を振り切るように、再び底知れぬ微睡みの淵へと沈み込んでいく。
やがて冷たい夜の気配が薄れ、代わりに肌を撫でる熱を帯びた微風と、甘く熟れた果実の芳香が漂い始めた。
それらに導かれるように、ネロの意識は現実の外側へと引き込まれていった。
目を開いた瞬間、ネロの視界へ飛び込んできたのは、現世のいかなる王都にも存在し得ないほど壮麗を極めた白大理石の回廊だった。
見渡す限りに広がる巨大な中庭は、陽光を受けて煌めく大理石の列柱によって囲まれている。その中央には、澄み切ったエメラルドグリーンの水を湛えた広大なプールが広がり、周囲には見たこともない極彩色の花々が咲き乱れていた。
そよ風が吹き抜けるたび、甘い蜜の香りと細かな水飛沫が大気へ舞い上がる。
『ネロ様!』
『こちらへいらしてください、ネロ様!』
水面を揺らしながら、鈴を転がすような歓声を上げているのは、色鮮やかな水着や肌へ張り付く薄絹を纏った、幾十、幾百もの麗しい女たちだった。
濡れた柔肌を陽光に輝かせ、波を立てながら無邪気に戯れる彼女たちの顔には、かつて魔王の地下迷宮で家畜のように繋がれ、虐げられていた頃の暗い影など微塵も残っていない。
ネロが救い出し、自らの宮殿へ迎え入れた妻たち。
彼女たちはネロの姿を認めるや否や、花が咲くような満面の笑みを浮かべ、我先にと水飛沫を散らしながら駆け寄ってきた。
誰一人として過去の傷に怯えることなく、無垢な愛と全幅の信頼を瞳に湛えている。ある者はネロの腕に縋り、ある者は胸元へ身体を寄せながら、惜しみない親愛を向けてくる。
夢の中のネロは、青年らしく引き締まった長身に、風を孕む白銀の薄絹をゆったりと羽織っていた。その唇には、妖艶なまでの不敵さと少年のような無邪気さを併せ持つ、悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
ふと、ネロは腰元から一本の笛を取り出した。
それは現実で愛用している粗末な木製の横笛とはまるで異なっていた。透き通るような碧玉を削り出し、神話の時代から伝わる霊気そのものを封じ込めたかのような、美しい宝笛だった。
ネロがそれを唇へ寄せ、指孔の上へ指先を滑らせる。
紡ぎ出されたのは、水面を跳ねる波紋のように軽快で、風そのものを甘く酔わせるような魅惑の旋律だった。
その音が空気を震わせた刹那、沐浴池の周囲を突風が駆け抜ける。
水辺に建てられた豪奢な東屋へ風が渦を巻き、少女たちが水へ入る際に脱いで掛けてあったドレスや色鮮やかな羽衣を、次々とふわりと宙へ巻き上げていった。
舞い上がった色とりどりの衣は、まるでネロの笛の調べそのものに導かれているかのように宙を踊り、池の周囲にそびえ立つ背の高いヤシの梢へと運ばれていく。
やがて衣は、手の届かない枝葉の奥深くへ次々と引っ掛かり、見えなくなってしまった。
笛の音を止めたネロは、悪戯が成功した少年のような無邪気な笑みを浮かべた。
『ああっ、ネロ様ったら!』
『まあ、何ていじわるなことを! お洋服がありませんわ!』
水から上がろうとしていた少女たちは、自分たちの着替えが梢の上へ隠されてしまったことに気づくと、頬を林檎のように赤らめながら慌てて胸元まで水中へ身を沈めた。
水飛沫を上げながら口々に抗議するものの、その声には怒りよりも、甘やかな熱気と楽しげな笑い声が入り混じっている。
『――ネロ!』
そんな甘い喧騒を切り裂くように、凛と通る声が響いた。
プールの縁に立ち、腰へ手を当てて呆れたようにネロを見下ろしていたのは、濡れた黒髪を頭頂高くで結い上げたラダだった。
引き締まった肢体には濃紺の水着がしなやかに馴染み、陶器のように白い肌を陽光の下へ晒している。その佇まいには、かつての怯えた奴隷の面影などまるでなく、この広大な後宮に暮らす少女たちを束ねる正妻としての気品と自信が満ちていた。
ラダは水辺をツカツカと歩いてネロの前までやって来ると、そのまま腕を伸ばし、青年の耳を指先でキュッと軽く引っ張った。
『またそんな子供みたいな悪戯をして! 皆を困らせてはいけませんと、あれほど言ったでしょう?』
口調こそ淑やかな叱責を装っていたが、耳を引っ張る指先の力はどこまでも優しかった。見上げる琥珀色の瞳の奥にも、青年への尽きせぬ愛おしさと温かな親愛が揺らめいている。
『痛い痛い、悪かったよラダ。あまりにも水着のみんなが綺麗だったからさ』
青年は大げさに両手を上げ、降参の姿勢を取った。
その悪びれない言葉に、ラダはとうとう耐えきれなくなったように吹き出す。やがて二人は互いに視線を絡ませながら、陽だまりのような笑い声を交わし合った――。
「っ……な、なんだってんだ一体……!?」
鋭く息を呑むと同時に、ネロの身体が寝台の上で勢いよく跳ね起きた。
心臓が胸板を内側から叩き壊さんばかりに、激しく脈打っている。
視界へ飛び込んできたのは、粗末な木造家屋の低い天井と、窓の隙間から差し込む青白い未明の月明かりだった。
足元へ視線を落とすと、床に敷かれた毛布に包まれたラダが、規則正しい安らかな寝息を立てながら丸くなっている。
「っ……あ……うわぁっ……!」
首筋から耳の先、そして顔面全体へ、煮えたぎるような熱が一気に駆け上がった。
ネロは両手で真っ赤になった顔を覆い、寝台の上で頭を抱え込む。
(水着の女の子たちと水浴びして……挙げ句の果てには、服を隠すような悪戯までして……っ! 僕は何を考えてるんだ!? なんでこんな破廉恥で、タチの悪い悪戯っ子みたいな夢ばかり見るんだ……!)
以前見た、自分が魔王を倒して英雄として沢山の女の子と結婚する夢すら霞んでしまいそうなほど、今回の夢には生々しい感触が残っていた。
水飛沫のひんやりとした冷たさ。鼻先をくすぐった甘い花の香り。そして何より、ラダに耳を引っ張られた時の、あの柔らかな指先の感触まで、今も耳朶の皮膚に鮮明に残っている。
恥ずかしさと情けなさのあまり、ネロは掛け布団へ顔をぎゅっと押しつけ、寝台の上で身悶えした。
(落ち着け……落ち着くんだ、僕……! あんなの、ただの夢だ……! ラダに知られたら、今度こそ軽蔑されて出て行かれてしまう……!)
冷たい夜気を肺の奥まで吸い込み、必死に火照りを鎮めようとする。
だが、荒い呼吸を整えていくうちに、ネロは胸の奥へ別の奇妙な感覚が沈殿していることに気づいた。
(……あの笛の音……)
夢の中で自分が奏でていた、あの旋律。
大気を震わせ、風を巻き起こし、水面の波紋すら意のままに躍らせていた不可思議な音色の残響が、耳の奥底にこびりついて離れなかった。
それは、モヒーニカから授けられた黄金の神気を纏わせて奏でる、清らかで整然とした旋律とは根本的に異なっていた。
もっと野性的で、奔放で。
まるで大地や風そのものが元から持っている脈動へ直接触れ、それを戯れるように揺り動かしているかのような、理屈では説明できない音だった。
その旋律を思い返した瞬間、昼間にジナが投げかけてきた言葉が、鮮やかに脳裏へ蘇った。
『ネロ。……あんたがその笛で奏でているものは、神に与えられた力なんかじゃない』
『あいつらが押しつけてくる、耳障りのいい「調和」をなぞるな。世界の歪み、神が隠している綻び……その狂った旋律にこそ、耳を澄ませろ』
ジナの言葉と、夢の中で自分が無意識に紡いでいた音色。
二つの断片が、ネロの思考の中で奇妙に結びついていく。
(神に与えられた力じゃない……? 世界の歪み……?)
モヒーニカは、ラダに刻まれた歪なジョブの由来を「魔王の呪毒」だと語り、ジナのことを「魔族を憐れむ異端」だと断じた。
一方で村人たちは、ジナの姿を見た瞬間に狂気に取り憑かれたように豹変し、命を奪おうとするほどの勢いで石を投げつけた。
そしてジナ自身は、この村の温もりに騙されるなと警告し、ネロの笛についても意味深な言葉を残して去っていった。
誰が正しくて、何が真実なのか。
今のネロには、まだ何一つ分からない。
ただ一つ確かなのは、夢の中で奏でていた音が、かつて王都で仲間たちのために吹いていた調律とも、女神の加護によって放った攻撃の旋律とも異なる、未知の何かを孕んでいたということだった。
ネロは寝台から、音を立てないよう静かに足を下ろした。
床の毛布で眠っているラダの寝息を確かめ、彼女を起こさないよう忍び足で土間を抜けると、木製の簡素な扉をそっと押し開けた。
外へ出た途端、刺すように冷たい夜気が頬を撫でる。
見上げた空には無数の星々が瞬き、すり鉢状の盆地を取り囲む原生林が、黒々とした巨大な影となって横たわっていた。
ネロは腰の革帯から、使い古された木製の横笛を抜き取る。
月光の下で指孔を確かめるようになぞり、そっと唇へ運んだ。
(……狂った旋律に耳を澄ませろ、って言ってたな……)
静かに息を吹き込む。
だが今回は、いつものように神気を巡らせ、滑らかで整然とした音律を組み上げようとはしなかった。
昼間、マヒシャの身体から噴き出していた重苦しい瘴気の唸り。
村人たちが一斉にジナを罵倒した時に感じた、鳥肌の立つような機械的な不協和音。
そして夢の中で、風を巻き起こし、少女たちの衣を自由自在に宙へ舞わせていた、あの奔放な旋律の記憶。
それらを一つずつ思い返しながら、ネロは記憶の底を探るように指の位置を僅かにずらし、いつもとは異なる息の揺らぎを横笛へ吹き込んだ。
ピィ……キィィン……。
静寂に包まれた夜へ、奇妙な音が響いた。
普段のネロが奏でる澄み切った旋律とは違う。
低く、僅かにざらつき、一聴すれば不協和にも聞こえる。
それでも、その響きの奥には奇妙なほど確かな芯があった。
音が夜気へ溶け込んだ瞬間、大気が僅かに軋み、足元に生えていた草葉が、風もないのに小さく震えた。
「……!」
ネロは横笛から唇を離し、驚いたように足元を見る。
草葉はすぐに動きを止めた。
魔力を放った感覚はない。
黄金の神気を呼び起こした覚えもなかった。
それなのに、確かに何かが音へ反応した。
(これだ……。少しだけ、夢の中の音に近かった気がする……)
ネロは再び横笛を唇へ当てた。
今度はほんの少しだけ音程を外し、意図的に整った旋律から逸れてみる。
一音。
また一音。
正しい譜面など、どこにもない。
それでもネロは、寒ささえ忘れながら耳を澄ませていった。
未明の星空の下。
暗闇に溶け込むように一人、世界の奥底から返ってくる微かな響きを探りながら、ネロは不協和音の先に眠る新たな旋律を、手探りで紡ぎ続けていた。




