第21話 パラシュの怒り ※暁の刃視点
肺を焼くような腐食性の瘴気が立ち込める「常闇の荒野」は、本来、生ある者が踏み入るべき場所ではなかった。
空は紫黒の雲に覆われ、枯れ果てた赤茶色の大地には無数の亀裂が走っている。王都グラン・アルカの……渡っているのは、かつて王都で誇らしげに語られていた英雄たちの鬨の声ではない。
「防壁が……っ、展開座標がズレた!? クソッ、術式が乱れて――」
後衛でドミニクが絶叫した直後、眼前へ展開されていた半透明の魔導障壁が大きく歪み、幾筋もの亀裂を走らせながら呆気なく破砕した。
術式の強制中断によって激しい魔力の逆流が発生し、その衝撃がドミニクの神経を容赦なく灼く。
「ぐぁああああッ!!」
両目から血の涙を零しながら、ドミニクは膝から崩れ落ちた。
ドォォォォンッ!!
「が、はッ……ごぼっ……!?」
前線で辛うじて踏みとどまっていたバクの身体が、黒鉄の大盾ごと数メートルも宙へ弾き飛ばされた。
上級魔族が振るった剛腕の直撃。
かつてならば、盾に伝わる振動と衝撃を無意識のうちに逃がせていたはずだった。だが今のバクには、それを受け流す余裕も感覚も残されていない。
巨体はそのまま荒れ果てた大地へ叩きつけられ、全身を襲った衝撃によって内臓が損傷する。
「ごぼっ……!」
口から大量の赤黒い血塊を吐き出し、バクは大盾を杖代わりにしながら、それでも起き上がろうともがいた。
「ヒッ、ヒィッ……! 神よ……神よ……! 魔力が、もう一滴も……!」
数歩後方では、カクスが泥水の中へ尻餅をつき、過呼吸を起こしながら震える両手で聖印を抱き締めていた。
これまでは長時間の戦闘であっても、魔力の流れが不自然に滞ることなどほとんどなかった。だが今では、無駄な消耗を抑えてくれるものは何もなく、神聖魔力はとうに底を突いている。
枯渇した肉体は、飢餓にでも陥ったかのように小刻みに痙攣していた。
そのすぐ近くでは、斥候のリクトが異形魔族の毒爪を肩口へ受け、急速に黒ずんでいく皮膚の激痛に身を捩っている。
愛用していた短剣は二本ともへし折れ、今では泥水の中へ這いつくばったまま、立ち上がることすらできなかった。
かつてSランクへと上り詰めたはずの精鋭パーティは、ネロという調律の要を失って以来、見る影もなく瓦解し始めていた。
一人一人が持つ力そのものは以前より遥かに高い。
それにもかかわらず、それぞれの動きは噛み合わず、魔力は無駄に失われ、防御も攻撃も僅かずつ致命的なズレを生じさせていた。
そんな彼らを包囲するのは、数百を数える異形魔族の軍勢。
その中央では、全身を黒光りする甲殻に覆われた二体の上級魔族が、獲物を弄ぶかのような残虐な笑みを浮かべている。
包囲網はすでに完成していた。
もはや誰の目にも、『暁の刃』の全滅は避けられないように思えた。
その阿鼻叫喚の地獄のただ中で、ただ一人だけ、パラシュは立っていた。
ドクンッ――。
重苦しい鼓動が鳴り響く。
それは本当にパラシュの胸から発せられたものなのか、それとも別の何かが脈打った音なのか、誰にも分からなかった。
剥き出しになったパラシュの右肩。
七歳の神託の儀によって刻まれた黄金の神紋が、おぞましい黒紫の光を帯び、肉を内側から押し裂くように激しく脈動し始めた。
皮膚の下では無数の黒い筋が生き物のように蠢き、肩から首筋へ、さらに頬の端へと少しずつ侵食していく。
そして、パラシュの碧眼から光が消えた。
焦燥も、怒りも、仲間を救おうとする意志さえも感じられない。
磨き上げられた硝子玉のような虚ろな瞳が、ただ前方を埋め尽くす魔軍だけを捉えていた。
ズンッ!!
次の瞬間、パラシュの足元を中心として大地が蜘蛛の巣状に陥没した。
踏み込んだ姿すら視認できない。
その巨躯が忽然と消えたかと思った直後、紫黒の雲に覆われた空を引き裂くように、この世の終わりを思わせる凄まじい神鳴りが轟いた。
パラシュが大戦斧を振り抜く。
そこから解き放たれたのは、もはや通常の雷撃術式などという生易しいものではなかった。
空間そのものを焼き千切るような、天罰を思わせる漆黒の雷だった。
バヂィィィィィィィッッ!!
黒雷が荒野を薙ぎ払った。
衝撃波が巨大な津波となって地表を削り取り、数百を数えた魔族たちを一瞬で呑み込んでいく。
傲慢な笑みを浮かべていた二体の上級魔族ですら、断末魔を上げる暇はなかった。
黒雷に呑まれた肉体は原形を留める間もなく焼き尽くされ、炭化した灰となって猛烈な突風の中へ消えていった。
たった一撃だった。
戦術も連携も必要としない、人の領域を逸脱した絶対的な暴力が、数百の軍勢を荒野から消し去っていた。
やがて黒雷が収まったあとに残されたのは、濛々と立ち込める黒煙と、赤く焼け爛れた巨大なクレーターだけだった。
その中心に、パラシュが立っている。
血肉と煤に汚れた大戦斧を肩へ担ぎ、何事もなかったかのように微動だにしていない。
右肩の神紋もまた、何かを腹いっぱいに貪り喰らった生き物のように、次第にその鈍い脈動を鎮めていった。
泥水の中から顔を上げたドミニク、バク、カクス、リクトの四人は、救われたことへの歓喜など微塵も抱いていなかった。
歯の根が合わなくなるほどの寒気が背筋を這い上がり、四人は呆然とパラシュを見つめている。
「おい……パラシュ……」
ドミニクが血の混じった唾を吐きながら、掠れた声で問いかけた。
「お前……今の力は、一体……何なんだ……?」
その声に反応し、パラシュはゆっくりと首を巡らせた。
だが、その瞳には仲間を気遣う温もりも、勝利を誇る熱情も存在していなかった。
底の知れない虚無だけを湛えた碧眼が、泥の中へ這いつくばる四人を、まるで道端に転がる小石でも眺めるかのように冷たく見下ろしていた。
◇ ◇ ◇
最低限の応急処置を終えた五人が荒野から王都へ向かう帰還の街道は、まるで死者の行軍のように冷え切っていた。
四肢の至るところを包帯で縛り、互いに肩を貸しながら歩くメンバーたちの足取りは鉛のように重い。
途中、道端の岩陰へ腰を下ろした一行は、泥に汚れた携帯用の認証水晶板を取り出した。
震える指先で表面へ触れる。
淡い青白い光が走り、最新の数値が浮かび上がった。
【パーティ『暁の刃』ステータス推移】
・バク [ガーディアン]:Lv.59 ───→ Lv.72
・ドミニク [ウィザード] :Lv.61 ───→ Lv.75
・カクス [プリースト] :Lv.58 ───→ Lv.71
・リクト [シーフ] :Lv.60 ───→ Lv.73
・パラシュ [選ばれし勇者:ウォリアー]:Lv.63 ───→ Lv.79
「……っ」
浮かび上がった数字は、かつてなら国中を揺るがし、吟遊詩人たちがこぞって英雄譚を歌い上げるほどのものだった。
五人全員が、人間にとって伝説の領域とまで呼ばれる「レベル70」を軽々と突破している。
普通の冒険者であれば、一生を懸けても到達できるか分からない数値だった。
しかし、水晶板を見つめる四人の瞳には、以前のような狂喜も興奮も浮かばなかった。
生気の失われた濁った目で、ただ機械的に明滅する文字列を見つめている。
「……上がったな」
「ああ……」
絞り出されたのは、それだけだった。
全身の傷は疼き、内臓の痛みも引いていない。魔力は枯れ果て、精神も擦り切れ、パーティとしての戦闘は先ほどまで壊滅寸前だった。
それなのに、数字だけが彼らの実感を置き去りにして異常な勢いで跳ね上がっている。
強くなっているはずなのに、その感覚がどこにもない。
むしろ数値が増えるたび、自分たちの内側から何か大切なものが少しずつ削り取られているような、説明のつかない薄気味悪さだけが残っていた。
四人は互いに目を合わせることさえ避け、水晶板を閉じると、それ以上誰もレベルについて口にしないまま、再び重い足取りで街道を歩き始めた。
一行の先頭を進むパラシュだけは、自らのギルドプレートへ表示された数字を無言で見下ろしていた。
【Lv.79】
(あと20……。レベル99まで、あと20だ……)
玉座へ至るための絶対条件。
白亜の王城、その最深部にある神聖なる玉座を手に入れるために、神が定めた数値。
魔族を屠り、力を得続ければ、いずれあの腐敗した老王も、貴族どもも叩き潰せる。
そう自分へ言い聞かせた、その時だった。
ひゅう、と冷たい夜風が街道脇の枯れ草を揺らす。
その微かな風切り音に混ざるようにして、パラシュの耳の奥に、聞き覚えのある旋律が不意に蘇った。
ピィ……キィィン……。
飾り気のない、木製の横笛が奏でる澄んだ音色。
(……え?)
パラシュの足が、不自然に止まりかけた。
かつて過酷な迷宮の奥で、どれほど強大な魔獣に囲まれても、背後からは絶えずあの笛の音が聞こえていた。
その音が耳へ届くだけで、肺の奥に溜まった息苦しさが薄れ、筋肉へ蓄積した疲労も不思議なほど軽くなった。
自分が呼吸を合わせるだけで、バクがどこで敵の攻撃を受け止めるのか、ドミニクの魔術がどこへ着弾するのか、リクトがどの死角へ潜り込もうとしているのかが、言葉を交わさずとも手に取るように分かった。
あの頃の『暁の刃』は、五人でも六人でもなかった。
まるで全員が一つの身体になったように戦えていた。
(……そうだ。俺とネロは……ずっと一緒に戦ってきたはずだ)
記憶の底に沈んでいた情景が、堰を切ったように蘇ってくる。
母を失い、王都へ出てきたばかりの頃。
貧民街の片隅で、泥だらけになりながら硬い黒パンを半分に割り、ネロと二人で分け合って食べた。
初めて小さな魔物を倒した時には、互いにぼろぼろの武器を握ったまま、怖かったと泣きながら、それでも生き残れたことが嬉しくて笑い合った。
そして、自分が神に選ばれた勇者として冒険者の道を進むと決めた時。
戦う力などほとんど持たなかったネロは、それでも自分から、
『君を一人で死なせなたりなんてしない』
そう言ってついてきた。
一本の横笛だけを手に、何度も命懸けの戦場へ足を踏み入れ、ずっと自分たちの背中を支え続けてくれた。
(あいつの笛は……いつだって俺の背中を支えてくれていた。どんな戦場でも、あいつの音が聞こえていたから……俺は前だけを見て戦えたはずだ)
それなのに。
パラシュの眉間に、深い皺が刻まれる。
(……なぜだ?)
どうして、自分は忘れていたのだろう。
(なぜ俺は……あいつの音を、あそこまで『耳障りなゴミ』だと思った?)
胸の奥へ、小さな疑問が生まれる。
(どうして、あそこまでネロを憎んだ? 役立たずだと罵って……あの日、宿から追い出した……?)
自分の胸の奥に残っている、温かな記憶。
そして、実際に自分がネロへ向けた、冷酷極まりない言葉の数々。
二つの間には、どうしても埋めることのできない、決定的な断絶が横たわっていた。
ズキリッ――!!
「ぐ、あッ……!?」
突如として、激痛がパラシュの脳髄を貫いた。
何者かが頭蓋の内側から、真っ赤に焼けた鉄杭を打ち込んだかのような耐え難い頭痛。
思考そのものを押し潰される。
ほんの一瞬前まで鮮明だったネロとの記憶へ黒い靄がかかり、そこから生まれた疑問までもが、得体の知れない力によって強引に奥底へ押し戻されていく。
「おい、パラシュ……? どうした?」
後ろから怪訝そうな声が飛んできた。
パラシュは脂汗の浮かんだ額を押さえ、苦しげに息を吐く。
「……何でもない。急ぐぞ」
吐き捨てるように告げると、頭痛を振り払うように歩調を速めた。
だが、消えたはずの疑問は完全には消えていなかった。
胸の奥には、抜こうとしても抜けない冷たい棘のような違和感が、深々と突き刺さったままだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
五人はようやく王都グラン・アルカの中央冒険者ギルドへ帰還した。
白亜の大理石で造られた壮麗なロビーには、戦火の最前線など知る由もない絢爛な調度品が並び、甘ったるい香水の匂いが漂っている。
満身創痍の一行はSランク専用の特別窓口へ向かい、魔族殲滅の証拠として回収した魔石を引き渡すと、その場で報酬の手続きを待つことになった。
その窓口のすぐ傍らでは、豪奢な白狐の毛皮を肩に掛けた男たちが、品のない哄笑を上げていた。
王都の商業へ強い影響力を持つ大貴族、オルガン伯爵の配下にあたる徴税官たちだった。
彼らの前には、最前線の荒廃によって商売を立ち行かなくさせ、救済を求めて王都までやってきた平民の商人たちが頭を下げている。
だが、徴税官たちはそんな彼らへ法外な戦時特別関税を突きつけ、青ざめる姿を指差しながら下卑た笑い声を響かせていた。
「ひ、酷すぎる……! こんな額を払わされたら、うちの商会は破産です! 家族まで飢え死にしてしまいます!」
「知ったことか、下民めが! 我ら貴族の庇護の下で商売をさせてもらっている恩を忘れたか! 文句があるなら衛兵を呼んで、牢へ叩き込んでやるぞ!」
安全な王都の奥深くで肥え太り、泥水を啜って生きる者たちを平然と踏み躙る。
その醜悪な光景に、パラシュが冷たい殺意を帯びた視線を向けた時だった。
さカウンターの奥で書類を整理していたギルド職員と、伯爵家の従僕らしき男が、声を潜めながら下世話な噂話を交わしている。
「おい、聞いたか? オルガン伯爵家の若奥方だったルミナ様、とうとう屋敷を追い出されたらしいぞ」
「ああ……今年で二十歳になられた方ですよね。跡継ぎの男子を一人も産めなかったとかで、離縁状を叩きつけられて、そのまま着の身着のままで門前払いされたそうですよ」
「まったく、伯爵家にしちゃ世継ぎを産めない女なんざ、飯だけ食う穀潰しってことだろ。持参金も実家から受け継いだ権利も、全部取り上げられたらしいぜ」
男は口元を歪ませる。
「後ろ盾もない女が一人で放り出されちゃ、どっかの裏路地で野垂れ死ぬのが関の山だろうよ」
二人はケケケと下品な声を上げて笑い合った。
その瞬間だった。
パラシュの脳裏に、かつて母が迎えた凄惨な最期が、鮮血の臭いとともに鮮烈に蘇った。
痩せた畑で身を粉にして働き、それでも誰にも守られることなく、ある夜突然、冷たい床の上へ血を流して倒れていた母。
弱者を虫けらのように踏み躙り、価値がなくなれば平然と捨て去る者たち。
目の前で笑っている男たちの姿が、パラシュにはこの世界そのものの醜悪さを凝縮したもののように見えた。
(持てる者が……安全な場所で肥え太っている豚どもが、何も持たない奴らを使い潰して、それを笑っていやがる……!)
怒りが噴き上がる。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
パラシュの全身から、凄まじい密度の黒紫の闘圧が爆発的に噴き出した。
それは、もはや単なる殺気などという生易しいものではなかった。
空間そのものを圧し潰すかのような、異様な威圧。
ギルドホールの空気が凍りついたように張り詰め、先ほどまで嘲笑っていた徴税官や職員たちが、突然心臓を鷲掴みにされたかのように顔を青ざめさせる。
「ひっ――」
最後まで悲鳴を上げることすらできず、何人もの男たちが白目を剥いて、その場へ崩れ落ちた。
メキメキ、メリメリッ!
パラシュが立つ大理石の床へ、網の目状の深い亀裂が走る。
煮えたぎるような怒りと憎悪が内臓を焼き焦がし、その魂を黒々とした情念で覆い尽くしていった。
その時だった。
キィィィィィィィン――ッ!!
中央ホールの吹き抜けにそびえる巨大なステータス認証水晶柱が、パラシュへ呼応するかのように甲高い音を響かせた。
同時に、腰のホルダーへ収められていたギルドプレートが激しい熱を帯び、眩い光を放つ。
パラシュは何もしていない。
魔族を倒したわけでも、経験値を得たわけでもない。
ただ怒りに身を任せ、目の前の人間へ憎悪と殺意を抱いただけだった。
それにもかかわらず、パラシュの視界へ空間を歪ませるように異様な文字列が強制的に展開される。
【パラシュ・ステータス更新】
・パラシュ[選ばれし勇者:ウォリアー]:Lv.79 ───→ Lv.84
・獲得神性スキル:【神聖なる憤怒】【因果の執行】
「……な、んだ……これは……?」
さすがのパラシュも、その光景には息を呑んだ。
魔物を一匹も倒していない。
経験値を得るような戦闘も、試練も、何一つこなしていない。
ただ世界への怒りを燃やし、目の前の人間を殺したいと願った。
それだけだった。
なのに――レベルが五つも上がった。
そればかりか、これまで見たこともない「神性スキル」まで新たに与えられている。
(戦ってもいないのに……レベルが、上がった……?)
パラシュは、強く握り締めた自分の拳を見つめた。
先ほどまで煮えたぎっていたはずの怒りが、一瞬だけ冷える。
これまでレベルは、魔物を倒し、死線を越え、強さを積み重ねた者へ与えられる数字だと思っていた。
神が、その者の成長を正しく示してくれる絶対の指標なのだと信じていた。
だが――。
今、自分がしたことは何だ。
戦ってすらいない。
ただ憎んだ。
ただ殺意を抱いた。
それだけで、神は自分を「成長した」と認めた。
「……」
黒紫の光を放つ神紋が、右肩で小さく脈打つ。
ドクン。
まるでその疑問に答える代わりに、もっと憎め、もっと怒れと囁いているかのように。
パラシュの背筋を、これまで感じたことのない得体の知れない戦慄が、ゆっくりと駆け抜けていった。




