第22話 消えていく少女
朝霧が立ち込めるすり鉢状の盆地へ、山々の稜線を越えて柔らかな陽光が差し込み始めていた。
村外れの荒れ地だった裏庭には、ネロとラダが何日もかけて鍬を入れ、固い土を掘り返して作った小さな畑が広がっている。蒔いたばかりの野菜や香草の種からは瑞々しい緑の双葉が顔を出し、小川から汲んできた冷たい水を撒くたびに、朝露と混じり合った湿った土の匂いが心地よく鼻腔をくすぐった。
外界の悪意から隔絶されたこの隠れ里での暮らしは、表面だけを見ればどこまでも穏やかだった。
「ネロ様、井戸端のエルドさんから、採れたての蕪を分けていただきましたよ」
泥のついたエプロンの裾を揺らしながら、ラダが両腕いっぱいに白い蕪を抱えて小走りに駆け寄ってくる。その琥珀色の瞳は朝日を受けて明るく輝き、処刑台の上で怯えながら俯いていた頃の面影は、少しずつではあるが確実に薄れつつあった。
「こんなに? エルドさん、自分のところの分までなくならないといいけど」
「大丈夫だそうです。今年は出来がいいから、二人で食べなさいって。今夜はこれを煮込んでみようと思うのですが……どうでしょう?」
「うん、いいね。ラダが作ってくれるなら楽しみにしてるよ」
「はい!」
嬉しそうに笑うラダを見ていると、この村へ来たことそのものは間違いではなかったのかもしれないと、ネロは思いたくなる。
朝になれば畑へ出て、昼には森で木の実や香草を集め、夕方には二人で食卓を囲む。村人たちはラダの黒髪を蔑むこともなく、ネロのレベルを理由に嘲笑することもない。王都やリンドブルムでは決して得られなかった穏やかな日々が、ここには確かに存在していた。
それなのに、その平穏が深まれば深まるほど、ネロの胸の奥には説明のつかない違和感が澱のように溜まり続けていた。
ジナを見た瞬間、まるで何かに操られたかのように豹変した村人たち。彼が森へ去るや否や、その出来事そのものを忘れたように笑い始めた彼らの姿。
そして何より、一度意識してしまってからというもの、ネロにはこの村に存在するもう一つの奇妙な偏りが、どうしても目について仕方がなかった。
広場へ出れば、女性たちの朗らかな笑い声は確かに聞こえてくる。しかし、その姿を注意深く見れば、麦わら帽子を被って蝶を追いかけている幼い少女か、井戸端で水を汲み、洗濯物を干している十代ほどの娘ばかりだった。
母親と呼べるほど歳を重ねた女性も、白髪を揺らしながら孫の世話を焼く老婦人も、この村では一度として見たことがない。
それに対して男たちは、ごく自然に歳を重ねていた。青年が薪を割り、中年の男が畑を耕し、その隣では顔中に深い皺を刻んだ老農夫が、白髪を朝風に揺らしながら腰を曲げて鍬を振るっている。
初めは、単なる偶然なのだと思っていた。
この小さな村にはたまたま年長の女性が少ないだけなのだろうと、自分自身を納得させようともした。
だが昨日、どうしても気になったネロは、隣の畑を耕していた老人へ何気なく尋ねてみた。
『じいさん、いつも朝早くから大変だね。奥さんは家で休んでいるの?』
その問いを口にした瞬間、老人の顔から、それまで浮かんでいた穏やかな笑みがすっと消えた。
濁った瞳から焦点が失われ、鍬を握ったまま微動だにせず、まるで記憶のどこかへ手を伸ばそうとして、その行き先を見失ったかのように遠い虚空を見つめ始めたのだ。
異様な沈黙が数秒ほど続いたあと、老人はようやく掠れた声を漏らした。
『……奥さん、かね。ああ……そうだったかな。昔は……いたような気もするがねえ……』
自分自身の妻のことだというのに、その声音には懐かしさも悲しみもなく、ただ答えの分からない昔話について尋ねられたような曖昧さしかなかった。
老人は何かが抜け落ちたような笑みを浮かべて首を傾げると、それ以上は何も語らず、再び何事もなかったかのように土を掘り返し始めた。
気になったネロは、別の男たちにも妻や母親について尋ねてみた。
だが反応は、どれも不気味なほど似通っていた。最初は言葉に詰まり、やがて目から焦点が失われ、最後には何かを思い出しかけたこと自体を忘れてしまったかのように話を逸らしてしまう。
まるで彼らの記憶には、最初からそこだけを開けないようにするための鍵が掛けられているかのようだった。
昼下がり、畑仕事を終えて家へ戻ったネロは、一人、薄暗い土間の中央に立ち尽くしていた。
腕を組みながら、自分がこれまで生きてきた世界の光景を、一つずつ記憶の底から拾い上げていく。
そこで脳裏に浮かんだのは、昨夜見た奇妙な夢だった。
白大理石の列柱に囲まれた壮麗な宮殿と、エメラルドグリーンの水を湛えた広大な沐浴池。そして、その水辺で楽しそうに笑っていた幾十、幾百もの女性たち。
夢の中にいた彼女たちは、若い少女ばかりではなかった。歳を重ねた落ち着きを纏った女性もいれば、成熟した気品を持つ者もおり、それぞれ異なる年月を生きてきたことが一目で分かるような者たちが、当たり前のようにネロの周囲で笑い合っていた。
(……そうだ。あの夢の中には、大人の女性がたくさんいた。僕は、それを何もおかしいと思わなかった)
だからこそ、現実との違いが際立って見えた。
(なのに……この世界では?)
背筋を、冷たい汗がゆっくりと伝い落ちる。
これは、この辺境の隠れ里だけの話なのだろうか。
ネロは自分が育った白亜の王都グラン・アルカの街並みを思い返し、さらに自由交易都市リンドブルムの喧騒に満ちた市場や酒場の光景まで、必死になって記憶の中から掘り起こしていった。
酒場で料理を運んでいた給仕、冒険者ギルドの窓口で書類を整理していた受付嬢、市場で果物や布地を売っていた女商人、道端を歩いていた貴族の令嬢たち。
記憶に残っている女性は、誰も彼も若かった。
何度記憶を探り直しても、その中に中年の女性も、老いた女性も一人として見つけることができない。
(……いない。村だけじゃない。王都にも、リンドブルムにも……大人の女性が、どこにもいなかった……)
その事実に気づいた瞬間、今まで当たり前だと思っていた世界の形が、音もなく歪んでいくような感覚に襲われた。
男たちは幼子から青年になり、中年を経て老人へと歳を重ねている。それなのに、なぜ女たちだけが途中から姿を消しているのか。若い娘たちはやがて歳を重ねるはずなのに、その先にいるはずの女性たちは一体どこへ行ったのか。
そして、それほど明白な異常が存在しているというのに、なぜ自分は今まで一度として疑問に思わなかったのか。
考えれば考えるほど、背筋を這い上がる寒気は強くなっていった。
その時、静まり返った部屋へ、ふわりと甘やかな百合の香気が漂ってきた。
白銀と黄金の光の粒子が虚空から滲み出るように現れ、螺旋を描きながら一つの形へと集まっていく。やがてその中心から姿を現したのは、神々しい薄絹を身に纏った少女の姿の女神、モヒーニカだった。
「どうかなさいましたの、愛しいネロ? 先ほどから随分と難しいお顔をなさって……また過去の亡霊に心を痛めていらっしゃるのですか?」
いつもと変わらぬ慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、モヒーニカはネロへ手を差し伸べてくる。
だが、ネロはその手を取らなかった。
これまでは彼女の姿を見るだけで安心できたはずなのに、今は胸の奥へ生じた疑問を曖昧なまま押し込めることができなかった。
「モヒーニカ……僕に教えてほしい」
「まあ、何でしょう?」
「どうしてこの世界には、男の人みたいに歳を取った大人の女性が一人もいないの?」
その言葉を聞いた瞬間、モヒーニカの笑みが僅かに止まった。
ネロは構わず問いを続ける。
「若い女の人はたくさんいる。でも、中年くらいの人も、おばあさんも、僕は一度も見たことがない。村だけじゃないんだ。王都にもリンドブルムにもいなかった。男の人は普通に歳を取っているのに、女の人たちは歳を取ったらどこへ行ってしまうんだ?」
少年の問いが静かな部屋へ響き渡ると、モヒーニカの慈愛に満ちた相貌が、ほんの僅かな間だけ凍りついた。
完璧な微笑みそのものは崩れていなかったが、藍色の双眸からは、それまで宿っていた温かな光だけが一瞬にして消え失せている。そこへ浮かんだのは、人間の疑問を優しく受け止める女神の慈愛ではなく、決して触れられてはならない領域へ踏み込んだ者を見定めるような、底知れぬ冷徹さだった。
しかし、それも瞬き一つほどの間に過ぎなかった。
モヒーニカはすぐにいつもの柔らかな微笑みを取り戻し、まるで些細なことで悩む幼子を宥めるように首を傾げた。
「まあ、ネロったら……そんな他愛もないことを、ずっと気に病んでいらしたの?」
「他愛もないって……でも、おかしいだろ?」
「いいえ。何もおかしなことなどありませんわ」
モヒーニカは優雅な足取りで距離を縮めると、冷涼な指先でネロの頬を優しく撫でた。
「女性の若さと愛らしさは、慈悲深き神々から与えられた特別な祝福なのです。皺を刻み、身体が衰え、やがて美しさを失っていくという老いの悲しみから、神は女たちを守ってくださっている。いつまでも清らかで美しい姿を保っていられることこそ、この世界へ注がれた神の愛の証なのですわ」
「……祝福?」
「ええ。ですから、そのような美しき世界の理を疑う必要などありません。理解する必要のないことへ心を囚われ、余計な疑念を抱き続ければ、いずれ貴方の清らかな魂まで曇ってしまいますもの」
鈴を転がすような甘い声音は、いつものように耳へ心地よく響いた。
だがネロは、今度ばかりはその言葉へ素直に頷くことができなかった。
モヒーニカの説明は、「なぜ女性が若い姿をしているのか」という問いへの答えにはなっているのかもしれない。しかし、ネロが本当に尋ねたことには何一つ答えていない。
仮に女性が老いないのだとしても、それなら何十年も生きている女性が、若い姿のままこの世界のどこかに存在しているはずだった。
それなのに、自分はそのような女性に会った記憶がない。
村の老人たちも、かつて自分たちに妻がいたことすらまともに思い出せない。
ネロが知りたかったのは、若さが保たれる理由ではなく、歳を重ねたはずの女性たちが一体どこへ消えてしまったのかということだった。
そしてモヒーニカは、その部分にだけ触れようとしていない。
胸の奥に生まれた違和感が、今度は甘い声音を聞いても消えてくれなかった。
「モヒーニカ、それじゃあ――」
ネロがさらに問いを重ねようとした、その時だった。
「た、大変だ! ネロさん、おいでかい!?」
表の木製扉が乱暴に叩かれ、老農夫エルドの切迫した声が響き渡った。
モヒーニカの姿が淡い光へ溶けるように消えるのとほぼ同時に、ネロは弾かれたように振り返り、扉へ駆け寄った。
「エルドさん!? どうしたんですか!」
「村外れの森で行き倒れが見つかったんだ! 若い娘なんだが、様子がおかしい! とにかく早く来てくれ!」
◇ ◇ ◇
西の空が赤黒い黄昏へ染まり始める頃、ネロとラダがエルドに案内されて辿り着いたのは、村の境界を取り囲む鬱蒼とした原生林の入口だった。
夕闇が降り始めた草むらの中に、一人の若い娘が泥と枯れ葉にまみれたまま倒れ伏している。その傍らには、粗末な灰色の麻布で作られた小さな手荷物が転がっていた。
娘の身を包んでいるドレスはあちこちが引き裂かれ、裾も泥水に汚れきっていたが、それでも一目見れば庶民の衣服でないことは分かった。胸元には細かな金糸の刺繍が施され、生地も王都の上流階級でなければ容易には手に入らないほど上質なものだった。
乱れた淡い金髪の間から覗く顔立ちは酷く痩せこけ、長い逃亡でも続けていたのか、頬は窪み、唇も血の気を失って紫色に変わっている。
だが、ネロが息を呑んだのは、その衰弱ぶりではなかった。
「……ネロ様、あの方の……足……」
ネロの隣へ駆け寄ったラダが、震える声を漏らしながら口元を手で覆った。
ドレスの裾から覗く娘の両脚と、泥を握り締めた両手の指先が、熱気に揺れる陽炎のようにぼんやりと透け始めていたのだ。
それは傷口から血を失っているというような状態ではない。薄くなった皮膚の向こうには骨や血管ばかりか、そのさらに向こう側に生えている草葉までが透けて見えている。
肉体が損なわれているというより、存在そのものが世界から輪郭を失い、少しずつ現実の外へ滑り落ちようとしているようにしか見えなかった。
「なんだよ……これ……。こんなの、見たことない……」
ネロは娘の傍らへ膝をつき、透け始めた指先へ恐る恐る触れた。
まだ僅かな感触は残っていたものの、その存在感はあまりにも希薄で、薄い水膜へ触れているような頼りなさしかない。
「王都の人なのかねえ……?」
「服を見る限りじゃ、かなり身分の高い娘さんみたいだけど……」
騒ぎを聞きつけて集まってきた村人たちも、困惑した様子で周囲を取り囲んでいた。
誰かが水を持ってきて娘の唇へ流し込もうとしたものの、水滴は半透明になりつつある口元をそのまますり抜け、乾いた地面へ零れ落ちる。
「おい……誰か、この娘のステータスを見てみろ!」
エルドの声を皮切りに、その場にいた者たちの間から次々と声が上がった。
「ステータス・オープン!」
「ステータス・オープン!」
ネロもまた、地面に倒れている娘へ意識を向けた。
「ステータス・オープン」
ラダや村のプリーストを含め、周囲にいた者たちの視界へ半透明のステータス表示が浮かび上がる。
しかし、そこに現れた内容を目にした瞬間、誰もが言葉を失った。
【個体識別:識別不能】
・Lv.―― ジョブ[――――]
・HP:2/――(継続減少)
・状態:存在希薄化
・特記事項:回復不能/治癒効果無効
「……回復、不能……?」
ラダの唇から、震える声が零れた。
「そんな……」
村のプリーストが青ざめた顔で表示を見つめる。
「名前も、ジョブも、レベルさえ正常に読み取れない……。それに、特記事項に『回復不能』と……」
「じゃ、じゃあ……治せないってことなのか?」
「ステータスにそう出ているなら……」
誰かが呆然と呟いた。
それを境に、それまで何とか娘を助けようとしていた村人たちの間から、急速に熱が失われていった。
誰も娘を憎んでいるわけではない。誰も死を望んでいるわけでもない。それでも、ステータスという絶対的な指標に「回復不能」と示された瞬間、それ以上抗うという考えそのものが、彼らの中から消えてしまったかのようだった。
「神の定めたステータスに『回復不能』と出ているんじゃ……もう……」
「俺たちにできることはないってことか……」
「可哀想だが……せめて、苦しまないようにしてやるしか……」
「待ってよ」
ネロは思わず顔を上げた。
「まだ息があるじゃないか」
「ネロさん……だが、ステータスに……」
「だからって、まだ生きてる人を見捨てるのか?」
誰も答えなかった。
ラダだけが、倒れている娘とステータス表示を交互に見つめながら、苦しそうに唇を噛んでいる。
その時、ネロの視界の端に淡い光が滲んだ。
白銀と黄金の燐光が静かに集まり、その中から再びモヒーニカの姿が浮かび上がる。
もちろん、その姿も声も、この場で知覚できているのはネロただ一人だった。
女神は周囲の村人たちには目もくれず、先ほどまでの慈愛に満ちた微笑みすら消したまま、地面へ倒れている娘をひどく冷めた目で見下ろしていた。
「無駄ですわ、ネロ」
「……モヒーニカ?」
「表示された通りです。その娘はすでに魂の器を損ない、極限まで衰弱しきっています。世界の理から見放された者へ、神々の奇跡が届くことはありません」
その声音には、死に瀕した人間を前にしているとは思えないほど感情がなかった。
「今夜を越すことはできないでしょう。これ以上苦しませず、静かに最期を看取って差し上げることこそ、残された唯一の慈悲というものですわ」
「そんな……まだ息があるのに、見捨てろっていうのか!?」
ネロは思わず声を荒らげた。
突然誰もいない場所へ向かって叫んだネロを、周囲の村人たちは困惑したように振り返る。
「ネロさん……?」
「あの人、誰と話してるんだ……?」
彼らにはモヒーニカの姿も声も知覚できない。
隣にいたラダだけは、ネロが見つめている何もない空間へ一瞬だけ視線を向けると、すぐに事情を察したようだった。
「ネロ様……モヒーニカ様が、いらっしゃるのですか?」
「……うん」
ネロは短く答えたものの、それ以上説明する余裕はなかった。
女神は村人たちの困惑にも、ネロの訴えにも答えようとせず、ただ冷めた目で消えかけた娘を見下ろしている。
一方の村人たちも、眼前に浮かんだ「回復不能」の文字を前に、それ以上助ける方法を探そうとはしなかった。
「……せめて、屋根のあるところへ運んでやろう」
エルドが沈痛な声で呟く。
「このまま森で死なせるのは、あまりにも可哀想だ」
誰も異論を唱えなかった。
娘はその傍らに落ちていた小さな手荷物とともに、村外れにある空き家の粗末な寝台へ運び込まれることになった。
夜の帳が降りる頃には、集まっていた村人たちも「自分たちには何もできない」と悟ったように、一人、また一人と沈痛な面持ちで家へ戻っていった。
残ったのは、ネロとラダだけだった。
◇ ◇ ◇
深い夜が小さな空き家を包み込み、粗末な机の上に置かれたランプだけが、頼りない油火を揺らしていた。
寝台へ横たわる娘の呼吸は昼間よりもさらに浅く、胸元が僅かに上下していることで、辛うじてまだ命が残っていることが分かるほどだった。
指先と足先から始まった透明化は、すでに両腕から肩近くまで、両脚も膝を越えて太腿の辺りまで侵食している。このまま進めば、夜明けを待つことなく全身が完全に輪郭を失い、空気の中へ消えてしまうのではないかと思えるほど、その存在は希薄になっていた。
ネロの脳裏には、夕方に見たステータス表示が何度も蘇っていた。
【特記事項:回復不能/治癒効果無効】
神が定めた絶対的な情報として、その文字はあまりにも冷酷にはっきりと表示されていた。
「ネロ様……この方、本当に消えてしまいます……。何か、何か私にできることはないのでしょうか……?」
ラダは娘の傍らに座り込み、透けかけた手を両手で包みながら、自分の体温を分け与えようとしていた。
だが、透明化が進んだ部分では、ラダの指先さえ娘の身体へ僅かに沈み込んでしまう。そのたびにラダは泣きそうな顔をしながら、それでも手を離そうとはしなかった。
「待って。まだ諦めないで」
ネロは腰元の横笛へ手を伸ばした。
村人たちは諦めた。
ステータスも「回復不能」と告げている。
モヒーニカさえ、この娘は助からないと言った。
それでも、目の前で確かに息をしている人間を、表示された文字だけを理由に見捨てることなど、ネロにはできなかった。
横笛を唇へ運び、これまで自分が使ってきた調律へ黄金の神気を巡らせる。
「……お願いだ」
傷ついた身体を癒やすよう願いながら、静かに息を吹き込んだ。
しかし、結果はステータスに表示されていた通りだった。
笛から溢れた神聖な黄金の光は、娘の身体へ吸収されることなく胸元を素通りし、そのまま背後の壁へ消えていく。
回復の調律も、生命力を整える音律も、まるで最初からそこに人間など存在していないかのように何の反応も示さなかった。
(神の力が……本当に届かない……?)
ネロは笛を握り締めながら、唇を噛んだ。
モヒーニカも、ステータスも、この娘を「救えない」と告げている。
だが、まだ呼吸はある。
まだ心臓は動いている。
目の前に確かに生きている人間がいるというのに、世界の側が勝手に「もう助からない」と決めているのだとしたら、そんなものをどうして黙って受け入れなければならないのか。
(そんなの……おかしいだろ。まだこの人は生きてるんだ。生きようとしてるんだ……!)
強く歯噛みした瞬間、ネロの脳裏へ、前夜に見た光景が鮮明に蘇った。
未明の星空の下、一人で横笛を吹いた時に生まれた、いつもの調律とは異なる奇妙な音。そして、夢の中の宮殿で自分が奏でていた、風や大気の脈動そのものへ触れるような奔放な旋律。
さらにその記憶へ重なるようにして、魔族との戦いを終えたあと、ジナが残していった言葉が蘇ってくる。
『あいつらが押しつけてくる、耳障りのいい「調和」をなぞるな。世界の歪み、神が隠している綻び……その狂った旋律にこそ、耳を澄ませろ』
そして、もう一つ。
『調律ってのはな、敷かれた譜面に従って綺麗に鳴らすことじゃない。狂った音を暴き出し、己の音で塗り替えることだ』
その言葉の意味を、ネロはこれまで完全には理解できていなかった。
だが、目の前で一人の人間が世界そのものから消されようとしている今なら、ほんの少しだけ分かる気がした。
「……ラダ」
突然名前を呼ばれ、娘の手を握っていたラダが顔を上げる。
「ネロ様……?」
「僕、昨日の夜に不思議な夢を見たんだ。その夢の中で、僕自身が笛を吹いていた」
「夢の中で……ですか?」
「うん。その音がね、神様の力を使って吹いている今までの調律とは、全然違ってたんだ」
言いながら、ネロの脳裏には沐浴池で戯れていた女性たちや、その着替えを風で木の上へ飛ばしてしまった自分の姿まで蘇り、頬が思わず熱を帯びた。
今はそんなことを考えている場合ではないと、慌ててその部分だけを頭の奥へ追いやる。
「すごく奔放で、荒削りで、綺麗に整った音でもなかった。でも、風や大地そのものが、その笛の音に応えてくれているみたいだったんだ。昨日の夜に同じ音を試した時も、魔力も神気も使っていないのに、周りの草が音に反応した」
ラダは驚いたように目を見開いた。
「そんなことが……」
「ジナが言ってた。神様たちが決めた綺麗な『調和』をなぞるんじゃなくて、世界の歪んだ音を聞いて、それを自分の音で塗り替えろって」
ネロは腰元から使い古した木製の横笛を取り出し、その表面へ刻まれた細かな傷を指先でなぞった。
「神様の奇跡がこの人に届かないなら……今度は、神様の力じゃなくて、僕自身の音でやってみる」
「ネロ様……」
「うまくいくかは分からない。でも、このまま何もしないで消えていくのを見ているだけなんて、僕にはできないよ」
ラダは一瞬だけ寝台の娘へ視線を落としたあと、迷いのない表情でネロへ向き直った。
「……はい。お願いします。この方を、助けてあげてください」
ネロは静かに頷くと、寝台の傍らへ立ち、横笛を唇へ運んだ。
目を閉じ、肺の奥まで深く息を吸い込む。
だが、いつものように黄金の神気を練り上げることはしなかった。
意識を向けたのは、目の前の娘の身体でも、モヒーニカから教えられた神聖な調律でもない。
透明化していく肉体の奥で、何が起きているのか。娘の存在をこの世界から削り取り、輪郭を奪い、どこかへ引きずり込もうとしているものがあるのなら、その「音」を聞き取らなければならない。
昨日の夜に掴みかけた不協和音の感覚を思い出しながら、ネロは自分の呼吸を横笛へと流し込んだ。
フゥゥ……。
木製の横笛から漏れ出したのは、これまでのネロが奏でてきたものとは明らかに異なる旋律だった。
ピィ……キィィィン……ギギィ……。
それは、ただ美しく整えられた音楽ではない。音程は僅かに濁り、時折耳へ引っ掛かるような不協和音が混ざり、聞く者を安心させるよりも、むしろ世界の奥底に隠されていた亀裂を暴き出すような荒々しさを孕んでいる。
しかし、ネロにはその濁った響きの奥に、今まで聞こえなかった別の「音」が少しずつ姿を現していくのが分かった。
部屋を満たした旋律に呼応してランプの炎が青白く揺れ、床板から壁、天井へと微かな振動が走っていく。やがて寝台の周囲の空気そのものが水面のように揺らぎ始めると、ラダは目の前で起きている異変に息を呑んだ。
「ネロ様……空気が……」
ネロには、もうラダの声さえほとんど聞こえていなかった。
意識のすべてを、娘を取り巻く異様な波長へ集中させている。
そこでようやく気づいた。
壊れているのは、娘の肉体そのものではない。
彼女の身体には、外側から別の「音」が重ねられている。
まるでその存在を少しずつ現実から遠ざけるかのような、冷たく機械的な響きが身体の輪郭へまとわりつき、ネロが奏でる旋律と激しく軋み合っていた。
(これが……この人を消そうとしている音なのか……?)
ネロの指先が、ゆっくりと動いた。
それまでなら、乱れた音を美しく整え、全体の流れへ馴染ませることこそが「調律」だと思っていた。
だが今は違う。
目の前に存在する歪みを、与えられた譜面へ無理に従わせる必要などない。もしも、その譜面そのものが目の前の人間を苦しめているのなら、自分が合わせるべきなのはそちらではない。
ネロは娘の輪郭へまとわりつく冷たい旋律へ自らの音を重ね、その波長を感じ取りながら、一音ずつ異なる響きへと組み替えていった。
それは、今まで彼が行ってきた調律とは明らかに違っていた。
自分の耳で歪みを見つけ、自分の意思でその音を選び、目の前の命を繋ぎ止めるために、新しい旋律をその場で組み上げていく。
やがて二つの音が激しく衝突し、大気そのものが限界まで張り詰めた、その瞬間。
キィィィィィィィン――ッ!!
甲高い硬質な音が部屋中へ響き渡った。
ラダが反射的に耳を押さえる中、娘の身体を覆っていた半透明の境界へ細かな亀裂が一斉に走り始める。それまで肉体へぴたりと張りついていた透明な膜は、無数の破片となって砕け散ると、淡い光を放ちながら空中へ溶けていった。
直後、娘の胸が大きく脈打った。
ドクンッ――!
長い間忘れていた呼吸を思い出したかのように身体が小さく跳ね、透けていた指先へ赤い血潮が勢いよく戻り始める。
足先から膝へ、指先から腕へと、希薄になっていた肉体の輪郭が逆再生されるように色を取り戻していき、青白かった頬にも少しずつ生気が戻っていった。
「……息が、戻ってきています!」
ラダは震える声を上げながら、恐る恐る娘の手を握り直した。
今度は、指先が身体をすり抜けることはなかった。
確かな肉の感触と温もり、そして手首の奥から伝わってくる規則正しい脈動を感じ取った瞬間、ラダの表情がくしゃりと歪んだ。
「触れます……! ネロ様、この方……ちゃんとここにいます!」
「……よかった」
ネロは横笛を口元から離すと、全身から一気に力が抜け、その場へ崩れるように膝をついた。
「はぁ……っ、はぁ……」
額からは冷たい汗が流れ落ち、指先も細かく震えている。
これまで黄金の神気を使った時とは、疲労の質がまるで違っていた。身体の中にある魔力を使い果たしたというより、自分より遥かに巨大な何かへ全身で抗い、世界そのものと力比べをしたあとのような、重く深い消耗だった。
それでも、顔を上げたネロの目に映ったのは、もう消えかけてはいない、一人の人間だった。
寝台の上で静かな寝息を立てる娘の頬には確かな血色が戻り、胸もゆっくりとした規則正しい呼吸に合わせて上下している。
その時、ラダが何かを思い出したように顔を上げた。
「ネロ様……ステータスは……?」
「……あ」
ネロも息を整えながら、寝台の娘へ視線を向ける。
つい先ほどまで、そこには神の定めた絶対の宣告として「回復不能」の文字が浮かんでいた。
もし本当に彼女が助かったのなら――。
ネロとラダは互いに顔を見合わせ、ほとんど同時に口を開いた。
「ステータス・オープン」
二人の視界へ、淡い光とともに半透明の表示が浮かび上がる。
そして、そこに現れた内容を目にした瞬間、ネロは思わず息を止めた。
【個体識別:ルミナ】
・Lv.3 ジョブ[貴族令嬢]
・HP:5/40(回復傾向)
・特記事項:特になし
「……名前が、出てる」
ネロは呆然と呟いた。
先ほどまでは「識別不能」と表示され、レベルもジョブも最大HPさえ読み取ることができなかった。それが今では、まるで何事もなかったかのように正常な情報として表示されている。
「ルミナ……様、という方なのですね」
ラダも驚きを隠せないまま、寝台へ眠る娘――ルミナを見つめた。
だが、二人が何よりも目を奪われたのは、名前でもジョブでもなかった。
「……ない」
ラダの声が震えた。
「ネロ様……『回復不能』が、なくなっています」
「うん……」
HPは僅か五しか残っていない。
それでも、その横にははっきりと「回復傾向」と記されている。
そして先ほどまで特記事項へ刻まれていたはずの「回復不能」「治癒効果無効」という冷酷な文字は、跡形もなく消えていた。
代わりに表示されているのは、あまりにも簡潔な一文だけだった。
【特記事項:特になし】
ネロは自分の手に握られた木製の横笛を見下ろした。
(……変わった)
ほんの数時間前まで、ステータスはこの人を「回復不能」だと断定していた。
村人たちはその表示を見て諦め、モヒーニカもまた、助けることはできないと言った。
それなのに、自分が神の力へ頼らず、あの奔放な旋律で冷たい音を塗り替えた途端――ステータスの方が変わった。
(ステータスに書かれていることって……絶対じゃないのか?)
胸の奥に、新たな疑問が静かに生まれた。
これまでこの世界の誰もが、ステータスは神によって与えられた絶対の真実なのだと信じてきた。
ネロ自身も、レベル0と表示された数字のせいで、自分には何の価値もないのだと思い込んできた。
だが今、目の前でその「絶対」が覆った。
ステータスに従って現実が決まるのではなく、現実が変わればステータスの方が後から変わるのだとしたら――。
ネロはそこまで考えかけたものの、今は答えを出すことができなかった。
ただ一つだけ確かなのは、寝台の上の娘が生きているということだった。
ネロの口元へ、ようやく心からの安堵が滲んだ。
「本当に……助かったんだね」
「はい……!」
ラダの琥珀色の瞳から、ずっと堪えていた涙がぽろりと零れ落ちた。
「よかった……本当によかったです。この方が、消えてしまわなくて……」
ラダはルミナの手を両手で包み込み、そこに戻ってきた温もりを確かめるように、そっと自分の胸元へ引き寄せた。
「怖かったでしょうね……。一人でここまで来て、身体まで消えかけて……。でも、もう大丈夫です。ちゃんと、生きていますから……」
眠ったままのルミナへ語りかけるラダの声を聞きながら、ネロも静かに頷いた。
二人はしばらく何も言わず、ランプの小さな炎が揺れる中で、ルミナの穏やかな寝息だけを聞いていた。
部屋の片隅では、月明かりさえ届かない闇の奥から、女神モヒーニカが二人の様子を黙って見つめていた。
ネロにもラダにも気づかれぬまま現れたモヒーニカの顔には、先ほどまで彼へ向けていた慈愛に満ちた微笑みなど、もはや欠片も残されていない。その藍色の双眸は寝台のルミナではなく、疲労によって膝をつきながら横笛を握り締めているネロへと、真っ直ぐに向けられていた。
(……今の音は……?)
女神の指先が、本人さえ気づかぬほど僅かに震えた。
目の前で起きた出来事を理解できていないわけではなかった。むしろモヒーニカだけが、その異常さを誰よりも深く理解しているからこそ、いつもの余裕に満ちた微笑みを取り戻せずにいた。
(あり得ない……。この子は、まだ何も知らないはず……。それなのに、どうして……)
藍色の双眸が細められ、モヒーニカの視線がネロの手に握られた粗末な木製の横笛へと吸い寄せられていく。
(まさか……もう、気づき始めているというのですか……?)
その先に続く言葉を、モヒーニカは胸の内でさえ口にしなかった。
ただ、微かに震えていた指先をゆっくりと握り締め、何かを確かめるようにネロを見つめ続ける。その眼差しに先ほどまでの慈愛はなく、自らの知らぬところで少年が何かへ近づき始めたことへの深い猜疑と警戒だけが、冷たい影となって浮かんでいた。
そしてやがて、その奥にもう一つ、これまでネロへ向けられたことのない感情が静かに滲み出していく。
それは、愛しい我が子を見守る女神のものとは到底思えないほど、冷たく鋭い光だった。




