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第23話 消えなかった少女

東の空が白み始め、夜の闇を薄青い黎明が溶かし始めた頃、静まり返っていた空き家の寝台から微かな身動ぎの音が響いた。


「……ん……っ……」


閉ざされていた娘の瞼が僅かに震え、ゆっくりと持ち上がる。


窓から差し込む清らかな朝の光を浴びながら何度か瞬きを繰り返した彼女は、やがて自らの両手を目の前へ持ち上げると、大きく息を呑んだ。


昨夜まで陽炎のように透け、その向こうに床板や枯れ草さえ見えていた指先。それが今は健康的な桜色の血潮を宿し、確かな質量と温もりを取り戻している。


「私……生きてる……?」


「気がついたかい?」


穏やかな声に導かれ、娘が枕元へ視線を向ける。


そこには心配そうに顔を覗き込むネロと、湯気の立つ木製のカップを両手で持ったラダの姿があった。その少し向こうの壁際には、森で彼女とともに見つかった、小さな布製の手荷物が置かれている。


「ここは……?」


「森の奥にある、小さな隠れ里だよ。森の入り口で倒れていた君を、村のみんなで見つけて運んだんだ」


「白湯をどうぞ。まだ身体が冷えているでしょうから……」


ラダが優しく差し出したカップを、娘は震える両手で受け取った。


恐る恐る口元へ運び、湯気の立つ白湯を一口啜る。五臓六腑へ染み渡っていく温もりを感じた瞬間、彼女の青みがかった瞳から大粒の涙が溢れ出した。


「ありがとうございます……。私、もう二度と目が覚めないものとばかり思っておりました……」


「無理に話さなくてもいいよ。まだ身体も弱ってるんだから」


「いえ……お二人には、お話ししておきたいのです」


娘は何度か息を整えると、カップを胸元で抱えながら深く頭を下げた。


「まだきちんとご挨拶もできておりませんでしたね。改めまして……私はルミナと申します」


「ルミナさん、か。僕はネロ。それで、こっちはラダだよ」


「よろしくお願いします、ルミナさん」


「はい……。ネロ様、ラダ様。本当に、ありがとうございます」


そうして少しずつ落ち着きを取り戻したルミナが語り始めたのは、あまりにも理不尽で冷酷な追放の顛末だった。


彼女は王都の大貴族、オルガン伯爵家の若奥方だったという。


政略結婚によって伯爵家へ嫁ぎ、それ以来、妻として懸命に家を支えてきた。しかし二十歳を迎えた今年、男子の世継ぎを一人も産めなかったことを理由に、突如として夫から離縁状を叩きつけられたのだという。


持参金も、実家から与えられていた権利もすべて取り上げられ、わずかな替えの衣類や身の回り品を詰めた小さな手荷物だけを持たされて、屋敷から追い出された。


「『二十歳を過ぎても男子を産めぬ女など、ただの飯食い虫の穀潰しだ』と……そう言われました」


ルミナは震える指先でカップを握り締めた。


「最低限の荷物だけを渡されて、屋敷の門から追い出されました。行く場所も、頼れる方もなくて……どこへ行けばいいのかも分からないまま、ただ街道を歩き続けていたんです」


「それで……この森に?」


「はい。何日歩いたのかも、途中から分からなくなってしまって……。気がつけば街道を外れ、この森へ迷い込んでいました」


その時のことを思い出したのか、ルミナの顔から徐々に血の気が引いていく。


「最初は、指先が冷たくなっただけでした。でも、しばらくすると感覚そのものがなくなって……自分の手を見たら、向こう側が透けていたんです」


ルミナの両手が小さく震えた。


「歩こうとしても足に力が入らなくなって……身体も、持っていた荷物も重く感じて、とうとう歩けなくなりました。最後には、自分が少しずつこの世界から消えていくような感覚だけが残って……そこから先は、もう何も覚えておりません」


その告白を聞いた瞬間、ネロの胸の奥で、かつてギルドの冷たい床へ置き去りにされた自分自身の痛みが激しく共鳴した。


役に立たないと判断された瞬間、それまで共に歩いてきた者たちから不要の烙印を押され、まるで価値のないゴミのように捨てられたあの日。


理由も境遇も違う。


それでも、自分にはもう価値がないと一方的に決めつけられ、居場所も未来も奪われる苦しさだけは、ネロにも嫌というほど理解できた。


「酷すぎるよ……。そんな勝手な理由だけで、全部奪って追い出すなんて」


ネロは膝の上で拳を強く握り締め、静かにルミナを見つめた。


「ルミナさん。もし、行く当てがないなら……僕たちと一緒に、この村で暮らさないかい?」


「え……?」


「ここは外の街から離れていて、僕もラダも最近住み始めたばかりなんだ。少なくとも、誰かのステータスや出自だけを見て追い出したりする人はいないよ」


突然の申し出に、ルミナは目を見開いた。


「で、ですが……私のような厄介者を、これ以上お二人にまで……」


「厄介者だなんて思わないでください」


ラダがすぐに首を横へ振り、ルミナの手へそっと自分の手を重ねた。


「私も、ネロ様に救っていただいた身です。少し前まで、自分にはどこにも居場所なんてないと思っていました」


「ラダさん……」


「でも、この村へ来て、少しずつ普通に笑えるようになりました。だからルミナさんも……もし行く場所がないのなら、一緒に暮らしましょう」


ラダは柔らかな笑みを浮かべる。


「ここは、本当に静かで優しい場所ですから」


その言葉を聞いたネロの胸を、ほんの一瞬だけ昨日から抱えている違和感が掠めた。


ジナを見た途端に豹変した村人たち。そして、歳を重ねた女性がどこにも存在しないという奇妙な世界の偏り。


それでも今、目の前で泣いているルミナを再び一人きりにするという選択肢は、ネロには到底選べなかった。


二人から向けられた真心に触れ、ルミナは唇を震わせた末、再び大粒の涙を零しながら何度も深く頭を下げた。


「……ありがとうございます。本当に……ありがとうございます……!」


◇ ◇ ◇


陽がすっかり昇りきった頃、ネロとラダはまだ歩行のおぼつかないルミナの両側から肩を支え、村の中央広場へと向かった。


昨夜、消えかけていた彼女を森から運び込んでくれた村人たちへ、無事に意識を取り戻したことを知らせるためだった。


広場では朝の仕事を始めた農夫たちが鍬を担ぎ、若い娘たちが籠を手に畑と家々の間を行き来していた。


しかし、ネロたちに付き添われながら歩いてくるルミナの姿を視界に捉えた瞬間、村人たちの動きが一斉に止まった。


「な……なんだってぇ!?」


老農夫エルドが目を丸くし、手にしていた鍬を取り落としそうになる。


「あ、あの娘……昨夜は身体が透けて、プリーストの治癒魔法すら全部すり抜けていたはずじゃ……!」


「今夜を越せないって、みんなで諦めていたのに……。顔色もすっかり良くなって、自分の足で歩いているなんて……!」


広場のあちこちから驚愕の声が上がり、信じられないものを見るようなどよめきが広がっていく。


「僕の笛で、いろいろ試してみたんです。それで……なんとか、身体が元に戻ってくれて」


ネロが少し照れくさそうに説明すると、村人たちは一様に息を呑み、まるで奇跡を目撃したかのような畏敬の眼差しを向けてきた。


「ネロさん……あんたの力は、本当に神がかっているな……!」


「治癒魔法すら届かなかった人を呼び戻すなんて、やっぱりあんたは本物の英雄様だよ!」


次々と浴びせられる賞賛に、ネロは曖昧な笑みを浮かべた。


昨夜、自分が使った力はむしろ神の力を使わないよう意識して奏でたものだっただけに、「神がかっている」という言葉には妙な引っかかりを覚えたものの、今ここで説明できるほど自分自身もあの音の正体を理解してはいない。


ルミナがこの村へ留まりたいと考えていることを伝えると、村人たちはさらにあっさりと受け入れた。


「ネロさんが命を救った人なら大歓迎だ!」


「空き家ならまだあるし、畑の仕事だって教えてやるよ。何も心配しなくていい!」


口々に温かな声を掛けられ、ルミナは驚いたように周囲を見回したあと、胸元へ手を添えて深く頭を下げた。


「ありがとうございます……。こんな私を受け入れてくださって、本当に……」


王都を追われ、身体さえ消えかけていた女性を、村人たちは何の抵抗もなく迎え入れている。


少なくとも今この瞬間だけを見れば、ここはやはり、傷ついた者が新しい人生を始められる穏やかな村にしか見えなかった。


◇ ◇ ◇


そして、翌朝。


十分な休息を取り、すっかり体力を取り戻したルミナは、昨日まで寝込んでいたとは思えないほど生き生きとした表情で、早朝から台所に立っていた。


「ネロ様、ラダさん、おはようございます。粗末なものですが、朝食のご用意ができました」


「えっ……これ、ルミナさんが全部?」


小さな食卓には、こんがりと焼き上げられたライ麦パンと、裏庭で採れた野菜をふんだんに使った温かなスープ、そして湯気を立てる陶器のカップが並べられている。


伯爵家で身につけたのだろう洗練された礼儀作法と手際の良さは目を見張るものがあり、いつの間に済ませたのか、室内まで綺麗に掃き清められていた。


竈から漂う料理の香りに混じって、どこか爽やかな香草の匂いが部屋を満たしている。


「うわぁ……! ルミナさん、無理しなくてよかったのに」


「いいえ。命を救っていただいたのですから、これくらいはさせてくださいませ。何もしないでお世話になっている方が、私には落ち着きませんもの」


ルミナはそう言って微笑み、ネロへカップを差し出した。


「さあ、冷めないうちにどうぞ」


ネロが恐る恐る一口含むと、芳醇で深みのある茶葉の香りが口いっぱいに広がった。


「すごく美味しい……! こんなに香りのいい紅茶、僕、初めて飲んだよ」


「ふふ、お口に合って良かったです。王都にいた頃、淹れ方だけは厳しく仕込まれましたので」


ルミナがはにかむように微笑むと、隣でスープを口へ運んでいたラダも嬉しそうに瞳を輝かせた。


「本当に美味しいです! ルミナさん、後で私にも淹れ方を教えていただけますか?」


「ええ、喜んで。ラダさんの淹れるお茶も、きっと美味しくなりますわ」


「ありがとうございます!」


楽しそうに言葉を交わす二人を眺めているうちに、ネロの胸にも自然と温かな安らぎが広がっていった。


昨日まで、死にかけていた人間が目の前で笑っている。


ラダにも新しく話し相手ができたらしく、いつになく楽しそうだ。


ここ数日、世界の歪みや神々への疑問ばかりを考え続けていたネロにとって、その何気ない朝食の風景は、久しく忘れていたほど穏やかなものだった。


その時、ネロの視界の端で白銀と黄金の燐光がふわりと舞った。


天井近くの空間が微かに揺らぎ、そこから薄絹を纏った少女の姿をした女神モヒーニカが音もなく現れる。


もちろん、その姿を捉えることができるのも、続いて聞こえてきた声を認識できるのも、ネロただ一人だけだった。


いつもの神秘的で慈愛に満ちた佇まいとは打って変わり、モヒーニカは両腕を胸の前で固く組み、白い頬をこれ見よがしに膨らませていた。


藍色の瞳が、ルミナと楽しげに話しているネロへじっと向けられている。


(……あれ? なんか、すごく怒ってる……?)


ネロが嫌な予感を覚えた直後、モヒーニカは音もなく宙を滑ると、ネロとルミナの間へ割って入るように降りてきた。


そのままネロの視界いっぱいに顔を寄せ、不満を隠そうともせず唇を尖らせる。


「……ネロ。貴方は少々、お人が良すぎるのではなくて?」


「ぶっ……!?」


不意に目の前へ現れた女神に驚き、ネロは口へ含んでいた紅茶を危うく噴き出しかけた。


「ごほっ、ごほっ……!」


「ネ、ネロ様!? 大丈夫ですか!?」


「申し訳ありません! お茶が熱すぎましたでしょうか……!?」


ラダとルミナが慌てて立ち上がり、それぞれ心配そうにネロへ駆け寄ってくる。


二人の目には当然、目の前を塞ぐように浮かんでいるモヒーニカの姿など映っていない。ただ突然何もない空間を見つめた直後、紅茶にむせ始めたネロが見えているだけだった。


「だ、大丈夫! ちょっと変なところに入っただけだから……!」


ネロは二人を安心させるように手を振り、それから自分にしか見えない女神へ恨めしそうな視線を向けた。


モヒーニカはそんなラダたちの心配など意にも介さず、ネロの鼻先へ人差し指を突きつける。


「あの不吉な黒髪のエルフを拾っただけでは飽き足らず、今度は貴族に捨てられたような余り物の女まで拾い集めるおつもり? この私という唯一無二の導き手がいながら、まあ……ずいぶんと目移りばかりなさる不敬な勇者様ですこと」


ネロは思わず眉を寄せた。


昨日の夜、暗闇の中で自分を見つめていたモヒーニカの冷たい眼差しなど、ネロは知る由もない。


今、彼の目の前にいるのは、自分以外の少女が増えたことへあからさまな嫉妬と独占欲を剥き出しにし、子供のように頬を膨らませている、いつもの少し困った女神だった。


ラダたちに怪しまれないよう、ネロはカップへ顔を近づけるふりをしながら、声を潜めた。


「……そんな言い方ないだろ。困ってる人を助けただけだよ」


「まあ!」


モヒーニカの藍色の瞳がさらに吊り上がる。


「私より、あの女の肩を持つというのですか?」


「そういう意味じゃなくて……」


「知りませんわ! もうネロのお顔など見て差し上げません!」


「えぇ……」


モヒーニカは大袈裟なほど勢いよく顔を背けると、ふん、と鼻を鳴らした。


そのままネロが何か言い返す暇すら与えず、全身を包んだ白銀と黄金の燐光とともに光の粒子へ変わり、煙のように空気の中へ掻き消えていく。


「……あ、行っちゃった」


ネロは呆気に取られながら、女神が消えた空間を見つめた。


「ネロ様?」


ラダが首を傾げる。


彼女はこれまでにも何度か同じ光景を見ているため、少し考えたところで事情を察したらしい。


「あの……もしかして、モヒーニカ様がいらしていたのですか?」


「あ……うん。そうなんだ」


「やっぱり……」


ラダは納得したように小さく頷いたが、事情を知らないルミナだけはネロとラダを交互に見つめ、困惑した表情を浮かべていた。


「モヒーニカ……様?」


「ああ、ごめん。えっと……僕にしか姿と声を感じられない女神様がいるんだ」


「ネロ様にしか……?」


「うん。話すとちょっと長くなるんだけど……僕が一度死にかけた時に助けてくれた人なんだ」


突然の話にルミナは目を丸くしたものの、ネロが冗談を言っている様子ではないと分かると、それ以上深く追及することはしなかった。


一方のラダは、モヒーニカが何を言っていたのかまでは分からないまま、先ほどから少し困ったように笑っているネロの横顔を静かに見つめていた。


ネロ自身も、女神のあまりに子供じみた不機嫌さに困惑しながら、小さく肩をすくめる。


ほんの少し前まで胸へ重くのしかかっていた、女性たちの消失や世界の理に対する疑惑。


昨日モヒーニカへ問いを投げかけた時に一瞬だけ目にした、温度のない藍色の瞳。


その違和感は決して消えたわけではなかった。


それでも、頬を膨らませて拗ね、嫉妬を隠そうともしない少女のような姿を見せられると、そんな彼女が自分を欺くほど恐ろしい何かを隠しているのだという考えに、ネロ自身がどこか現実味を持てなくなってしまう。


穏やかな朝食の香りと、ラダとルミナの楽しげな会話。そして、先ほどまで目の前で子供のように拗ねていた女神の姿が、張り詰め続けていたネロの心を少しずつ日常へ引き戻していく。


胸に残る疑念は答えを得ないまま、再び薄い膜を被せられるように、ネロの意識の奥へと静かに沈んでいった。

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