第24話 見えない糸
正午の濃密な陽光が真上から照りつける村の入り口に、突如として地鳴りのような重低音が響き渡った。
乾いた大地を無慈悲に踏み砕く、幾重もの蹄の轟音。
盆地を取り囲む鬱蒼とした原生林の境界を押し分け、巻き上がる黄塵の向こうから姿を現したのは、鈍色に光る重装板金鎧に身を包んだ十数騎の騎兵隊だった。
駿馬の轡からは荒い吐息が吹き上がり、風にはためく隊旗には、王都の有力貴族――オルガン伯爵家の紋章である「絡み合う双頭の毒蛇」が、鮮血を思わせる赤漆によって刻み込まれている。
「な、何事だ……!? 王都の正規騎士団が、なぜこんな場所に……!」
「逃げろ! 早く子どもたちを家の中へ!」
畑の手入れをしていた農夫たちが鍬を取り落とし、広場で遊んでいた幼い少女たちを抱え上げて、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
隊長とおぼしき筋骨隆々の重騎士は、馬首を強引に巡らせて広場の中央へ進み出ると、鞘から引き抜いた幅広の大剣の切っ先を、怯える村人たちの眼前へ突きつけた。
「静まれ、辺境の下民ども! 我らはオルガン伯爵家直属、秩序執行騎士隊である! 我が主の命を受け、屋敷より逃走した重罪人――元夫人ルミナを捕縛し、その『処分』を執行するために参った!」
冷酷極まりない宣告が、静寂を取り戻しかけていた盆地へ雷鳴のごとく叩きつけられる。
騎士隊長は馬上で嘲笑を浮かべ、兜の隙間から覗く下卑た視線を、周囲の素朴な家々へ這わせた。
「世継ぎの男子を一人も産めず、家名を汚した末に追い出された身でありながら、浅ましくも生き延びて外界を彷徨うなど、伯爵家に対する許されざる反逆である! 閣下の名誉を守るため、その命をここで断たねばならん!」
大剣を振り上げ、騎士隊長はさらに怒声を張り上げる。
「匿っているなら即刻引き渡せ! 拒むのであれば、この村ごと反逆の共犯として焼き払うぞ!」
その怒号は、村外れに建つネロたちの木造家屋にまで明瞭に届いていた。
「……っ……! あ、あの方たちは……伯爵様の……」
淹れたての紅茶を運ぼうとしていたルミナの手から、陶器のカップが滑り落ちた。
乾いた音とともに破片が板張りの床へ飛び散り、淡い琥珀色の液体が足元へ広がっていく。血の気が一瞬にして引き、唇を細かくわななかせたルミナの身体が、凍てつく吹雪に晒された小鳥のように激しく震え始めた。
「私のせいです……。私が、この村に厄災を連れてきてしまった……!」
「ルミナさん……」
「私が投降します……! 私の首を差し出せば、村の皆さんを巻き込まずに済むはずですから……!」
罪悪感と絶望に押し潰され、ルミナはその場にへたり込むと、両手で顔を覆って咽び泣いた。
だが、その怯えきった姿を見つめるネロの胸には、怒りとは別に、冷たい違和感が渦巻いていた。
(……おかしい)
ルミナの話では、持参金も実家から与えられていた権利もすべて奪われ、わずかな替えの衣類や身の回り品を詰めた小さな手荷物だけを持たされて、屋敷から追い出されたという。
金も権力もなく、頼れる相手さえいない女性を外界へ放逐したのであれば、伯爵家にとってはそれですべてが終わったはずだ。あとは野垂れ死のうが、どこかで細々と生きようが、わざわざ追跡する必要などない。
それなのに今、オルガン伯爵は正規の騎士隊まで動員し、王都から遠く離れた辺境にまで追手を差し向けている。
しかも目的は連れ戻すことではない。
確実に殺すことだった。
(どうして……? 全部奪って追い出した相手を、なんでわざわざ探し出してまで処刑しなきゃいけないんだ?)
単なる貴族の体面や面汚しへの報復という言葉だけでは片づけられない、異様で病的な執念を感じる。
だが、理由が何であろうと、目の前で怯えるルミナに罪がないことだけは確かだった。
理不尽な悪意の濁流が、ようやく生き延びた一人の女性の命を再び奪おうとしている。その事実が、ネロの胸の奥へ静かに怒りの火を灯した。
「ルミナさん」
ネロは静かに膝をつき、震えている彼女の華奢な肩へそっと掌を置いた。
「君は、何一つ悪いことなんてしていない」
「でも……私がここに来たから……」
「違うよ」
ネロははっきりと否定し、涙に濡れたルミナの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「すべてを奪って追い出しておいて、その上わざわざ命まで奪いに来るあいつらの方が、絶対に狂ってる。だから、ルミナさんが自分を差し出す必要なんてない」
少年の碧眼には、いつもの穏やかな光とともに、研ぎ澄まされた刃のような決意が宿っていた。
ネロはゆっくりと立ち上がると、腰の革帯から使い古された木製の横笛を抜き取る。
「ここにいて。ラダ、ルミナさんをお願い」
「はい、ネロ様……!」
ラダがしっかりとルミナを抱き寄せ、その背中を優しく擦るのを見届けると、ネロは迷いのない足取りで扉を押し開け、白日の下へ歩み出した。
◇ ◇ ◇
広場を威圧するように取り囲む重装騎兵たちの前へ、粗末な旅装束を纏った少年が一人、静かに姿を現した。
その姿を一瞥した瞬間、馬上から見下ろしていた騎士隊長は、侮蔑を隠そうともせず鼻を鳴らす。
「おいおい、なんだその貧相なガキは。村の代表のつもりか?」
騎士隊長はネロの腰元を見て、さらに嘲笑を深めた。
「剣も差さず、小枝みたいな笛なんぞ握り締めて……命乞いの芸でも披露して、小銭でも恵んでもらうつもりか?」
周囲の騎士たちから、下品な哄笑がどっと沸き起こった。
だが、ネロは嘲弄の嵐を受けても何一つ言い返さず、ただ研ぎ澄まされた碧眼で騎士隊長を見つめていた。
その静かすぎる眼差しに何かを感じ取ったのか、やがて騎士たちの笑い声が一人、また一人と途切れていく。
「……返答もできん愚図か」
騎士隊長の口元が苛立たしげに歪んだ。
「目障りだ。馬蹄の塵にしてくれるわ! 者ども、踏み潰せ!」
号令一下、先頭の三騎が一斉に抜刀し、大地を蹴り立てながら突撃してきた。
鍛え上げられた軍馬の巨躯と、鋭利に磨かれた鋼鉄の大剣。人間一人なら跡形もなく肉塊へ変えかねない圧倒的な質量が、激しい砂煙を巻き上げながらネロの眼前へ迫る。
それでも、ネロの足は一歩たりとも引かなかった。
少年は静かに木製の横笛を唇へ運び、肺の奥深くまで息を吸い込んだ。
胸の内で思い浮かべるのは、昨夜ルミナの消えゆく身体を繋ぎ止めた時に掴み取った、あの奔放な旋律だった。
神から与えられた黄金の力へ頼るのではない。
迫り来る軍馬の蹄が大地へ伝える震動、大気を切り裂く剣の風圧、周囲に漂う魔素の揺らぎ。その一つ一つを「音」として捉え、今この状況に必要な響きを、その場で組み上げていく。
(この突進を……止める)
ネロの指が音孔の上を滑った。
ピィィィィン――ッ!!
空気を切り裂くような、極めて短く鋭利な一閃の音が鳴り響く。
その瞬間、横笛から放たれたのは、これまでのような黄金の神聖光ではなかった。
周囲の大気と魔素の振動が一瞬にして収束し、限界まで圧縮された不可視の衝撃波となって、ネロの正面へ扇状に解き放たれる。
ドガァァァァァァァァンッ!!
「な……ッ!?」
突進していた三騎の軍馬が、不可視の巨大な壁へ真正面から激突したかのように、その場で激しく跳ね上がった。
凄まじい圧力はそれだけでは収まらない。
扇状に広がった衝撃波の余波が後方へ控えていた重装騎士たちまで一気に呑み込み、分厚い鋼鉄の胸当てを大きく陥没させ、構えられていた盾を粉々に砕きながら、人馬もろとも後方へ吹き飛ばしていく。
「ぐぁああああッ!?」
「な、なんだこれは――ッ!」
十数騎の騎兵たちは数十メートル後方まで弾き飛ばされ、村の境界を囲んでいた丸太の外壁へ次々と叩きつけられた。
メキメキと鈍い音を立てて外壁がへし折れ、巻き上がった濛々たる土煙が広場一帯を覆い尽くす。
つい先ほどまで響いていた傲慢な哄笑は完全に消え失せ、代わりに聞こえてくるのは、砕けた鎧の中で呻きながら身を起こそうとする騎士たちの苦鳴だけだった。
「ひ、ヒィィッ……!? ば、化け物……ッ!」
辛うじて意識を保っていた騎士隊長は、胸当てを大きく砕かれ、全身を泥にまみれさせながら地面へ尻餅をついていた。
逃げようと後退する彼の前へ、濛々とした土煙を割るように静かな足音が近づいてくる。
やがて乾いた土を踏む音が目前で止まり、隊長が恐る恐る顔を上げると、そこには傷一つ負っていないネロの姿があった。
少年の手に握られた木製の横笛の先端では、圧縮された魔力が青白い刃のように細く揺らめいている。
それが寸分の狂いもなく隊長の喉元へ突きつけられ、皮膚を僅かに切り裂いた。喉仏を伝って、一筋の血が流れ落ちる。
「ひっ……た、助け……」
ネロはそこで、先ほどから胸に引っかかっていた疑問を静かに口にした。
「……持参金も、実家から与えられていた権利も全部奪って追い出したんだろ?」
「ひ……っ」
「最低限の荷物しか持たせずに放り出したなら、もう放っておけばいいはずだ。それなのに、どうしてわざわざ兵を出してまでルミナさんの命を奪おうとするんだ?」
低く冷ややかな問いかけを受け、騎士隊長は目を白黒させながら歯の根をガチガチと鳴らした。
「わ、私らは……閣下の命令に従っただけだ……!」
「命令?」
「そ、そうだ! 最初は追い出すだけで済ませるはずだったんだ! 俺たちだって、こんな山奥まで追いかけるなんて聞いてなかった!」
恐怖に突き動かされるまま、騎士隊長の口から言葉が次々と溢れ出していく。
「だが数日前から、閣下の様子が急におかしくなった……! 突然『あいつを生かしておいてはならない』『探し出して、何としても首を跳ねろ』と喚き始めたんだ! まるで何かに憑りつかれたみたいに、何度も何度も同じことを……!」
「数日前から……?」
ネロの瞳が僅かに細められた。
それは、ルミナが屋敷を追い出された後のことだ。
しかも騎士隊長の話を聞く限り、伯爵本人ですら、最初から彼女を殺すつもりだったわけではない。
何かが途中で変わった。
ネロは横笛の先端をほんの僅かに押し込み、怯える男へ最後に告げた。
「分かった。だったら、お前たちの伯爵に伝えておけ」
「な、何を……?」
「『ルミナさんは僕が守る。二度とこの村にも、彼女にも手を出すな』って」
「ひ、ヒィィッ……! わ、分かりました! 必ず伝えます! だから命だけは……命だけはご容赦をぉぉッ!」
騎士隊長は完全に戦意を失い、地面へ額を擦りつけながら必死に命乞いをした。
ネロが静かに横笛を引くと、隊長は転がるように立ち上がり、残った部下たちへ撤退を命じる。
騎士たちは砕けた武具を拾う余裕すらなく、負傷した仲間へ肩を貸し、動ける軍馬を引きながら、王都の方角へ向けて這々の体で逃げ去っていった。
濛々と立ち込めていた土煙も、やがて昼下がりの風に流され、少しずつ晴れていく。
「ネロ様……!」
声に振り返る。
家の中から恐る恐る出てきたルミナが、地面に散らばる砕けた武具と騎士たちの残した足跡、そしてその中央に傷一つなく佇むネロの姿を見た瞬間、大粒の涙を零しながら駆け寄ってきた。
「ネロ様……っ、私を……私のような者のために、あそこまで……!」
「ルミナさん」
胸元へ飛び込んできたルミナの身体を、ネロは優しく受け止めた。
涙に濡れた頬をそっと撫でながら、安心させるように柔らかな笑みを浮かべる。
「言っただろ。僕が守るって」
「……っ」
「もう大丈夫だよ、ルミナさん」
「ありがとうございます……! 本当に……ありがとうございます……!」
ルミナはネロの胸へ顔を埋め、長く堪えていたものを吐き出すように声を上げて泣いた。
その青みがかった瞳には、単なる命の恩人に対する感謝だけではなく、自分を二度も絶望の底から救い上げてくれた少年へ向ける、深い敬愛と信頼が宿っていた。
物陰から様子を窺っていた村人たちも、危険が去ったことを悟ると次々に広場へ戻ってくる。
「ネロさん万歳!」
「本当に神が遣わした英雄様だ!」
割れんばかりの歓声と拍手が、澄み渡った青空へ響き渡る。
ルミナが無事だったことを喜ぶラダも、少し離れた場所から安堵したように目を細め、二人の姿を見守っていた。
騎士隊は去り、ルミナも村人たちも誰一人として命を失わなかった。
ひとまず騒動は収まり、再び穏やかな日常が戻ってきたかのように見える。
しかし、歓喜の輪の中央に立ちながら、ネロの胸の奥には拭い去ることのできない二つの疑問が、先ほどよりも鮮明な形で残されていた。
一つは、騎士隊長が口走った伯爵の異変だった。
持参金も実家から与えられた権利もすべて奪い、最低限の衣類や身の回り品を詰めた小さな手荷物だけを持たせて放逐したのであれば、伯爵にとってルミナはすでに何の脅威にもならない存在だったはずだ。
それなのに、数日前から突然人が変わったように、彼女の「命を奪うこと」だけへ異常な執着を見せ始めたという。
(……どうして急に……?)
まるで、自分自身の意思とは別の何かによって、ルミナを殺すことだけを強制されているかのような不気味さがあった。
そして、もう一つ。
ネロにとっては、こちらの方がさらに理解しがたい。
(……どうして、あいつらはこの村の場所が分かったんだ?)
ネロは騎士たちが去っていった森の奥へ目を向けた。
深い原生林の奥へ進まなければ辿り着けない擂鉢状の盆地。何日も街道を彷徨っていたルミナですら、村そのものを目指していたわけではなく、森の入り口で力尽きたところを偶然発見されたに過ぎない。
それなのに、オルガン伯爵家の騎兵隊は迷った様子すら見せず、十数騎もの重装騎兵を率いて一直線に村へ乗り込んできた。
まるで最初から、ルミナがここに保護されていることを知っていたかのように。
(誰かが教えた……? でも、誰が……?)
胸の奥へ浮かんだ疑問とともに、これまで目にしてきた光景が一つずつ脳裏へ蘇る。
ジナを認識した途端、まるで一つの意思へ支配されたかのように豹変した村人たち。
この世界のどこを探しても見つからない、歳を重ねた女性たち。
ルミナを救った直後から、狂気へ取り憑かれたように彼女の殺害を命じ始めたオルガン伯爵。
そして、外界から隔絶されているはずのこの村へ、迷うことなく辿り着いた騎士隊。
それぞれ無関係に見えていた異常の背後に、ネロにはまだ見えない一本の糸が通っているような気がしてならなかった。
広場では今も、村人たちがネロを称える温かな歓声を上げ続けている。
その中心に立ちながら、ネロは一人、騎士たちが消えていった森の奥を見つめていた。
胸の内へ生まれた疑念は、もはや女神の甘い言葉を聞いただけで簡単に消えてしまうほど、小さなものではなくなり始めていた。




