第25話 子供の夢
夜の帳が静かに降り立ち、昼間の騒乱が嘘のように静まり返った木造家屋の中で、ネロは小さく息を吐いた。
「ルミナさん、今日は本当に大変だったね。もう怖いことは何もないから、ゆっくり休んで」
「はい……ありがとうございます、ネロ様。ラダさんも……おやすみなさい」
「おやすみなさい、ルミナ様。ネロ様も、お身体を労ってくださいね」
就寝の挨拶を交わし、寄り添うように隣の部屋へ向かっていく二人を見送ると、ネロも自らの簡素な寝台へ身体を横たえた。
板張りの天井を見つめながらゆっくりと目を閉じる。昼間から張り詰め続けていた神経がようやく解けていき、ほどなくして意識は音もなく深い眠りの底へと沈んでいった。
◇ ◇ ◇
ふわりと鼻先をくすぐったのは、これまでの夢に立ち込めていた甘ったるい百合や、南国の花々の芳香ではなかった。
乾いた赤土の匂い。焼かれた小麦と焦げた糖蜜の香ばしさ。そして大鍋から立ち上る、異国の香辛料をたっぷりと使った料理の湯気。
どこか懐かしく、胸の奥が締めつけられるような、生活の息吹に満ちた下町の空気だった。
「あははっ! ごちそうさま!」
澄んだ少年の甲高い笑い声が、賑やかな石畳の路地へ響き渡る。
見下ろした自分の手足は酷く小さく、身に纏った衣服も泥と擦り傷にまみれていた。背丈はまだ大人の腰ほどしかない、幼い頃の自分だった。
青空の下に広がる市場の雑踏を、少年はすばしっこい小動物のように駆け抜けていく。その小さな掌には、つい先ほど露店の焼き菓子屋からひょいと失敬したばかりの、黄金色の蜜が滴る揚げ菓子が握られていた。
「こらぁっ、ネロ! また焼きたてをつまみ食いしたね!」
「待ちなさい、この悪戯小僧! 今日という今日は逃がしませんよ!」
背後から飛んできたのは、怒気を含みながらも、どこか笑いを堪えているような朗らかな叫び声だった。
振り返ると、小麦粉で汚れた白いエプロンを身に纏った女性たちが、箒や木製の杓文字を振り上げながら追いかけてくる。
その腕は逞しく肉付きがよく、目尻には長い年月を生きてきたことを物語る笑い皺が刻まれていた。豊かな胸元を揺らしながら息を切らし、悪戯をした子どもを本気で叱り、それでも最後には笑って許してくれる――近所の大人の女性たちだった。
「つかまるもんかー!」
少年は舌を出し、ひらりと木箱を飛び越えると、細い路地へ滑り込んだ。
追手を撒いたと勝ち誇りながら角を曲がろうとした、その時。
トン、と乾いた杖の音が響いた。
「おっと……どこへ行くんだい、悪戯小僧」
「うわっ!?」
曲がり角の影から伸びてきたのは、枯れ枝のように節くれ立ちながらも、不思議と力強さと温かさを感じさせる手だった。
逃げようとした少年の襟首が、ひょいと器用に掴み上げられる。
見上げれば、そこに立っていたのは深く腰を曲げ、灰色の粗末な頭巾を被った老婆だった。
顔には幾重もの深い皺が刻まれ、背中もすっかり丸まっている。それでも、その双眸には町の誰よりも深い理知と威厳が宿っていた。
「まったく……人様の屋台からおやつを掠め取るんじゃないよ。叱ってくれる大人たちの手を、あまり煩わせるんじゃないの」
コツン、と額を軽く小突かれ、少年は首を竦めながら照れくさそうに頭を掻いた。
「いたたた……ごめんなさい、おばあちゃん。あんまり美味しそうだったから、つい……」
「素直に謝れたから、今日はお説教だけで許してやるさ。……ほら、冷めないうちに広場へおいで。みんな待ってるよ」
老婆は目尻の皺をさらに深くして相好を崩すと、節くれ立った掌で少年の頭をくしゃりと撫でた。
その手のひらのざらつきと、日だまりのような温もりが、少年の頭頂から胸の奥までじんわりと染み渡っていった。
やがて夕陽が赤銅色に街並みを染め上げる頃、広場には幾つもの長い木製テーブルが所狭しと並べられていた。
集まった町中の人々が肩を寄せ合い、賑やかな夕餉の席についている。
大人の女性たちが両手で抱えた大鍋からは、根菜と肉が煮崩れるほど煮込まれた温かなシチューの湯気が立ち上り、ふっくらと焼き上げられた丸パンが籠いっぱいに配られていく。
「さあネロ、いっぱいお食べ。しっかり食べないと、大きくなれないよ」
先ほどの老婆が、山盛りのシチューとちぎったパンを少年の木皿へ盛ってくれた。
周囲を見渡せば、幼い子どもの口元を布で拭ってやる母親がいる。頑固そうな夫の杯へ酒を注ぎながら笑う妻がいる。そして、すっかり白くなった髪を揺らしながら、孫を膝へ乗せて楽しそうに笑う祖母の姿もあった。
若い娘も、歳を重ねた母親も、腰の曲がった老婆も、誰もがごく当たり前の存在としてそこにいる。
誰もが損得も打算もなく心からの笑顔を浮かべ、互いの存在を慈しむように、温かな夕食を分かち合っていた。
その眩い団欒のただ中で、幼いネロは胸をいっぱいに満たされながら、熱いシチューを夢中で口へ運んでいた。
◇ ◇ ◇
「っ……あ……」
微かな嗚咽とともに、ネロの瞼が開いた。
視界を満たしたのは、薄暗い自室の板張りの天井と、小窓から差し込む冷たく青白い月明かりだった。
熱いものが頬を伝い、耳朶を濡らして枕へ吸い込まれていく。
ネロは呆然と自らの頬へ触れた。
指先を濡らしていたのは、止めどなく溢れ出る大粒の涙だった。
胸が痛い。
刃物で抉られたわけでもないのに、心臓を強く握り締められたように胸の奥が軋み、息をすることさえ苦しくなるほどの喪失感と切なさが込み上げてくる。
(……何だったんだ、今の夢は……?)
悲しい夢ではなかった。むしろ、これまで生きてきたどんな記憶よりも温かく、満ち足りた光景だったはずだ。それなのに、どうしてこんなにも涙が止まらないのか。
(あの人たち……。僕を追いかけて叱ってくれた大人の女の人たちも、僕を捕まえて頭を撫でてくれた、あのおばあさんも……一体、誰なんだ……?)
ネロは寝台の上でゆっくりと上半身を起こし、胸元を強く掻き抱いた。
ネロ自身には、両親の記憶がない。
物心ついた時には王都グラン・アルカの薄汚れた貧民街で一人きりだった。親の顔も名前も知らず、残飯を漁り、時には泥水を啜りながら、ただ生き延びることだけに必死だった。
その後、田舎の村で母を失い、王都へ流れ着いてきた幼いパラシュと出会った。境遇こそ違っていたものの、互いに頼れる大人のいなかった二人は、肩を寄せ合うようにして成長し、やがて同じ仲間たちと冒険へ出るようになった。
だからこそ、先ほどの夢が理解できなかった。
ネロには、自分を叱りながらも優しく頭を撫でてくれる母親のような女性と暮らした記憶などない。ましてや、深い皺を刻んだ老婆から食事を盛ってもらい、その温かな掌に触れた覚えなどあるはずもなかった。
それにもかかわらず、夢の中で感じた温もりは、初めて触れたものとは到底思えないほど懐かしかった。
(……いないんだ)
そこでネロは、夢とは別の事実に改めて思い至った。
背筋へ、氷水を流し込まれたような寒気が走る。
王都の貧民街にも、白亜の大通りにも、自由交易都市リンドブルムにも、そしてこの平和な隠れ里にすら――「母親」と呼べるほど歳を重ねた大人の女性も、腰を曲げて孫を抱くような老婆も、最初から世界のどこにも存在していなかった。
街で行き交う女たちは、誰もが十代後半までの若い少女ばかり。
成人して歳を重ねていくのは男たちだけであり、女たちはある年齢を迎えると、まるで空気の中へ溶け去るように忽然と姿を消してしまう。
少なくとも、ネロがこれまで生きてきた世界を振り返る限り、そうとしか思えなかった。
母親に叱られること。
老いた祖母の膝の上で温もりを感じること。
夢の中では何一つおかしく感じなかったそんな情景が、この世界では決して目にすることのできない光景になっている。
そして、ネロ自身もつい最近まで、その異常に気づくことすらできなかった。
(なぜ僕は……一度も会った記憶がないはずの人たちを、あんなに懐かしいと思ったんだ?)
夢の中の少年は、間違いなく自分だった。
それなのに、そこで感じた記憶も温もりも、今のネロが生きてきた人生とは明らかに噛み合っていない。
モヒーニカは、女性が若い姿を保つのは「神の祝福」なのだと説明した。
だが、それでは歳を重ねたはずの女性たちがどこへ行くのかという問いには、結局答えていない。
村人たちも、妻や母について尋ねれば、不自然なほど曖昧な反応を見せる。
そしてジナは、神々が押しつける耳障りのいい「調和」を疑えと言っていた。
それぞれの違和感が、頭の中で少しずつ繋がり始めている。
世界のどこかが、根本から歪んでいる。
そんな疑念が、以前よりもはっきりとした形を伴いながら、ネロの胸の奥へ根を張り始めていた。
ざわめく胸の動悸を落ち着かせようと、ネロは寝台から静かに足を下ろした。
冷たい板張りの床を素足で踏みしめながら、ふと隣室へ視線を向ける。
薄い木戸を隔てた向こうでは、昼間まで死の恐怖に晒されていたルミナとラダが、静かな寝息を立てて眠っている。
そして、月明かりの差し込む壁際に、見覚えのある小さな荷物が置かれていた。
粗末な灰色の麻布を使って作られた、簡素な手提げ袋。
オルガン伯爵家から追放された際、わずかな替えの衣類や身の回り品だけを詰められ、ルミナへ渡されたものだった。
(……伯爵家の追手)
昼間の騎士隊長の凶暴な形相と、砕け散った鎧の記憶が脳裏へ蘇った。
持参金も権利もすべて奪い、最低限の荷物だけを持たせて一度は追い出したはずなのに、数日後になって伯爵は突然態度を変え、正規の騎士たちへルミナの殺害を命じた。
しかも、外界から隔絶されているはずのこの村の場所まで、騎士たちは正確に把握していた。
『閣下の様子が急変して……「あいつを生かしておいてはならない」と、まるで何かに憑りつかれたように狂乱されて……っ!』
騎士隊長が恐怖に震えながら語っていた言葉が、耳の奥で蘇る。
歳を重ねた女性が不自然なほど見当たらない世界。
消滅しかけたルミナ。
そのルミナをネロが救った直後から、まるで何かに急き立てられるように彼女の命を狙い始めた伯爵。
(……何か、ある)
まだ何一つ確証はない。
それでも、昼間から胸へ引っかかっていた違和感を、このまま偶然として片づけることだけはできなかった。
ネロは壁際に置かれたルミナの荷物へ視線を落とす。
(勝手に見るなんて……絶対に良くないよな)
胸の奥に罪悪感が生まれる。
ルミナが自分を信頼してくれていることは分かっていた。その信頼を裏切るような真似をすることへの抵抗は、当然ネロにもあった。
それでも、今日彼女は本当に殺されかけた。
もし伯爵家に関する何かがこの荷物の中に残されていて、それがルミナの命を狙う理由へ繋がるのだとすれば、見過ごすこともできない。
しばらく迷った末、ネロは小さく息を吐いた。
(……ごめん、ルミナさん)
音を立てないよう慎重に隣室へ入り、二人の穏やかな寝息を確かめる。
それからルミナの荷物の前へ膝をつき、震える指先で麻布の口を縛っていた紐をそっと解いた。
中に入っていたのは、擦り切れた替えの衣類と簡素な櫛、小さな手鏡、布巾などの最低限の身の回り品だった。
しかし、それらを慎重に避けていくうち、袋の底で指先が硬いものへ触れた。
「……?」
ネロは眉を寄せ、それをゆっくりと引き出した。
現れたのは、一冊の厚い革表紙の本だった。
「これは……」
ネロは息を呑んだ。
深緑色の革で装丁されたその書物は、表紙を縁取っていた金箔の大部分が擦れ落ち、四隅にも長年使い込まれた跡が刻まれている。
そして表紙の中央には、昼間の騎士たちが掲げていたものとまったく同じ紋章――オルガン伯爵家を示す「絡み合う双頭の毒蛇」が、古びた金色の刻印として残されていた。
(どうして……こんなものが、ルミナさんの荷物の中に?)
替えの衣類と最低限の日用品だけを持たされて追い出されたはずなのに、その中へ伯爵家の紋章が刻まれた書物が紛れ込んでいる。
ネロは隣室で眠るルミナへ一度だけ視線を向けた。
彼女が自分の意思で持ち出したものなのか。
それとも、荷物をまとめた誰かによって入れられたものなのか。
今のネロには分からない。
ただ、昼間から胸へ引っかかっていた疑問が、目の前の一冊によってさらに強く刺激されていく。
ネロは金具の留め具へ指を掛け、音を立てないよう慎重に外した。
月明かりの下で、最初の頁をゆっくりとめくる。
そこへ並んでいた文字を目にした瞬間、ネロの表情が変わった。
それは、ルミナの筆跡ではなかった。
几帳面でありながら鋭く、どこか神経質な印象さえ漂わせる流麗な筆文字。そして最初の頁に記された署名を見たことで、その書物を書いた人間が誰なのかはすぐに分かった。
ルミナの夫であり、彼女からすべてを奪って屋敷から追放した当事者。
オルガン伯爵本人の名が、そこにははっきりと記されていた。
それは――オルガン伯爵自身が書き残した手記だった。




