第26話 オルガン伯爵の日記
青白い月光が、開かれた手記の黄ばんだ紙面を静かに照らし出していた。
ネロは息を殺し、震える指先で一頁ずつ慎重にめくっていく。
最初の数頁に並んでいたのは、端正で几帳面な、書き手の深い教養を窺わせる流麗なインクの文字だった。
『人は、神の与えしステータスやジョブの数値のみで測られるべきではない。低位のジョブを理由に理不尽に虐げられる民を救い、生まれや数字に囚われぬ公正な制度を整えることこそが、領主たる私の責務である。王都の議会へ、この新たな救済法の上奏を進めよう』
ネロの指が、僅かに止まった。
(ステータスによる差別を……なくそうとしていた?)
信じがたい思いを抱きながら、次の頁へ進む。
『本日、年若きルミナが我が家へ嫁いできた。政略結婚とはいえ、この小さく愛らしい妻を、生涯をかけて守り抜くと神に誓おう。ルミナの淹れてくれる茶は素晴らしい。彼女の柔らかな笑顔を見るたび、制度改革の重圧さえ忘れることができる。いつか彼女との間に、健やかな子を授かりたいものだ』
その後にも、領民の生活を気遣う記述や、貧民への税負担を軽減するため奔走した記録、低位ジョブの者にも教育や職業選択の機会を与えるべきだという主張が、何頁にもわたって残されていた。
そして、その合間には何度もルミナの名が現れる。
彼女と食卓を囲んだこと。
体調を崩した妻のため、予定していた議会への出席を取りやめたこと。
初めて自分のために焼いてくれた菓子が少し焦げていたことさえ、楽しげな筆致で書き残されている。
頁をめくるたびに行間から滲み出してくるのは、妻への純真な愛情と、ステータス至上主義に蝕まれた社会を少しでも変えようとする、誠実で高潔な一人の男の姿だった。
(……これが、オルガン伯爵……?)
ネロは呆然と紙面を見つめた。
かつて《暁の刃》の仲間たちとともに対峙した時、ネロ自身が目にしたオルガン伯爵は、こんな人物ではなかった。
冒険者を虫けら同然に見下し、弱い立場の民を顧みることもなく、肥え太った身体で権力を振りかざす傲慢な貴族。その冷たい眼差しにも、口から吐き出される言葉にも、ここに記された民への思いやりなど欠片も感じられなかった。
同じ名前を持つ、まったく別の人間の日記を読んでいるのではないか。
そう疑いたくなるほどだった。
しかし頁を中盤まで進めたところで、それまで乱れ一つなかった筆跡に、少しずつ異変が現れ始める。
日付は、現在からおよそ半年前を指していた。
『最近、酷い頭痛がする。神殿へ祈りを捧げに行くたび、頭の奥で何かがギシギシと軋むのだ。司祭は神の御声を受け入れるための試練だと言うが、本当にそうなのだろうか』
次の頁。
『なぜだろう。あれほど愛おしかったルミナの顔を見ることが、時折ひどく不快に感じられる。彼女は何もしていない。ただいつものように微笑み、いつものように茶を淹れてくれただけだ。それなのに、「ここにいてはならない」「不要だ」「価値がない」という声が、私自身の考えであるかのように頭の中へ入り込んでくる』
さらに、その次。
『違う。私はルミナを愛している。愛しているはずだ。ではなぜ今日、私は彼女をあれほど理不尽に罵倒してしまったのだ。怯える彼女の瞳を見て、なぜ私は何も感じずにいられた? 謝ろうとした。抱き締めようとした。だが身体が動かなかった』
徐々に筆跡の乱れが大きくなっていく。
『議会で、低位ジョブへの救済法を取り下げるよう命じてしまった。私が何年もかけて進めてきたものだ。なぜだ。なぜ私は、自分で自分のすべてを壊している?』
『最近、鏡を見ることが怖い。そこに映っている男の目が、私のものではないように見える』
『私が私でなくなっていく』
ネロの指先が冷たくなった。
そこに書かれているのは、力を得て傲慢になった男の記録などではない。
自分自身の人格が少しずつ失われていくことに気づきながら、それを止めることもできず、恐怖に怯え続けた一人の人間の記録だった。
やがて――ルミナが伯爵家から追放される三日前。
最後に残された頁を開いた瞬間、ネロの喉からひゅっと細い息が漏れた。
もはや文字は行の体裁すら保っていなかった。
紙面を突き破らんばかりの凄まじい筆圧と、激しく波打つ狂乱の筆跡が、まるで血を擦りつけたかのように頁全体を黒々と埋め尽くしている。
『神の声が聞こえる』
『二十歳は限界だ』
『排除せよ』
『廃棄せよ』
『入れ替えろ』
『新しい器を用意しろ』
ネロの心臓が大きく脈打った。
さらにその下には、先ほどとは明らかに異なる、震えながら必死に書き殴ったような文字が続いている。
『嫌だ』
『ルミナを殺したくない』
『追い出したくない』
『私は彼女を愛している』
『私は――私は――』
一度、大きくインクが滲んでいる。
その先に記されていた文字を目にした瞬間、ネロは息を止めた。
『彼女を逃がさなければ』
『私から』
そして、その先。
本来なら何も書かれていないはずの頁の余白という余白へ、同じ文字が異常なほどびっしりと連ねられていた。
『私の頭の中から出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ――』
バサッ!
「っ……!」
あまりのおぞましさにネロの指先が激しく痙攣し、反射的に手記を床へ落としていた。
乾いた音が、静まり返った夜の部屋へ異様なほど大きく響く。
心臓が早鐘のように胸板を打ち据え、指先から急速に血の気が引いていった。
昼間、追手の騎士隊長が恐怖に震えながら口走った言葉が、耳の奥で鮮明に蘇る。
『最初は追い出すだけで済ませるはずだったんだ!』
『だが数日前から、閣下の様子が急におかしくなった……!』
『まるで何かに憑りつかれたみたいに……!』
その意味が、ようやく繋がった。
(伯爵は……最初からルミナさんを殺そうとしていたんじゃない)
ネロは床へ落ちた手記を凝視する。
(むしろ逆だったんだ。自分がおかしくなっていくことに気づいて……ルミナさんを殺してしまう前に、自分から逃がそうとしていた……!)
だから、一度は追放という形で屋敷の外へ出した。
持参金も権利も奪いながら、最低限の手荷物だけは持たせた。
それがどこまで伯爵自身の意思によるものだったのかは分からない。それでも少なくとも、この最後の記述を書いた時点では、ルミナを自分から遠ざけることで救おうとしていたのだ。
だが、その抵抗さえ長くは続かなかった。
ルミナが逃れたあと、何かが伯爵の意志を完全に押し潰し、今度は彼女の命そのものを奪うよう命じ始めた。
そして何より、ネロを戦慄させたのは、その変貌の軌跡だった。
神殿へ足を運ぶたびに悪化していった頭痛。
愛しているはずの人間を「不要なゴミ」だと思わせようとする、正体不明の声。
自分の意思に反して失われていく慈愛や良心。
(……同じだ)
脳裏をよぎったのは、かつて共に旅をしていた《暁の刃》の仲間たちだった。
最初から冷酷だったわけではない。
パラシュも、ドミニクも、カクスも、かつては確かに笑い、怒り、困っている人間へ手を差し伸べることのできる者たちだった。
それがレベルを重ねるにつれて、少しずつ変わっていった。
冗談に笑わなくなった。
苦しんでいる者を「非効率」と切り捨てるようになった。
そして最後には、長年仲間として共に歩いてきたネロさえ、何の躊躇もなく不要な存在として追放した。
伯爵の手記に書かれている変化と、あまりにも似ている。
(偶然じゃない……)
ラダが十五話で抱いた疑問が、今になってネロの中でも明確な輪郭を持ち始める。
一人なら、心変わりで説明できたかもしれない。
二人なら、偶然だと思えたかもしれない。
だが、あまりにも多くの人間が同じように感情を失い、同じように「不要な者を切り捨てる」という方向へ変化している。
さらに伯爵自身が、その変化を恐れ、抵抗していた証拠まで残されている。
もはや「人間は力を得れば本性を現す」というモヒーニカの説明だけで片づけることはできなかった。
(誰かが……いや、何かが……外から心を変えている……?)
ネロは床へ落ちた手記を拾い上げた。
まだ確証はない。
それが神なのか、ステータスなのか、あるいはまったく別の何かなのかさえ分からない。
しかし、この世界の人間たちの心へ、本人たちの意思とは異なる何かが干渉している。
少なくとも、その可能性だけはもう無視できなかった。
ネロは手記を強く抱えると、弾かれたように部屋を飛び出した。
◇ ◇ ◇
夜露に濡れた草を踏みしめ、ネロが向かったのは、村外れの森との境界にひっそりと建つ、古びた木造の祈祷小屋だった。
農作業の合間に村人たちが神へ祈りを捧げるための、飾り気のない簡素な建物。その扉を勢いよく押し開けたネロは、荒い息を吐きながら内部へ飛び込んだ。
そして、その足が止まった。
薄暗い祈祷小屋の中央。
差し込む月明かりの中で、白銀と黄金の燐光を纏った女神モヒーニカが、まるで最初からネロが訪れることを知っていたかのように、静かに宙へ佇んでいた。
「モヒーニカ!」
荒い足音へ反応し、モヒーニカがゆっくりと振り返る。
いつもと変わらない慈愛に満ちた微笑みが、完璧な美貌へ浮かんだ。
「まあ、ネロ。こんな夜更けにどうなさいましたの?」
「聞いてくれ、おかしいんだ!」
ネロは両手に抱えていた重厚な手記を突き出し、抑えきれない焦燥のまま言葉を続けた。
「さっき夢を見たんだ。歳を取った女の人たちも、お母さんも、おばあさんも普通に暮らしてる町の夢を! 僕はあんな人たちに会ったことなんてないはずなのに、どうしてかすごく懐かしかった!」
モヒーニカは何も答えない。
「それだけじゃない。この日記もだ!」
ネロは手記を開き、震える指で頁を示した。
「オルガン伯爵は、最初からあんな人じゃなかったんだ! 昔はステータスで人を差別するのを止めようとしていた。ルミナさんのことだって、本当に大切にしてた!」
ネロの声が次第に大きくなっていく。
「でも途中から頭の中に変な声が聞こえ始めて、自分でも嫌なのに、人をゴミみたいに思うようになって……最後には『二十歳は限界だ』『排除しろ』『廃棄しろ』って、神の声が聞こえるって書いてある!」
「…………」
「パラシュたちだってそうだった! 昔はあんな奴らじゃなかったのに、レベルが上がるにつれて、みんな同じように冷たくなっていった!」
ネロは縋るような眼差しで、目の前の女神を見上げた。
「この世界は……何かにおかしくされてるんじゃないのか? 誰かが、人の心を外から無理やり変えてるんじゃないのか!?」
切実な叫びが、狭い祈祷小屋の板壁を震わせた。
その問いを受けた瞬間、モヒーニカの表情から温度が消えた。
慈愛に満ちていた微笑みそのものは崩れていない。
しかし、その藍色の双眸の奥から柔らかな光だけが消え失せ、代わりに底知れぬ冷徹さが浮かび上がる。まるで、これ以上先へ踏み込むことを決して許さないと警告するかのような、冷たい神の眼差しだった。
それも、ほんの僅かな間だけだった。
モヒーニカはすぐに瞳へ温かな光を取り戻すと、ひどく取り乱した幼子を憐れむような、柔らかな微笑みを浮かべた。
「……愛しいネロ。悪い夢に当てられて、随分と混乱してしまったのですね」
ふわりと宙を滑り、ネロの前へ降り立つ。
実体を持たないはずの冷涼な両手が、震えているネロの拳をそっと包み込んだ。
「夢など、疲れた心が見せるただの幻影に過ぎません。現実には存在しないものを、いくら夢の中で見たところで、それが真実になることなどありませんわ」
「でも……!」
「そして、その日記も同じです」
モヒーニカはネロの言葉へ静かに被せた。
「あの男は権力に溺れ、妻を傷つけ、最後には自らの罪から目を背けようとした愚かな貴族。その手記に書かれているものなど、己の身勝手と悪行を正当化するために書き殴った、狂人の見苦しい言い訳に過ぎません」
「違うよ!」
ネロは思わず声を荒らげた。
「だったら、なんで自分が変わっていくことを怖がってるんだ!? どうしてルミナさんを殺したくないって書いてある!? あの人は――」
「いいえ、ネロ」
今度は明確に、モヒーニカが遮った。
声音そのものは穏やかなままだった。
しかし、その言葉にはネロの反論を許さない、奇妙な重さが宿っている。
「もう、そのような穢らわしい妄言へ心を乱される必要はありません」
モヒーニカはネロの拳から手を離すと、そのまま両腕を少年の首筋へ柔らかく回した。
百合の香りが鼻腔を満たす。
「貴方が見るべきものは、今ここにある温かな現実だけ。貴方を慕うラダも、貴方に救われたルミナも、心優しい村の人々も、皆が貴方の傍にいるではありませんか」
耳元へ唇を寄せ、鈴を転がすような甘い声音で囁き続ける。
「答えのない疑問へ心を囚われれば、いずれその美しい魂まで傷ついてしまいます。ですから、もうお考えになるのはおやめなさい。寝室へ戻って、静かにお休みなさい」
「モヒーニカ、僕は――」
ネロがなおも言葉を返そうとした、その瞬間だった。
モヒーニカの掌から、白銀の神気が滲み出した。
それは淡い霧のようにネロの頭部を包み込み、額から頭の奥へゆっくりと染み込んでいく。
「……っ!?」
直後、強烈な痺れが頭の奥を駆け抜けた。
意識が白く霞み、先ほどまで鮮明だった思考が急速に輪郭を失っていく。
何を考えていたのか。
なぜここへ来たのか。
何を問いただそうとしていたのか。
その一つ一つが、深い霧の向こうへ沈んでいくように遠ざかっていった。
「モ……ヒーニ……カ……」
舌が鉛のように重い。
身体から力が抜け、反論しようとしても声にならない。
「大丈夫ですわ、ネロ」
モヒーニカは慈愛に満ちた微笑みを浮かべたまま、少年の髪を優しく撫でた。
「何も怖いことなどありません。私の言葉だけを信じていれば、それでよいのですから」
その言葉を最後に、ネロの意識はほとんど白く塗り潰された。
手記を抱えたまま、まるで夢遊病者のような足取りで祈祷小屋を後にし、自分の家へと戻っていく。
モヒーニカは追わなかった。
ただ、夜闇へ消えていく少年の背中を、微笑みながら見送っていた。
◇ ◇ ◇
バタン、と木製の扉が閉じた。
自室まで戻ったネロは、力が抜けたように寝台へ腰を下ろした。
手にしていた日記帳が指先から滑り落ち、板張りの床へ鈍い音を立てて転がる。
しばらくの間、ネロは焦点の合わない瞳で虚空を見つめていた。
「…………」
頭の中が、妙に静かだった。
先ほどまで自分を突き動かしていた疑問も、不安も、怒りも、すべてが遠い。
もう考えなくてもいい。
モヒーニカがそう言っていた。
ならば、もう眠ってしまえば――。
そこまで考えたところで、ネロの視線が床へ落ちた。
開いたままの日記帳。
月明かりを浴びた黄ばんだ紙面の上へ、狂ったような筆跡が黒々と残されている。
『彼女を逃がさなければ』
『私から』
『私の頭の中から出ていけ』
その文字を見た瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
「……っ」
ネロは眉を寄せ、頭を押さえた。
先ほどまで思考を覆っていた白い霧の向こう側から、祈祷小屋で起きたことが少しずつ蘇ってくる。
問いかけた自分。
答えを逸らしたモヒーニカ。
そして――。
(……僕に、何をした……?)
ネロは両手で頭を押さえ、激しく首を振った。
まだ頭の奥には痺れが残っている。
それでも時間が経つにつれ、濁っていた意識は少しずつ晴れ、代わりに冷たい恐怖が全身へ広がっていった。
ネロは床へ転がる日記を拾い上げる。
そこに記された文字は、何一つ変わっていない。
伯爵が妻を愛していた記録も。
自分自身の変貌を恐れていた記録も。
そして、頭の中から何かを追い出そうと、必死に抵抗した痕跡も。
すべて、そこに残っている。
「…………」
ネロはゆっくりと自分の両手を見下ろした。
膝の上で拳を固く握り締める。
爪が掌へ深く食い込み、皮膚を破った。じわりと滲んだ鮮血が指の間を伝い、その鋭い痛みが、残っていた痺れをさらに現実の外へ押し退けていく。
そして、ネロはついに認めざるを得なかった。
(モヒーニカは……嘘をついてる)
胸の奥が、冷たく沈んだ。
今までなら、どれほど違和感を覚えても、最後にはモヒーニカの言葉を信じようとしてきた。
自分が間違っているのかもしれない。
まだ知らない神の理があるのかもしれない。
自分を救ってくれた彼女が、自分を騙すはずなどない。
そう思い続けてきた。
だが今回は違う。
モヒーニカは答えなかった。
夢のことも。
歳を重ねた女性たちのことも。
伯爵の日記に残された「神の声」のことも。
パラシュたちの変貌との共通点も。
何一つ説明しないまま、それらすべてを「考える必要がない」と切り捨てた。
そして最後には――神気によって、ネロ自身から考える力を奪おうとした。
その事実だけは、どれほど彼女を信じたいと思っても否定できなかった。
(僕に、考えさせたくなかったんだ)
震える息が唇から漏れた。
(何かを……知られたくないから)
自分が死の淵にいた時、救いの手を差し伸べてくれた女神。
誰も価値を認めてくれなかったレベル0の自分を、「愛しい勇者」と呼んでくれた存在。
その優しい微笑みの奥に、自分が知ってはいけない何かを隠している。
そう考えた瞬間、これまでネロを守っていたはずの記憶一つ一つが、別の色を帯び始めた。
モヒーニカの甘い言葉。
異端者であるジナへの激しい拒絶。
世界の異常について尋ねるたびに、巧妙に逸らされてきた答え。
そして、何も考えず自分だけを信じるよう促してきた数々の言葉。
すべてが一本の線へ繋がり始めていた。
(この世界は……何かが絶対に狂ってる)
まだ、その正体は分からない。
神そのものが敵なのか。
ステータスという仕組みに問題があるのか。
それとも、もっと別の何かが神の名を利用しているのか。
今のネロには何一つ断定できない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
もう、誰かに与えられた答えを、そのまま信じてはいけない。
神がそう言ったから。
世界がそう決めているから。
ステータスにそう書かれているから。
そんな理由だけで、自分の目で見たものや、自分の耳で聞いた音を否定してはいけない。
ネロは膝の上へ置いた日記帳を強く握り締めた。
胸の奥には恐怖がある。
自分を救ってくれた存在を疑うことへの罪悪感も、今なお消えてはいない。
それでも、そのさらに奥で、これまでとは異なる感情が静かに芽吹き始めていた。
世界が隠しているものを、自分自身の目で確かめたい。
誰かに決められた「正しさ」ではなく、自分の耳でその歪んだ音を聞き、自分自身で答えを選びたい。
その決意はまだ小さかったが、もう女神の甘い言葉だけで消し去ることのできるものではなかった。
月明かりの差し込む静かな部屋で、ネロは長い間、オルガン伯爵の日記を見つめ続けていた。




