第27話 LV.99 ※暁の刃視点
王都グラン・アルカの王宮大広間は、現世の栄華を一身に集めたかのような眩い輝きに満ちていた。
幾層にも重なるアーチ天井からは、純度の高い金剛石と水晶によって組み上げられた巨大なシャンデリアが幾十と吊り下げられ、魔導具による眩い光が広間全体を白昼のごとく照らし出している。金箔で彩られた白亜の大柱、鏡面のように磨き抜かれた青大理石の床、そして豪奢な毛皮や絹を身に纏った特権貴族たちの装飾品が、空間を眩惑的な色彩で埋め尽くしていた。
だが、その壮麗な空間の中央に立たされた五人の冒険者たちだけは、周囲の絢爛さから残酷なまでに浮き上がっている。
《暁の刃》の面々は、文字通りの満身創痍だった。
最前線である常闇の荒野から辛うじて帰還した彼らの身体には、幾重にも巻かれた包帯から赤黒い血が滲み出ていた。ドミニクは半ばから折れた杖を松葉杖代わりにして震える足を支え、バクの分厚い鋼鉄の胸当ては激しい打撃によって大きくひび割れ、息を吸うたびに胸の奥を刺すような痛みに顔を歪めている。
カクスとリクトもまた、魔力の枯渇と壊死性の毒による後遺症で顔を土気色に染め、互いの肩を支え合わなければ立っていることすら難しい有様だった。
かつての彼らなら、どれほど過酷な戦場から戻ったとしても、ここまで肉体を壊すことなど滅多になかった。
後方から絶え間なく響いていたバード――ネロの木製横笛の音色が、戦闘によって蓄積していく疲労を和らげ、乱れかけた魔力の循環を整え、前衛と後衛の呼吸を一つに繋ぎ止めていたからだ。
誰かが踏み込みを僅かに早めれば、その瞬間に旋律が変わる。
魔法の発動が遅れれば、その乱れを補うように音が重なる。
疲労で呼吸が崩れれば、本人さえ意識しないうちに最適な間合いへ引き戻されていた。
当時の彼らは、それを自分たち自身の実力だと思っていた。
そして、その調律の要を「無能のレベル0」と蔑み、自らの手で切り捨てた。
その代償は、あまりにも重かった。
防壁を展開するタイミングは僅かずつ狂い、前衛と後衛の連携は戦闘が長引くほど瓦解していく。以前なら自然に補われていた疲労や魔力の乱れも、今ではすべて彼ら自身の肉体へ直接のしかかっていた。
それにもかかわらず、レベルだけは異常な速度で上昇し続けている。
常闇の荒野で戦いを重ねるたび、能力値は増した。
数字だけを見れば確かに強くなっているはずだった。
だが実際の彼らは、以前よりも遥かに傷つき、遥かに苦しみながら戦っている。
まるで数字が上昇する代わりに、身体のどこか大切な部分を少しずつ削り取られているかのようだった。
そんな五人を、壇上に設けられた豪奢なビロード張りの長椅子から見下ろしている男がいた。
王都の商業と軍政へ絶大な影響力を持つ、オルガン伯爵。
仕立ての良い深紅の正装へ肥え太った身体を押し込み、太い指先で銀製の杯を弄びながら、伯爵は芳醇な赤ワインを一口含んだ。
そして、薄い唇へ醜悪な冷笑を刻む。
「魔族の軍勢を退けたというのは結構だがね。ギルドから上がってきた報告によれば、その際に王都防衛の要である外郭防壁の一部が甚大な損傷を受けたそうではないか」
伯爵はわざとらしく溜息をつき、手元の書類をひらひらと振った。
「巨額の補修費用に加え、貴様らの稚拙な立ち回りによって発生した損害まで差し引けば……まあ、今回の遠征報酬は金貨数枚が妥当なところだろう」
「な……っ!? ふざけるな……!」
ドミニクが奥歯を噛み締め、血走った目で伯爵を睨みつけた。折れた杖を握る指先が激しく震えている。
「俺たちは……仲間全員の命を削って、数百を数える魔族の軍勢を食い止めたんだぞ! 防壁が壊れたのだって、上級魔族の自爆攻撃を受け止めなければ、王都の門そのものが吹き飛ばされていたからだ!」
「黙れ、賤民が」
伯爵は吐き捨てるように言葉を遮った。
「神託を受けた勇者様だか何だか知らんが、所詮は金で雇われる泥臭い猟犬に過ぎん。平民風情が過分な名声に酔い痴れ、我ら選ばれし貴族へ意見するなど身の程を弁えろ」
壇上を取り囲んでいた近衛騎士たちが、一斉に腰の大剣へ手を掛ける。
ガチャリ、と無数の金属音が重なった。
その絶対的な権力構造を前に、バクは折れかけた大盾を握り締めたまま俯き、悔しさに歯を食いしばることしかできなかった。
だが、今日のオルガン伯爵は普段以上に苛立っていた。
つい先ほど、伯爵家の屋敷へ一つの急報が届いている。
辺境の隠れ里へ差し向けたはずの秩序執行騎士隊が、正体不明の少年一人によって壊滅寸前まで叩きのめされ、任務を果たすこともできないまま王都へ逃げ帰ってきたという報告だった。
ルミナを殺せ。
何としてでも探し出せ。
生かしておいてはならない。
数日前から頭の中を埋め尽くしていたその衝動が果たされなかったことへの苛立ちが、伯爵の胸の中で醜悪な憎悪となって渦巻いている。
その矛先が今、目の前で傷だらけになっている《暁の刃》へ向けられていた。
やがて伯爵の視線が、一行の先頭で黙り込んでいるパラシュへ止まる。
その顔へ、さらに歪んだ笑みが浮かんだ。
「そういえば貴様……森の寒村で魔族に殺された、あの賤しい平民女の息子だったな?」
ピクリ、とパラシュの指先が動いた。
大戦斧を背負ったまま俯いていた青年の肩が、ほんの僅かに揺れる。
だが伯爵は、その反応を見て愉悦を覚えたかのように喉を鳴らした。
「母親と同じく、所詮は野垂れ死ぬ運命の薄汚い血筋よ。貴様らのような下賎なゴミは、我ら選ばれし貴族のために使い潰され、最後には野垂れ死ぬ。それこそが唯一許された誉れなのだ!」
母への侮辱。
何も持たない者が命を削り、安全な場所で肥え太った者たちがその成果だけを奪い取っていく、この腐敗しきった王都の姿。
パラシュの胸の奥で、何かが激しく軋んだ。
母が殺された夜。
貧しい村。
王都へ流れ着いた幼い自分。
そして、薄汚れた路地裏で初めて出会った、同じように何も持っていなかった少年。
脳裏の奥で、微かな横笛の音が鳴ったような気がした。
『パラシュ、大丈夫だよ』
かつて確かに聞いた、幼馴染の声。
その記憶へ手を伸ばそうとした瞬間だった。
ズキンッ!!
「ぐ……ッ!」
頭蓋の内側へ熱した鉄杭を打ち込まれたような激痛が走り、パラシュは大きく身体を揺らした。
右肩が燃えるように熱い。
神託の儀で刻まれた神紋。その周囲へ以前から伸び続けていた黒紫の筋が、まるで生き物の根のように皮膚の下で蠢き始める。
そして――。
ドクンッ――!!
心臓が一度、大きく脈打った。
その音が、静まり返った王宮大広間の空気そのものを震わせる。
「な……何だ?」
列席していた貴族の一人が、怯えた声を漏らした。
パラシュの右肩を覆っていた衣服が、内側から噴き上がった黒紫の燐光によって焼け落ちる。
露わになった神紋は、もはや神聖な黄金色など留めていなかった。
中心から滲み出した漆黒と紫の光が血管のように全身へ這い広がり、首筋から頬へ、さらに右目の周囲へと禍々しい紋様を刻んでいく。
「パラシュ……?」
ドミニクが息を呑んだ。
その時、広間の壁際に設置されていた巨大な鑑定水晶柱が、突如として激しく明滅した。
本来は王宮で大規模な叙勲や認定を行う際、対象者のステータスを列席者へ拡大表示するための魔導設備。
誰一人として命じてもいないにもかかわらず、それがひとりでにパラシュの情報を映し出し始めた。
キィィィィィィィン――ッ!!
耳を劈くような甲高い音とともに、水晶の表面へ文字列が浮かび上がる。
【個体識別:パラシュ】
・Lv.92 → Lv.99[上限到達]
・ジョブ[選ばれし勇者:ウォリアー]
・状態:神紋異常活性/精神侵食・臨界
・特記事項:■■■■■■■■
「レ、レベル……99……?」
誰かが掠れた声で呟いた。
グラン・アルカにおいて、その数字が何を意味するのかを知らない者はいない。
最高位のジョブ【選ばれし勇者】。
そして、レベル99。
その二つを兼ね備えた者こそが、この国の王座へ挑む資格を持つ。
だが、その場にいた誰一人として歓声を上げることはできなかった。
表示された最後の二行が、あまりにも異様だったからだ。
「精神……侵食……?」
ドミニクが読み上げようとした瞬間、表示そのものが大きく歪んだ。
文字が黒く塗り潰され、水晶の内部へ亀裂が走る。
ピキ……ピキピキピキッ――!
そして次の瞬間。
ドォォォォォンッ!!
巨大な鑑定水晶柱が、眩い閃光を放ちながら粉々に爆砕した。
無数の水晶片が雨霰となって大広間へ降り注ぎ、貴族たちの悲鳴が一斉に響き渡る。
だが、その中心に立つパラシュは微動だにしなかった。
黒紫の雷光が全身から噴き上がっている。
バチィッ!!
雷鳴が轟くたびに足元の青大理石が赤熱し、鏡面のようだった床が飴細工のように溶け落ちていく。黒雷の一条が白亜の大柱へ走れば、金箔ごと表面を吹き飛ばし、巨大な亀裂を刻んだ。
「パラシュ……おい……!」
バクが呻くように呼びかけた。
ゆっくりと、パラシュが顔を上げる。
そして四人は、その瞳を見た瞬間、声を失った。
母を侮辱された怒りもなかった。
王都の腐敗へ向けていた憎悪もない。
苦悩も、迷いも、仲間へ向ける感情すら残されていない。
本来なら琥珀色だったはずの双眸は、黒紫の濁った光へ染まり、磨かれた硝子玉のように何の感情も映していなかった。
「な……何だ、その目は……」
オルガン伯爵の顔から、先ほどまでの傲慢な笑みが消えた。
パラシュから吹き荒れる圧力を受けた瞬間、その肥え太った身体が椅子から転げ落ちる。
「ひ……っ」
伯爵は尻餅をつき、震える腕で後退しようとした。
だが身体が言うことを聞かない。
目の前にいるものを人間として認識したくないという恐怖だけが、全身を支配していた。
「き、騎士団……!」
伯爵は掠れた声で叫ぶ。
「何をしている! そいつを殺せ! 早く殺せぇぇッ!!」
命令を受けた近衛騎士たちは一瞬だけ躊躇したものの、長年叩き込まれた忠誠に従い、一斉に大剣を抜き放った。
「う、うおおおおおッ!!」
十数名の重装騎士が、四方からパラシュへ殺到する。
しかし、パラシュは彼らを見ることすらしなかった。
背中から大戦斧を抜く。
ただ、それだけだった。
次の瞬間、大戦斧が水平に一閃される。
ズガァァァァァァッ!!
黒紫の雷光を纏った斬撃が、巨大な弧となって大広間を駆け抜けた。
先頭を走っていた騎士たちの分厚い鎧と大盾が、何の抵抗もなく切断される。
その後方にいた者たちまで黒雷の奔流へ呑み込まれ、悲鳴を上げる暇さえないまま床や柱へ叩きつけられた。
一撃。
たった一度、大戦斧を振るっただけだった。
それだけで、王宮の精鋭として選抜された近衛騎士たちは、誰一人として立っていなかった。
広間を、死のような静寂が包み込む。
「あ……あ、あぁ……」
オルガン伯爵は床へ這いつくばったまま、必死に後退していた。
その男の脳裏にも、ほんの一瞬だけ何かが浮かんだ。
『私の頭の中から出ていけ』
かつて自らの手で書き殴ったはずの言葉。
だが、それが何を意味していたのかを思い出すより先に、別の声が頭の奥へ響く。
――害する者を排除せよ。
伯爵の表情が再び歪んだ。
「こ、殺せ……! こいつを、殺せ……!」
しかし、助けに来る者などもういなかった。
カツン。
カツン。
黒紫の雷光を纏ったパラシュが、感情のない足取りで近づいてくる。
伯爵はそこで初めて、自分がこれまで見下し、罵倒し、踏みつけてきた者たちと同じように、圧倒的な力の前へ無力な存在として放り出された。
「ま、待て……!」
パラシュが目の前で止まる。
「悪かった……私が悪かった! 金ならやる! 領地も、財産も……何でも好きに持っていけ! だから命だけは……!」
パラシュは、何も答えなかった。
黒紫に染まった瞳が、ただ伯爵を見下ろしている。
そこに復讐の喜びはない。
母を侮辱された怒りもない。
憎しみさえなかった。
大戦斧が、ゆっくりと持ち上がる。
「待て……待ってくれ……!」
ザシュッ――!
振り下ろされた刃が、床を赤く染めた。
「ぎゃああああああああッ!!」
伯爵の絶叫が、王宮大広間へ響き渡る。
二度。
三度。
大戦斧は何の躊躇もなく振り下ろされ続けた。
パラシュは相手の懇願にも、悲鳴にも、血にも何一つ反応を示さない。ただ障害物を取り除くように、機械的な動作で斧を振るい続ける。
やがて絶叫は途絶えた。
青大理石の床へ広がった鮮血の中央には、先ほどまで王都の権力者として威勢を振るっていたオルガン伯爵の姿は、もはや残っていなかった。
「パラシュ……」
背後から、ドミニクの震える声が響く。
「お前……何を……」
バクも、カクスも、リクトも動けなかった。
自分たちも数え切れないほど魔族を倒してきた。
人が死ぬ光景だって、嫌というほど見てきた。
それでも、今目の前にいるパラシュへ近づくことだけは、本能が拒絶していた。
なぜなら、そこには戦いを終えた人間の感情が何一つ存在していなかったからだ。
かつて貧民街でネロと食べ物を分け合い、仲間を守るためなら自分が傷つくことさえ厭わなかった青年。
母から「弱い者を守れる人間になれ」と教えられ、その言葉を胸に勇者として戦い続けてきたパラシュ。
その面影が、今の彼からは完全に失われている。
パラシュは血の滴る大戦斧を肩へ担ぎ直した。
そして、黒紫の瞳をゆっくりと広間の奥へ向ける。
逃げ惑う貴族たち。
権力へ縋りつき、弱者を踏みつけながら富を貪ってきた者たち。
そのさらに奥には、白亜の回廊によって繋がれた王宮の中枢と、王都の支配階級が集う貴族街が広がっている。
パラシュの唇が僅かに動いた。
「……害する者を、排除する」
抑揚のない、乾いた声だった。
「この国を蝕むものを……すべて」
その言葉だけを聞けば、かつてのパラシュが願っていたものと何も変わらないようにも思えた。
腐敗した貴族を倒す。
弱者を踏みにじる者を排除する。
母のような人間が二度と理不尽に殺されない国を作る。
だが今、その理想を語る声には、人間を救いたいという温度が一欠片も残っていなかった。
誰を「害する者」と判断するのか。
何を「不要」と定めるのか。
そして、その判断を下しているのが本当にパラシュ自身なのか。
その答えを知る者は、この場には一人もいなかった。
黒紫の雷光を纏ったまま、パラシュはゆっくりと歩き始める。
その先に待つのが、かつて彼が望んだ王座なのか。
それとも、さらに深い何かの意志なのか。
《暁の刃》の四人は、ただ恐怖に凍りついたまま、かつての仲間が白亜の王宮の奥へと消えていく背中を見送ることしかできなかった。




