第28話 異変
翌朝。
夜明けの光が盆地を囲む山々の稜線から差し込み始めた頃、ネロはほとんど眠ることができないまま寝台から身体を起こした。
昨夜から何度も脳裏へ蘇っているのは、黄ばんだ紙面へ狂ったように書き殴られていたオルガン伯爵の文字だった。妻を愛していると訴えながら、自分自身の中へ入り込んでくる何かに怯え、最後には「彼女を逃がさなければ」「私の頭の中から出ていけ」と必死に抗っていた、一人の男の悲痛な叫び。
そして、その日記を見つけるために自分がしたことも、ネロの胸へ重く引っかかり続けていた。
ルミナの許可も得ず、彼女が眠っている間に手荷物を勝手に開け、中身を調べた。
たとえ彼女を狙う理由を知りたかったからとはいえ、やっていいことではなかった。
ネロはしばらく膝の上で拳を握り締めていたが、やがて覚悟を決めると、床へ置いていた深緑色の革表紙の日記を手に取った。
◇ ◇ ◇
「……ルミナさん。ラダ。朝から悪いんだけど、二人に話しておきたいことがあるんだ」
簡素な食卓には、昨夜の残りのパンと温かなスープが並んでいた。
ラダが不思議そうに首を傾げ、ルミナも手にしていた木製のカップを静かに卓上へ戻す。
「どうかなさいましたか、ネロ様?」
「その……まず、ルミナさんに謝らなくちゃいけない」
ネロは二人の向かいへ腰を下ろすと、膝の上に置いていた一冊の本を食卓へ載せた。
深緑色の革表紙。その中央へ刻み込まれた「絡み合う双頭の毒蛇」の紋章を目にした瞬間、ルミナの青みがかった瞳が大きく見開かれた。
「それは……伯爵家の……」
「うん」
ネロは俯きかけた顔を上げ、ルミナの目を真っ直ぐに見つめた。
「昨夜、ルミナさんが眠ったあと……僕、君の荷物を勝手に開けたんだ」
「え……?」
ルミナの表情が固まる。
隣のラダも驚いたようにネロを見つめた。
「昨日、伯爵家の騎士たちがあそこまでしてルミナさんを殺そうとした理由が、どうしても気になって……。荷物の中に何か手掛かりがあるんじゃないかと思ったんだ」
ネロは両手を膝の上で強く握った。
「でも、勝手に人の荷物を見るなんて、やっぱり良くなかった。理由があったからって許されることじゃないと思う。本当にごめん」
深く頭を下げる。
しばらくの間、食卓を静寂が包み込んだ。
やがてルミナが、卓上の日記へ恐る恐る指先を伸ばした。
「……確かに、驚きました」
「ごめん……」
「ですが、ネロ様が私を傷つけるためにしたことではないことくらい、私にも分かります」
ルミナは複雑そうな表情を浮かべながら、革表紙の紋章を指先でなぞった。
「それに……この本は、私も荷物の中に入っていることには気づいておりました」
今度はネロが目を丸くする。
「知ってたの?」
「はい。ただ、屋敷を追い出された時には頭の中が真っ白で、渡された荷物の中身をまともに確かめる余裕などありませんでした。森へ迷い込んでから、一度だけ荷物を開いた時に、この紋章の本が入っていることには気づきましたけれど……」
ルミナの指が僅かに震える。
「あの頃の私は、伯爵様に関係するものを見ること自体が怖かったのです。何が書かれているのか確かめる勇気もなく、ただ袋の底へ押し込んだままにしておりました」
「……そうだったんだ」
ネロは日記へ視線を落としたあと、もう一度ルミナを見た。
「勝手に読んだ僕が言えることじゃないんだけど……ルミナさんにも、これを読んでほしいんだ」
「私に……?」
「うん。たぶん、知らなきゃいけないことが書いてある」
ネロの表情に冗談の色が一切ないことを察したのか、ルミナはしばらく日記を見つめた末、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
ラダも椅子を寄せ、三人は食卓を囲むようにして日記を開いた。
最初に現れたのは、昨日ネロが一人で読んだものと同じ、端正で流麗な筆跡だった。
『人は、神の与えしステータスやジョブの数値のみで測られるべきではない。低位のジョブを理由に理不尽に虐げられる民を救い、生まれや数字に囚われぬ公正な制度を整えることこそが、領主たる私の責務である』
「……伯爵様が?」
ルミナの唇から、掠れた声が零れた。
頁をめくる。
そこには、低位ジョブを理由に職を奪われた者への救済制度や、貧しい領民の税負担を軽減するために奔走していた記録が残されていた。
さらに頁を進めれば、その文章の中へ何度も「ルミナ」という名前が現れる。
『本日、年若きルミナが我が家へ嫁いできた。政略結婚とはいえ、この小さく愛らしい妻を、生涯をかけて守り抜くと神に誓おう』
ルミナの指が止まった。
『ルミナの淹れてくれる茶は素晴らしい。彼女の柔らかな笑顔を見るたび、制度改革の過酷な重圧を忘れることができる』
その先には、ルミナが初めて焼いた菓子を少し焦がしてしまった日のことや、体調を崩した彼女を心配して議会への出席を取りやめた日のことまで、何気ない夫婦の記憶が丁寧に書き残されていた。
「……覚えています」
ルミナが、ぽつりと呟いた。
「このお菓子……私、本当に焦がしてしまったんです。伯爵様は『少し香ばしい方が好みなのだ』なんて仰って、全部食べてくださって……」
懐かしむような微笑みが一瞬だけ浮かんだものの、すぐにその表情は苦しげに歪んだ。
「でも……いつからか、本当に別人のようになってしまったのです」
ラダは黙ったまま、次の頁へ目を向けていた。
やがて日付が半年前へ近づくにつれ、整っていた文字が少しずつ乱れていく。
『最近、酷い頭痛がする。神殿へ祈りを捧げに行くたび、頭の奥で何かがギシギシと軋むのだ』
『なぜだろう。あれほど愛おしかったルミナの顔を見ることが、時折ひどく不快に感じられる。「ここにいてはならない」「不要だ」「価値がない」という声が、私自身の考えであるかのように頭の中へ入り込んでくる』
ルミナの顔から血の気が引いていった。
震える指先で、さらに頁をめくる。
『違う。私はルミナを愛している。愛しているはずだ。ではなぜ今日、私は彼女をあれほど理不尽に罵倒してしまったのだ。怯える彼女の瞳を見て、なぜ私は何も感じずにいられた?』
「……そんな……」
ルミナの声が震える。
『謝ろうとした。抱き締めようとした。だが身体が動かなかった』
その一文を目にした瞬間、ルミナは堪えきれなくなったように片手で口元を覆った。
ネロもラダも、何も言わなかった。
今ここで軽々しく慰めることなどできない。
ルミナが受けた仕打ちは間違いなく現実だった。罵倒された恐怖も、見捨てられた絶望も、何一つ消えてはいない。
それでも同時に、その裏側で夫自身も自らの変貌に怯え、必死に抵抗していたこともまた、この日記には残されていた。
そして最後の頁。
『神の声が聞こえる』
『二十歳は限界だ。排除せよ。廃棄せよ。入れ替えろ。新しい器を用意しろ』
「……二十歳……」
ルミナの唇が、小さく動いた。
自分自身の年齢と同じ数字だった。
だが、その意味を考える間もなく、その下に続く文章が三人の視線を奪った。
『嫌だ、ルミナを殺したくない、追い出したくない』
『私は彼女を愛している』
『彼女を逃がさなければ』
『私から』
余白いっぱいに埋め尽くされた、
『私の頭の中から出ていけ』
という文字。
その狂気的な筆跡を最後まで読み終えた時、食卓には長い沈黙が落ちた。
ラダが青ざめた顔で、自分の両腕を抱く。
「……ネロ様」
「うん」
「やっぱり……似ています」
ラダの琥珀色の瞳が、不安そうに揺れていた。
「《暁の刃》の皆さんも、この村の方々も……最初からそうだったわけではないのに、途中から突然おかしくなったのでしょう?」
ネロはゆっくりと頷いた。
「うん。伯爵も同じだったんだと思う」
「それなら……本当に、何かが人の心を変えているのでしょうか」
「まだ分からない。でも、少なくとも『力を持ったから本性が出ただけ』って話では説明できないと思う」
その言葉を聞きながら、ルミナは日記を両手で抱き締めていた。
ぽたり、と一滴の涙が革表紙へ落ちる。
「……分かりません」
二人がルミナを見る。
「私は……伯爵様が怖かったです」
静かな声だった。
「顔を見るだけで身体が強張るようになって、声を掛けられるたびに、また何か酷いことを言われるのではないかと思っていました。最後には『男子すら産めぬ役立たず』と罵られ、持参金も権利も奪われて……私は、あの方が心の底から私を憎んでいるのだと思っていました」
ルミナは震える息を吐いた。
「でも……昔は、本当にお優しい方だったんです」
日記を抱く腕へ力が籠もる。
「この手記が本当なら、あの頃の伯爵様も消えてしまったわけではなかった。ずっと……どこかで抵抗していらしたのですね」
瞳から、次々と涙が零れ落ちた。
「だったら私は……一体、どうすれば……」
ネロは答えられなかった。
伯爵を許せばいいとは思わない。
どれほど外から心を歪められていたとしても、ルミナが傷つけられた事実そのものが消えるわけではない。
だが、伯爵もまた何かに抗いながら壊されていったのだとすれば、単純な悪人として憎み続けることも難しい。
「……今すぐ答えを出さなくてもいいと思う」
ネロは静かに言った。
「ルミナさんが怖かったことも、傷ついたことも、本当なんだから」
「ネロ様……」
「ただ……僕は、伯爵に何が起きていたのか知りたい」
ネロは日記へ目を落とした。
「パラシュたちにも、この村の人たちにも似たことが起きてる。もし全部が繋がってるなら……この世界には、僕たちが知らない何かがある」
ルミナが静かに頷こうとした、その時だった。
森の奥から、微かなざわめきが聞こえてきた。
最初は木々を揺らす風の音かと思ったが、耳を澄ませるうちに、それが一つの音ではないことに気づく。幾重にも重なる慌ただしい足音に、誰かを呼ぶ声や泣き声、切羽詰まった叫びまでが混じり合い、少しずつこちらへ近づいてきていた。
「何……?」
ラダが訝しげに顔を上げる。
やがて、その騒めきは家の中にいてもはっきりと聞き取れるほど大きくなり、直後、外から村人の慌てた怒鳴り声が響いた。
「大変だ! 森から大勢の人が来るぞ!」
ネロたちは顔を見合わせると、すぐに家を飛び出した。
◇ ◇ ◇
村の入り口へ駆けつけた三人の視界に飛び込んできたのは、異様な光景だった。
鬱蒼とした原生林を抜け、盆地へ次々と雪崩れ込んでくる人々。
重装の兵士でもなければ、魔族でもない。
擦り切れた衣服のまま背負えるだけの家財を抱え、幼い子どもの手を引き、泥にまみれた手押し車を押しながら必死に歩いてくる、数百人にも及ぶ平民たちだった。
「入れてくれ……! 頼む、少しだけでも匿ってくれ!」
「王都はもう駄目だ! 街中が滅茶苦茶なんだよ……!」
「水を……お願いです、子どもに水を……!」
疲労の限界を超えた男たちが地面へ膝をつき、若い娘たちや子どもたちも青ざめた顔で互いの身体を支え合っている。
突然押し寄せた避難民の数に村人たちは面食らっていたが、エルドを中心にすぐ水や乾パンを運び始めた。
「いったい、どうやってこの村を見つけたんだい?」
エルドが水筒を手渡しながら尋ねる。
一人の男が荒い息を整え、森の奥を指差した。
「街道を逃げてる途中で……森へ入ったところに、何頭もの馬が通った跡があったんだ。轍も蹄跡もまだ新しくて……他に隠れられそうな場所もなかったから、それを辿ってきたら、この谷へ……」
ネロの胸が小さく騒いだ。
昨日、ルミナを殺すためこの村へ乗り込んできたオルガン伯爵家の騎士たち。
彼らが残した痕跡が、皮肉にも王都から逃げ延びた人々をここまで導いたらしい。
しかし、今はそれ以上に気になることがあった。
「王都で……何があったんです?」
ネロが尋ねる。
避難民たちの表情が、一斉に強張った。
「勇者様だよ……」
泥まみれの男が震える唇を開いた。
「神託の勇者……パラシュが、王都で暴れてるんだ……!」
「パラシュが?」
ネロの顔から血の気が引いた。
その名前を聞いた瞬間、ラダも息を呑む。
避難民たちが次々と語り始めたのは、耳を疑うような惨状だった。
王宮の大広間で、オルガン伯爵が殺された。
「……え?」
それまで日記を胸元へ抱いていたルミナの身体が、目に見えて揺れた。
「今……何と……?」
「あんた、知り合いなのか……?」
男は戸惑いながらも続ける。
「オルガン伯爵だ。勇者パラシュに王宮で殺されたって話だ……。それから勇者は黒い雷みたいなものを纏ったまま王宮中を進んで、止めようとした近衛騎士たちを片っ端から薙ぎ倒したらしい」
ルミナの手から日記が滑り落ちかけた。
ネロが咄嗟に手を伸ばし、革表紙を支える。
「伯爵様が……亡くなられた……?」
「ルミナさん……」
青ざめた彼女は、すぐには泣かなかった。
つい先ほどまで、自分を追い出した夫が本当は何かへ抗い、自分を逃がそうとしていたのかもしれないと知ったばかりだった。
その真意を本人へ尋ねる機会が、もう永遠に失われてしまった。
ルミナは震える両手で日記を抱え直し、呆然とその場に立ち尽くした。
一方、避難民たちの話は続いていく。
パラシュは現在も貴族街を中心に暴走しており、立ち塞がる騎士や私兵を次々と薙ぎ倒しながら、権力者たちの屋敷を破壊して回っているという。
各地で火災が起こり、その混乱はとうとう平民街にまで波及していた。
「あいつは化け物だ……!」
男が両手で頭を抱えた。
「何十人で囲んでも、斧を一回振っただけで全部吹き飛ばされるんだ! 騎士団だろうが何だろうが、誰も止められねえ!」
「……あれは天罰なんじゃないのか? そうだ……そうに違いない!」
群衆の片隅から、掠れた声が響いた。
振り返れば、恐怖に血走った目をした中年の商人が、自分の胸元を掻きむしりながら空を仰いでいる。
「グラン・アルカの貴族どもは神託を軽んじ、絶対神である童子様の御心に背いて私腹を肥やしてきた……。弱い者から金を搾り取り、神から選ばれた勇者まで蔑ろにした!」
男は何かへ必死に縋りつくように、震える両手を組んだ。
「だから神様がお怒りになったんだ……。神託の勇者様を通じて、腐った連中へ裁きを下しているんだよ! そうだ、あれは天罰なんだ……そうに決まってる!」
「そうだ……神様の裁きなんだ……」
「あんなことが起きるのにも、きっと意味があるはずだ……」
極度の恐怖へ耐えるためなのか、周囲の何人かまで、その言葉へ縋るように頷き始めた。
目の前で起きている惨劇を「神の正義」だと思い込まなければ、世界そのものが壊れていく現実を受け止められないのかもしれない。
だが、ネロにはもう、その言葉を素直に受け入れることなどできなかった。
(……やっぱり、同じだ)
つい先ほど三人で読んだ伯爵の日記が、鮮明に脳裏へ蘇る。
自分でも望んでいない考えを植えつけられ、愛する妻を「不要」だと感じるようになり、それでも最後まで必死に抗っていた男。
そして、パラシュもまた、かつての姿からは想像もつかないほど変貌している。
「ネロ様……」
ラダが小さく呼びかけた。
ネロは頷く。
「……オルガン伯爵の日記と同じだと思う」
今度は、その言葉を隠す必要はなかった。
ルミナもラダも、すでに日記の内容を知っている。
「あの人も、自分の意思とは違う考えにずっと苦しんでた。パラシュにも、同じようなことが起きてるのかもしれない」
「では……パラシュ様も、誰かに心を……?」
「まだ分からない。でも、僕の知ってるパラシュは、こんな風に人を殺して回る奴じゃない」
ネロは拳を強く握った。
幼い頃から短気で、不器用で、喧嘩っ早かった。
それでも弱い者が傷つけられれば誰よりも怒り、自分が腹を空かせていても困っている人間へパンを分けるような少年だった。
母親から教えられた「弱い人を守れる人になりなさい」という言葉を、誰よりも大切にしていた。
それが、レベルを重ねるにつれて少しずつ変わっていった。
そして今、ついにLv.99という頂へ到達した直後、王都を血に染めるほどの暴走を始めた。
(偶然じゃない)
ネロには、もはやそう思えなかった。
伯爵も、パラシュも、そしてジナを見た途端に豹変した村人たちも、自分の意思とは別の何かによって心を歪められている。
正体までは分からない。
神なのか。
ステータスなのか。
あるいは、そのさらに奥に別の何かが存在しているのか。
それでも、このまま放置すれば、パラシュは王都を破壊し尽くすだけでは済まない。その先で、自分自身まで完全に壊れてしまうかもしれない。
ネロは一度だけ目を閉じ、幼い頃の記憶を思い返した。
貧民街の路地裏で初めて出会った少年。
互いに何も持っていなかった。
泥だらけになって食べ物を分け合い、何度も喧嘩をし、それでも長い年月を肩を並べて歩いてきた幼馴染。
自分を追放したことへの怒りも、傷つけられた悲しみも、今なお消えたわけではない。
それでも、あの頃のパラシュまで偽物だったとは思えなかった。
「……僕、王都へ行く」
ざわめく広場の中で、ネロの声が静かに響いた。
「ネロ様……!?」
ラダが息を呑む。
ルミナも、日記を胸元へ抱いたまま顔を上げた。
「パラシュは僕の幼馴染なんだ」
ネロは二人へ向き直った。
「あいつがやったことを、なかったことにはできない。でも、あいつが最初からあんな人間だったなんて、僕にはどうしても思えない」
「ネロ様……」
「伯爵の日記を読んで、もっとそう思った。パラシュにも何かが起きてる。誰かが裏で糸を引いているのか、この世界の仕組み自体がおかしいのかはまだ分からないけど……このまま見捨てることだけはできない」
ネロは腰元の木製横笛へ手を添えた。
「僕の手で、パラシュを止める」
そして、少し躊躇ってから二人を見た。
「……ラダとルミナさんは、この村に残っていてほしい。今の王都は、あまりにも危険すぎる」
しかし、返ってきた答えは早かった。
「嫌です、ネロ様」
ラダが一歩前へ進み出る。
以前ならネロから何かを命じられれば、反射的に「はい」と答えていたであろう彼女が、今は自分自身の意思ではっきりと拒絶していた。
琥珀色の瞳が、ネロの碧眼を真っ直ぐに見つめ返す。
「ネロ様のいらっしゃらない場所に、私だけ残ることなどできません」
「でも、ラダ……」
「私は、もう何も選べなかった頃の私ではありません」
その言葉に、ネロは目を見開いた。
ラダは胸元で両手を握り締めながら、それでも視線を逸らさなかった。
「奴隷だった私を救い、生きることを教えてくださったのはネロ様です。でも……だからこそ今度は、私自身で選びたいのです」
一度だけ深く息を吸い、ラダは静かに言い切った。
「私は、ネロ様と一緒に行きます」
その声音には、以前のような怯えや服従ではなく、一人の人間としての明確な意志が宿っていた。
ネロが言葉を失っていると、その隣からルミナも静かに歩み出る。
「私も参ります、ネロ様」
「ルミナさんまで……」
「伯爵様が亡くなられたことを、私は今までのように『当然の報いだった』とは思えなくなってしまいました」
ルミナは胸元に抱いた日記へ視線を落とす。
「私はあの方が恐ろしかった。それでも、かつて私を愛してくださった伯爵様も、最後まで何かに抗っていた伯爵様も、同じ人だったのだと知ってしまった」
震えかけた声を押し留め、ルミナは顔を上げた。
「もう本人へ確かめることはできません。だからせめて、伯爵様に何が起きていたのか……そして、今パラシュ様に何が起きているのかを、この目で見届けたいのです」
「でも、王都は本当に危険なんだ」
「承知しております」
ルミナは静かに頷いた。
「それでも、私は行きます。これはネロ様に救っていただいた命ですけれど、これからどう生きるかまで、すべて誰かに決めてもらうつもりはございません」
その言葉を聞き、ネロは僅かに息を呑んだ。
ラダもルミナも、自分自身で考え、自分自身の意志によって同行すると決めている。
それを「危険だから」という理由だけで一方的に否定することは、今のネロにはできなかった。
「……分かった。一緒に行こう」
ネロは小さく息を吐いた。
「でも、絶対に無茶はしないで。それと、できるだけ僕の傍から離れないでほしい」
「はい!」
「ええ、もちろんですわ」
二人の返事を聞き、ネロは腰の革帯から木製の横笛を抜き取った。
王都で待つものが何なのかは分からない。
パラシュの力がどれほど強大になっているのかも分からない以上、二人を連れていくなら、できる限りの備えを整えておかなければならなかった。
ネロは静かに目を閉じる。
呼び起こすのは、モヒーニカから与えられた黄金の神気ではない。
ルミナを世界から繋ぎ止めた時に掴み取った、あの奔放で荒々しい律動。
世界の歪みへ耳を澄ませ、その場で必要な旋律を自分自身の音によって組み上げていく。
(攻撃を受け止めるんじゃない。三人に届く前に、音の流れそのものを逸らす……)
横笛へ、ゆっくりと息を吹き込んだ。
ピィィィ……キィィン……。
低く僅かにざらついた重厚な旋律が大気を震わせる。
ネロは三人の周囲を流れる空気、魔素の揺らぎ、身体へ伝わる微細な振動を一つずつ拾い上げ、それらを包み込むように即興の音律を重ねていった。
やがて青白い燐光が薄い膜となって三人を取り囲み、皮膚から僅かに離れた位置へ幾重もの防護層を形成していく。
物理的な衝撃や魔力による攻撃だけではない。
外部から精神へ入り込もうとする異質な波長さえ、触れた瞬間に歪みを検知し、干渉を逸らすための調律だった。
旋律を終えたネロは、自分の腕の周囲へ淡く揺れる光を確かめた。
「……これなら、かなり防げると思う」
もちろん、どんな攻撃でも絶対に防げると断言できるほど、ネロ自身もこの新しい調律を理解しているわけではない。
それでも、何の備えもなく王都へ向かうより遥かに安全なはずだった。
続いてネロは、避難民の対応に追われているエルドへ事情を話し、村で飼育されている二頭の丈夫な輓馬を借りられないか頼み込んだ。
「王都へ行くってのかい!?」
エルドは目を剥いた。
「今からあそこへ行くなんて、自分から死地へ飛び込むようなもんだぞ!」
「それでも、行かなきゃいけないんです」
ネロの表情をしばらく見つめた末、エルドは深く溜息を吐いた。
「……分かったよ。どうせ止めたところで行く顔をしてる」
ほどなくして連れてこられたのは、農耕用に飼育されていた二頭の輓馬だった。
競走馬ほど脚は長くないものの、太い胴と逞しい四肢を持ち、山道や荒れた街道を長距離移動するには適している。
ネロは再び横笛を構え、今度は馬たちの呼吸、筋肉の動き、四肢から大地へ伝わる振動へ意識を集中させた。
そこへ軽快で力強い旋律を重ねていく。
ピィ――ッ、ヒュルルル……!
音律が二頭の全身へ浸透すると、呼吸と筋肉の動きが噛み合うように整えられ、馬たちは先ほどよりも力強く地面を掻き始めた。
疲労そのものを消し去るわけではない。
ただ、無駄な力を極限まで減らし、本来持っている脚力を最大限に引き出すよう調律したのだ。
「これなら、かなり速く走れると思う」
ネロは満足そうに頷き、それからルミナへ振り返った。
「ルミナさんは、馬に乗れるかい?」
「ええ。貴族の嗜みとして、幼い頃から乗馬は習っておりますわ」
そう答えると、ルミナは日記を自分の小さな手荷物へ大切に収め、慣れた手つきで手綱を取った。
鐙へ足を掛け、危なげのない動作で軽やかに馬の背へ跨がる。
一方、もう一頭の前ではラダが困り果てたように立ち尽くしていた。
長い耳がぺたりと伏せられ、大きな馬を見上げたまま全身を強張らせている。
「ラダ……? どうかしたの?」
「あ、あの……ネロ様……」
ラダは困ったように両手の指を絡ませた。
「私……森で暮らしていた頃にも、このような大きな動物へ乗る機会はありませんでしたし、その後はずっと……」
言葉の途中で、奴隷として過ごした日々を思い出したのだろう。
一瞬だけ瞳が曇った。
「ですので……馬には、一度も乗ったことがなくて……」
目の前の馬が、ブルルッと大きく鼻を鳴らす。
「ひゃっ……!」
ラダの肩が大きく跳ね、思わずネロの袖へ縋りついた。
その反応に、ネロは少しだけ笑みを浮かべた。
「そっか。乗ったことなかったんだね」
「す、すみません……」
「謝らなくていいよ。じゃあ、一緒に乗ろう」
「え?」
ネロはラダの細い腰へ両腕を回し、その身体を慎重に持ち上げた。
「ひゃっ……!? ネ、ネロ様!?」
突然身体が宙へ浮かび、ラダの口から愛らしい悲鳴が漏れる。
ネロはそのまま彼女を鞍の前方へ座らせると、自分も鐙を踏んで背後へ跨がった。
後ろからラダを包み込むように腕を伸ばし、その前で手綱を握る。
「僕が支えてるから大丈夫。ラダは無理に手綱を持たなくていいよ。怖かったら鞍を掴んでて」
「は、はい……っ」
背中へ伝わってくるネロの体温に気づき、ラダの白い頬がみるみる赤く染まっていった。
長い耳の先まで朱色になっているものの、先ほどまで強張っていた身体からは少しずつ力が抜け、やがてネロへ背中を預けるように落ち着いていく。
「……ネロ様が後ろにいてくださるなら、大丈夫そうです」
「うん。絶対に落とさないから」
準備は整った。
ネロが手綱を握り直した、その時だった。
ふわりと、場違いなほど甘い百合の香りが朝風へ混じった。
「……ネロ。愚かな真似はおやめなさい」
冷え切った鈴の音を思わせる声。
周囲の誰一人として反応しないその声を聞き取った瞬間、ネロの表情が強張った。
視線の先で空間が淡く揺らぎ、白銀と黄金の燐光が集まっていく。
やがて薄絹を纏った少女の姿をした女神モヒーニカが、ネロにだけ見える姿で現れた。
ラダもルミナも、その姿も声も知覚することはできない。
しかしラダは、ネロが突然何もない空間を見つめたことで、すぐに事情を察したらしい。
「……モヒーニカ様が、いらっしゃるのですか?」
「うん」
ネロは短く答えた。
モヒーニカの顔には、いつもの甘やかな微笑みなど浮かんでいなかった。
藍色の双眸が冷たく細められ、まるで自分の思い通りにならない子どもを咎めるかのように、ネロを真っ直ぐに見据えている。
「パラシュという男は、もう以前の彼とは違いますわ。王都であれほどの惨劇を引き起こしている者へ、今さら貴方の言葉など届きません」
ネロは黙ったまま女神を見つめ返した。
「それでも助けようなどと考えるのは、あまりにも愚かなことです」
モヒーニカの声音が、僅かに甘さを取り戻す。
「愛しいネロ。貴方はもう十分に傷つきましたでしょう? 貴方を捨てた者のために、これ以上自らを危険へ晒す必要などありません」
ふわりと浮かび上がり、ネロのすぐ傍へ近づく。
「この村には、貴方を慕う者たちがいる。ラダも、ルミナも、貴方を必要としております。そして、何より私がいるではありませんか」
冷涼な指先が、ネロの頬へ触れようと伸びてくる。
「ですから、もう過去などお捨てなさい。私の言葉を信じ、この穏やかな場所で暮らしていればよいのです」
ネロは、その手から顔を逸らした。
伸ばされたモヒーニカの指先が、行き場を失ったまま虚空で止まる。
「……ネロ?」
昨夜、自分が問いを重ねた時、モヒーニカは何一つ答えようとしなかった。
それどころか、神気によってネロの意識そのものを曇らせ、考えることをやめさせようとした。
伯爵の日記。
消えていく女性たち。
村人たちの失われた記憶。
ジナの警告。
ステータスから「回復不能」と断定されながら、それでも生還したルミナ。
そして、レベルを上げるたびに変貌していったパラシュたち。
もう、甘い言葉を聞いただけで、それらすべてから目を逸らすことなどできなかった。
ネロは顔を上げ、自分にしか見えない女神を真っ直ぐに睨み返す。
「――断る」
モヒーニカの藍色の瞳が、僅かに見開かれた。
「……何と?」
「僕はパラシュを見捨てない」
ネロの声音は、もう震えていなかった。
「あいつが僕を追放したことも、酷いことを言ったことも、全部なかったことにはできない。でも、だからって……苦しんでいるあいつを、このまま見殺しにすることもできない」
「ネロ、それは――」
「それに、僕はもう、神様がそう言ったからって、それだけで全部を信じるつもりはない」
モヒーニカの表情が止まった。
「僕は実際に見たんだ。ルミナさんが消えかけた時、ステータスには『回復不能』って書いてあった。でも、それは絶対じゃなかった」
モヒーニカは何も答えない。
「村のみんなも、ステータスにそう書いてあるから助からないって諦めた。モヒーニカも、もう助けられないって言った。でも……ルミナさんは今、ここにいる」
ネロは腰元の横笛を強く握った。
「だから、世界が決めた答えだろうが、神様が決めた答えだろうが、それだけを理由に自分の目で見たものまで否定するのは、もうやめる」
モヒーニカの藍色の双眸から、完全に温度が失われていく。
「……神の御心へ逆らうおつもりですの?」
かつてのネロなら、その問いを向けられただけで怯えていたかもしれない。
自分を死の淵から救ってくれた女神。
誰にも価値を認めてもらえなかったレベル0の自分を、「愛しい勇者」と呼んでくれた存在。
その相手から拒絶されることが、何よりも怖かった。
それでも今のネロには、自分の心より先に従うべき言葉などなかった。
「僕は……神様に逆らいたいんじゃない」
静かに息を吸い、ネロは続けた。
「間違っていると思ったものに、従いたくないだけだ」
モヒーニカの表情から、最後に残っていた慈愛の色さえ消え失せた。
だが、ネロはそれ以上女神へ何も言わなかった。
前を向き、手綱をしっかりと握る。
「行こう、ラダ。ルミナさん」
「はい、ネロ様!」
「ええ!」
ネロが踵で馬の腹を軽く促した。
「ハッ!」
二頭の馬が一斉に大地を蹴る。
調律によって身体の働きを整えられた馬たちは、力強い蹄音を響かせながら一気に加速し、黄塵を巻き上げて森へ続く道を駆け出した。
ラダの黒髪が激しい風にたなびき、その少し先を走るルミナの淡い金髪も朝日の中で煌めく。
避難民たちが驚きながら道を開ける中、三人を乗せた二頭の馬は盆地を抜け、王都へ続く街道を猛烈な勢いで駆けていった。
◇ ◇ ◇
やがて、巻き上がっていた砂埃がゆっくりと地面へ落ちていく。
村外れの街道には、モヒーニカだけが静かに佇んでいた。
もちろん、周囲で避難民の世話を続けている村人たちには、その姿を見ることも、声を聞くこともできない。
藍色の双眸は、すでに地平線の向こうへ消えたネロたちの姿をいつまでもう追い続けている。
慈愛に満ちた微笑みはなかった。
子どものように拗ねていた時の感情も、愛しい勇者へ向けていた甘やかな色も、今の彼女の美しい相貌からはすべて消えている。
しばらくの沈黙のあと、モヒーニカの唇が僅かに動いた。
「……少し、自由にさせ過ぎましたか」
それは先ほどまでネロへ向けていた声音とはまるで異なる、低く冷え切った呟きだった。
白銀と黄金の燐光が、彼女の身体の周囲へ静かに集まり始める。
「ここまで自ら考え、私の言葉を拒むようになるとは……」
細められた藍色の瞳には、もはや隠そうともしない冷徹な警戒が宿っていた。
それでも、彼女が何を考え、これから何をしようとしているのかまでは、誰にも知ることはできない。
やがてモヒーニカは、ネロたちが消えた街道の彼方を見つめながら、静かに口元を歪めた。
「もう、頃合いでしょう」
その言葉だけを残し、女神の身体は白銀と黄金の光へ包まれていった。
次の瞬間には無数の光の粒子だけが朝風へ舞い上がり、その姿は跡形もなく掻き消えている。
あとに残されたのは、王都へ続く長い街道と、その先へ真っ直ぐ刻まれた二頭の馬の蹄跡だけだった。




