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第29話 破壊された王都

白亜の都と讃えられた王都グラン・アルカの偉容は、もはや見る影もなく無惨に瓦解していた。


隠れ里から街道を駆け抜けてきたネロたちが辿り着いた外郭の正門は、中央から巨大な力で叩き割られたように崩壊し、ねじ曲がった鉄扉が赤黒く焼け爛れて煙を上げている。かつて王国の威信を示していた白亜の城壁にも無数の亀裂が走り、その表面には黒紫の雷光によって抉られた巨大な焦痕が幾筋も刻まれていた。


「……ここが、本当に王都なの……?」


馬を降りたラダが、信じられないものを見るように呟いた。


ネロも答えることができなかった。一歩城門を潜れば、鼻腔へ押し寄せてきたのは建物が焼けた焦熱臭と、生温かな血の匂いだった。


かつて行商人や冒険者、荷馬車で昼夜を問わず賑わっていた目抜き通りから人影はほとんど消え、ひび割れた石畳の窪みには乾ききっていない赤黒い血が溜まっている。通り沿いの建物はいくつも崩れ、ところどころから上がる黒煙が青空を汚していた。


その中には、ネロにとって見覚えのある冒険者ギルドの建物もあった。


「……そんな……」


玄関前の石畳には、黒雷へ巻き込まれたらしい遺体が幾つも倒れていた。


ネロがかつて何度も依頼を受け、仲間たちと帰還報告をした場所だった。カウンターの向こうからレベル0の自分へ侮蔑の眼差しを向けていた若い受付嬢も、酒場で《暁の刃》の活躍を肴に騒いでいた冒険者たちも、今は誰が誰なのかすら判別できないほど焼け焦げている。


自分を嘲笑した相手だったし、嫌な言葉を浴びせられた記憶も残っている。それでも、彼らがこんな死に方をして当然だとは、ネロには到底思えなかった。


「……パラシュ」


胸の奥が強く締め付けられる。


あの少年が、自分の意思でこれを望んだとは思いたくなかった。


三人は馬を近くの崩れていない建物の陰へ繋ぎ、徒歩で王宮へ向かった。中心部へ近づくほど被害はさらに酷くなり、貴族街では豪奢な邸宅が何軒も崩落し、庭園を飾っていた彫像は黒雷によって原形を失っている。


私兵や騎士だったと思われる者たちも道端に倒れ、ところどころではまだ消火しきれない炎が赤々と燃え続けていた。


やがて王宮へ辿り着くと、その巨大な門さえ半ばから崩れ落ちている。ネロたちは瓦礫の隙間を抜け、惨劇の始まりとなった大広間へ足を踏み入れた。


その瞬間、ルミナの足が止まった。


「……あ……」


掠れた声が喉の奥から零れる。


豪奢だったはずの王宮大広間は、黒雷によって見る影もなく破壊されていた。磨き抜かれていた青大理石は砕け、白亜の大柱は幾本も折れ、天井から吊るされていた巨大なシャンデリアも床へ落下して粉々になっている。


そして、その中央に広がる赤黒い血溜まりの中へ、深紅のビロードを纏った男の遺骸が残されていた。


四肢も胴体も、大戦斧によって何度も切り裂かれている。少し離れた場所には、恐怖と絶望を刻みつけたままの頭部が転がっていた。


オルガン伯爵だった。


「……あなた……?」


ルミナの身体が、小さく震えた。


ほんの少し前まで、この男は彼女にとって恐怖の象徴だった。愛していたはずの妻を突然蔑むようになり、子を産めない役立たずと罵倒し、権利も持参金も奪ったうえで屋敷から追放した夫。


だが、今朝になって初めて知った。


かつて自分を心から愛してくれていた夫は、完全に消えてしまっていたわけではなかった。日記の中で何度も自らの変貌に怯え、頭の中へ入り込んでくる何かへ抗い続け、最後には自分自身からルミナを逃がそうとしていた。


『私は彼女を愛している』


『彼女を逃がさなければ』


『私から』


その文字が、目の前の変わり果てた夫の姿へ重なる。


「あなた……どうして……こんな……」


ルミナの膝から力が抜けた。


そのまま崩れ落ちそうになった身体を、ネロが咄嗟に支える。


「ルミナさん……!」


ルミナはネロの腕へ縋りながらも、床に残された夫の遺骸から目を逸らすことができなかった。


「私……まだ、何も聞けていないのに……」


震える声だった。


「あの日記のことも……どうして私を逃がしたのかも……本当は、何を思っていらしたのかも……まだ何一つ……」


言葉が次第に嗚咽へ変わっていく。


ネロは何も言わず、彼女の肩をそっと支えた。


今さら伯爵が善人だったと言い切ることなどできないし、ルミナが傷つけられた事実も、多くの人々が彼の命令によって苦しめられた事実も消えない。それでも同時に、伯爵自身もまた何かに心を蝕まれながら、最後までその影響へ抵抗していたのかもしれなかった。


そして、その答えを直接本人から聞く機会はもう二度と戻らない。


パラシュが伯爵を殺した。


だが、そのパラシュ自身も今、何かに心を奪われている。


誰を責めればいいのかすら分からない惨状を前に、ネロは奥歯を噛み締めた。


しばらくして、ルミナがゆっくりと涙を拭った。


「……参りましょう、ネロ様」


「大丈夫?」


「大丈夫では……ありませんわ」


それでもルミナは、震える足へ力を込めて立ち上がった。


「ですが、ここで立ち止まっていても、伯爵様が何に苦しめられていたのかは分かりません。パラシュ様にも同じことが起きているのなら……せめて、あの方まで同じような最期を迎えさせないでください」


ネロは静かに頷いた。


「……うん。絶対に」


三人は大広間を抜け、王宮奥部へ続く回廊へ足を進めた。


その先にある王宮広場へ出たところで、ラダの長い耳が僅かに動く。


「……待ってください」


「ラダ?」


「誰かの声がします」


ラダは周囲へ耳を澄ませ、崩れ落ちた石柱が重なる大聖堂前の一角へ視線を向けた。


「……あちらです!」


三人はすぐに駆け出した。


瓦礫の山を回り込み、崩れた白亜の石柱の陰へ入った瞬間、ネロは息を呑んだ。


「……みんな!?」


そこには、血の海へ沈むようにして四人の人間が倒れていた。


ドミニク、バク、カクス、リクト。


かつて《暁の刃》として、ネロとともに幾つもの死線を潜り抜けてきた仲間たちだった。


四人は、大広間を去ったパラシュを追ってここまで来たのだろう。その代償はあまりにも凄惨で、バクの分厚い大盾は中央から溶け落ち、赤熱した金属の一部が前腕へ焼き付いている。


ドミニクの杖は根元から砕け、周囲には魔導石の破片が散乱していた。カクスとリクトも黒雷をまともに受けたらしく、全身へ酷い火傷を負い、骨折した四肢が不自然な角度へ曲がっている。


僅かに残された呼吸に合わせて胸が上下しているものの、このままではいつ止まってもおかしくない。


「……パラシュを、止めようとしたんだ……」


ネロの胸が締め付けられた。


あれほど冷酷に変わっていた四人が、それでも最後には仲間だったパラシュを追い、止めようとした。その事実だけでも、ネロには彼らの内側にまだかつての心が残っていたのだと思えた。


「が……ぁ……」


微かな呻きが聞こえた。


ドミニクの瞼が僅かに持ち上がり、焦点の合わない瞳がネロを捉える。


「ネ……ロ……?」


「待ってて。今、助けるから」


ネロはすぐに四人の傍へ膝をついた。


かつて浴びせられた罵倒も、追放された夜の痛みも、その瞬間だけは頭の中から消えていた。目の前にいるのは自分を傷つけた者たちであると同時に、もっと昔には一緒に笑い、戦い、命を預け合った仲間たちでもある。


死んでほしいと思ったことなど、一度もなかった。


ネロは腰から木製の横笛を取り出し、唇へ運んだ。


しかし、すぐには音を奏でなかった。


まず耳を澄ませる。


四人の呼吸、乱れきった心臓の鼓動、砕けた骨、損傷した内臓、そして魔力回路へ残る黒紫の異質な振動。それら一つ一つを自分の感覚へ取り込みながら、今この場で必要となる音の形を探っていく。


ルミナを救った時と同じだった。


決められた回復の旋律をそのまま使うのではなく、目の前で何が壊れているのかを聞き取り、その状態に必要な音を自らの手で組み上げなければならない。


(傷を治すだけじゃ駄目だ……)


ネロには聞こえていた。


四人の身体の奥深く、正常な生命の律動へ絡みつくように、ルミナを消滅させようとしていたものと似た、冷たく不自然な波長が存在している。


ただし、今回それが根を張っているのは肉体そのものではなかった。


もっと深い場所。


意識や感情、心そのものの輪郭へ食い込むように、異質な音が重なっている。


(……これが、みんなを変えていたものなのか?)


まだ確信はない。


だからこそ、自分の耳で確かめる。


ネロは深く息を吸い込むと、横笛へ静かに息を流し込んだ。


ピィィィ……キィィィィン――……。


流れ出したのは、黄金の神気によって整えられた美しい旋律ではない。


僅かな濁りを孕み、ときに耳へ引っ掛かるような不協和音を交えながら、それでも四人それぞれの生命の波長へ寄り添うように絶えず形を変えていく、奔放な調べだった。


ネロの指が動くたびに旋律もまた変化し、傷ついた箇所を探り当てては、その場所へ必要な響きを丁寧に重ねていく。


やがて青白い光の粒子が周囲の大気へ静かに現れ、幾重もの波紋となって四人の身体を包み込んだ。


「……すごい……」


ラダが息を呑む。


バクの腕へ焼き付いていた金属が、周囲を満たす青白い振動によって少しずつ剥離していく。砕けていた骨が本来あるべき位置へ引き寄せられ、裂けた筋肉と皮膚も繋がり始めた。


損傷した内臓も、四人自身の生命の律動へ沿うように、時間を巻き戻すのとは異なる自然な再生を始めている。


だが、ネロが最も強く意識を向けていたのは肉体の傷ではなかった。


四人の精神へ絡みついている、不自然な音。


それを力任せに壊すのではなく、本来そこに存在していた四人自身の律動を探し、その響きを少しずつ強めていく。


キィィ……。


旋律が大きく変化した瞬間、四人の身体が同時にびくりと跳ねた。


そして頭部から、黒紫を帯びた薄い靄のような揺らぎが、熱気に歪む陽炎のようにゆっくりと浮かび上がる。


「ネロ様……あれは……?」


「分からない。でも……これだけ、みんな自身の音と全然違う」


ネロは演奏を止めなかった。


青白い波紋が黒紫の揺らぎへ重なり、二つの異なる波長が激しく軋み合う。


ジジッ……!


耳障りな音が一瞬だけ響いた直後、黒紫の靄は形を保てなくなり、細かな粒子となって大気へ散っていった。


それとほぼ同時に、四人の表情から何かが抜け落ちる。


苦痛だけでは説明できないほど強張っていた顔がゆっくりと緩み、濁っていた瞳にも少しずつ人間らしい光が戻り始めた。


最後の一音が静かに大気へ溶ける。


ネロは横笛を口元から離し、荒くなった呼吸を整えようとした。


「はぁ……っ、はぁ……」


一度に四人の肉体を再生させ、その奥へ絡みついた異質な波長へまで干渉した反動は大きく、膝へまともに力が入らない。


それでも、目の前の四人は確かに呼吸を取り戻していた。


最初に身体を起こしたのは、ドミニクだった。


「う……」


震える両手を見つめ、自分の身体に残っていたはずの傷が消えていることを確かめる。その後、視線はゆっくりと目の前に座っているネロへ向けられた。


「……ネロ?」


その声には、以前のような冷たさも、相手を見下すような響きもなかった。


それを聞いた瞬間、ネロの胸の奥に懐かしい感覚が蘇る。


「ドミニク……」


ドミニクはしばらくネロの顔を見つめていたが、やがてその瞳が大きく揺れ始めた。


「俺……俺たちは……何を……」


頭を押さえたまま、顔色がみるみる青ざめていく。


「……全部、覚えてる」


掠れた声が震えた。


「お前を……俺たちは……」


その言葉に反応するように、バクたちも次々と意識を取り戻した。


カクスは自分の両手を見つめたあと、突然その場へ跪く。


「ネロ……俺たち、お前に……何てことを……」


リクトも唇を強く噛み締めた。


「ずっと一緒に戦ってきたのに……お前が誰より俺たちを助けてくれてたのに……」


彼らの脳裏へ蘇っているのは、自分たちがネロへ浴びせた言葉なのだろう。


役立たず。


寄生虫。


レベル0。


必要ない。


出ていけ。


かつてなら絶対に口にしなかったはずの言葉を、あの頃の彼らは何の躊躇もなく吐き捨てていた。


「すまない……!」


カクスが石畳へ両手をついた。


「ネロ、本当に……すまない……!」


リクトもその隣で深く頭を下げた。


バクは太い両手で顔を覆い、低い嗚咽を漏らしている。


「俺たち……どうかしてた……。お前の笛がなきゃ何度死んでたか分からねえのに、いつの間にか、その音を聞くだけで腹が立つようになって……邪魔だとか、弱いとか、そんなことばっか考えて……」


握り締めた拳が石畳へ落ちる。


「何で……あんなことを……」


ドミニクも膝をついた。


「謝って済むことじゃない。俺たちは、お前を傷つけた。それは消えない。たとえ俺たちが何かにおかしくされてたとしても……お前が苦しんだことまで、なかったことにはできない」


涙が、その頬を静かに伝っていった。


ネロはしばらく何も答えなかった。


以前の自分なら、すぐに「いいよ」と言っていたかもしれない。嫌われることが怖くて、自分の痛みなどどうでもいいと思い込み、相手を安心させるためだけに笑っていたかもしれなかった。


だが、今は少し違う。


「……うん。僕、すごく辛かった」


四人が顔を上げる。


「みんなに追い出された時、本当に……今まで一緒にいた時間は全部何だったんだろうって思った。僕が役に立てなかったから捨てられたんだって、ずっと自分を責めてた」


「ネロ……」


「だから、何もなかったことにはできないよ。でも……今のみんなを見てたら、あの時の言葉が全部、本当のみんなの気持ちだったとも思えない」


ネロはそう言ったあと、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「だから今は、生きててくれてよかった」


許すとも、許さないとも言わなかった。


それでも、その言葉だけで十分だったのかもしれない。バクは顔を覆ったまま泣き続け、カクスとリクトも声を抑えきれずに嗚咽を漏らしていた。


その時、ラダが四人を見つめながら、ふと眉を寄せる。


「ネロ様……」


「どうしたの?」


「皆さんのステータスを……もう一度、確認してみてはどうでしょうか」


ネロは目を瞬いた。


先ほど消えていった黒紫の揺らぎ。そして、《暁の刃》のレベルがここ最近、異常とも言える速度で上昇し続けていたこと。


確かめる価値は十分にある。


ネロは四人へ意識を向け、静かに言葉を発した。


「……ステータス・オープン」


ラダやルミナ、そして当人たちの視界にも、淡い光とともに情報が浮かび上がった。


【個体識別:ドミニク】

・Lv.0 ジョブ[ウィザード]

・状態:正常

・特記事項:精神侵食反応なし


【個体識別:バク】

・Lv.0 ジョブ[ガーディアン]

・状態:正常

・特記事項:精神侵食反応なし


【個体識別:カクス】

・Lv.0 ジョブ[プリースト]

・状態:正常

・特記事項:精神侵食反応なし


【個体識別:リクト】

・Lv.0 ジョブ[シーフ]

・状態:正常

・特記事項:精神侵食反応なし


誰も、すぐには言葉を発することができなかった。


「……ゼロ?」


ドミニクが呆然と呟いた。


以前の彼はLv.75。


バクはLv.72、カクスはLv.71、リクトはLv.73まで上昇していた。


それだけの数字が、跡形もなく消えている。


だが、四人の肉体まで過去へ巻き戻ったわけではなかった。鍛え上げてきた身体も、長年培ってきた技術も、魔法の知識も、本人たちの記憶も残されている。


失われたのは、ただ「レベル」という数字だけだった。


「……どういうことだ?」


バクが自分のステータスを何度も確認する。


その光景を見つめながら、ネロの背筋へ冷たいものが走った。


《暁の刃》のレベルは、ネロが追放されたあとから異常な勢いで上昇し始めた。それと歩調を合わせるように、彼らの感情は薄れ、他者への思いやりも失われていった。


そして今、自分の調律によって黒紫の異質な波長が消え、彼らの人格が以前の状態へ戻った途端、レベルまで一斉に0へ落ちている。


(……まさか。レベルが上がることと、心がおかしくなることは……やっぱり繋がってる?)


これまで世界中の人間が信じてきた。


レベルとは、強さの証。


高ければ高いほど神に祝福され、優れた存在であることを示す数字。


だが、本当にそれだけなのだろうか。


少なくとも、目の前の四人に起こった現象は、それだけでは到底説明できない。正気を取り戻したのとほぼ同時に、あれほど上昇していた数字だけが失われたのだから。


(もし……あの数字の中に、僕たちが知らない別の意味が隠されてるとしたら……?)


レベルそのものが精神への侵食度を表しているのか、侵食された結果としてレベルが上がっていたのか。それとも両方が、もっと大きな一つの仕組みによって同時に動かされているのか。


今のネロには、まだ答えを出すことはできなかった。


それでも一つだけ確かなことがある。


この世界が教えてきた「レベル」という概念には、自分たちが知らされていない何かがある。


そしてパラシュは、その数字が上限へ到達したLv.99にいる。


もしレベルの上昇と精神への侵食が本当に繋がっているのなら、その数字は単なる強さの頂を意味しているだけではないのかもしれない。


「ネロ!」


ドミニクの声によって、ネロの思考が現実へ引き戻された。


顔を上げると、ドミニクは大聖堂の向こうに聳える白亜の王宮本殿を指差していた。その手は、思い出した恐怖に耐えるように僅かに震えている。


「パラシュを止めてくれ」


「……うん」


「あいつは……俺たちが追いついた時には、もう俺たちの声にほとんど反応しなかった。名前を呼んでも、昔の話をしても、ネロの名前を出しても……目すら動かさなかったんだ」


ドミニクはそこで一度唇を噛んだ。


「ただ、『害する者を排除する』って、それだけを繰り返してた」


「ネロ様のお名前にも……?」


ラダが息を呑む。


ドミニクは苦しげに頷いた。


「それでも、ほんの一瞬だけ……俺には、あいつが苦しそうに見えた」


ネロの瞳が揺れる。


「……パラシュが?」


「ああ。俺たちに斧を振り下ろす直前、一瞬だけ右肩の神紋を押さえて、顔を歪めたんだ」


ドミニクは拳を握り締める。


「だから、まだ完全に消えたとは思いたくない」


その言葉を聞いた瞬間、ネロの胸へ熱いものが込み上げた。


まだパラシュ自身が残っている可能性はある。


少なくとも、すべてが完全に失われたと決めつけるには早い。


「それからパラシュは、俺たちを吹き飛ばしたあと、そのまま王宮の奥へ向かった」


ドミニクが指差す先には、白亜の王宮最上部が聳えている。


そこには歴代の王が即位の儀式を行い、神へ祈りを捧げるための祭壇を備えた【玉座の間】が存在していた。


そして現在、その上空では巨大な黒紫の雷雲が渦を巻いている。


何本もの雷光が王宮へ吸い込まれるように収束し、遥か下から見上げても分かるほどの異様な力が一点へ蓄積し続けていた。


ゴロゴロゴロ……。


低く重い雷鳴が、王都の空へ絶え間なく響き渡る。


「何をしようとしてるのかまでは分からない。でも、あの力が全部解放されたら……王宮どころじゃない。この街そのものがどうなるか分からねえ」


ドミニクの言葉を聞きながら、ネロは黒紫の雷雲を見上げた。


恐怖がないわけではない。


これまで戦ってきたどんな魔族よりも、今のパラシュは強いのかもしれない。それでも、ここまで来て逃げるという選択肢は、ネロの中には最初から存在していなかった。


「任せて」


ネロは木製の横笛を握り直した。


「パラシュは僕の幼馴染だ。あいつがどれだけ変わってても、まだ中にパラシュが残ってるなら……僕が絶対に見つける」


ドミニクたちが、息を呑んでネロを見る。


「そして、連れて帰るよ」


ネロはそう言い切ると、黒雷の渦巻く王宮最上部を真っ直ぐに見据えたまま歩き始めた。


その隣へラダが並び、ルミナも小さな手荷物の中へ収めた夫の日記を一度だけ胸元へ押さえたあと、凛とした表情で二人の後へ続いていく。


後方では、正気を取り戻した四人がその背中を見つめていた。


彼らの顔には、まだ罪悪感も混乱も色濃く残っている。


それでも、もう以前のような冷たい無表情ではなかった。


崩れた王都の空を、黒紫の雷光が再び横切る。


その光を真正面から見据えながら、ネロたちはパラシュの待つ王宮最上部へ向け、大階段を一段ずつ駆け上がっていった。

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