第30話 パラシュの過去の真相
王宮の最上階へと続く大理石の螺旋階段を駆け上がった瞬間、ネロたちの視界を強烈な閃光が灼き、ほとんど同時に耳を劈く轟音が王宮全体を震わせた。
「っ……!」
ネロは反射的に片腕で顔を庇い、ラダとルミナも思わず足を止めた。
階段の先にあるはずの【玉座の間】は、もはや王国の威厳を示す場所ではなくなっていた。
壮麗な円形天蓋は中央から吹き飛ばされ、屋根の大半が消失している。剥き出しになった頭上では紫紺の暗雲が巨大な渦を描き、その内部を黒紫の雷光が絶え間なく走っていた。
白大理石の床には無数の亀裂が広がり、砕けた柱や溶け落ちた金銀の調度品が至るところへ散乱している。そして、その荒れ果てた空間の最奥、かつて先代の王(選ばれし勇者)が座していた玉座の前に、一人の男が立っていた。
「……パラシュ」
ネロの唇から、その名が零れる。
確かに姿形はパラシュだった。だが、そこに立つ男からは、かつて共に笑い、喧嘩をし、幾度となく背中を預けてきた幼馴染の面影がほとんど失われていた。
Lv.99へ到達した肉体の周囲では黒紫の放電が暴風のように渦巻き、右肩に刻まれた神紋も異常なほど膨張して、脈打つたびに禍々しい光を放っている。その黒い紋様は肩から首筋へ伸び、さらに頬の一部にまで根を張るように食い込んでいた。
パラシュがゆっくりと顔を上げ、白く濁った双眸で三人を捉える。
だが、そこに憎悪はなかった。怒りも喜びも、かつてネロへ向けていた苛立ちさえ存在せず、残されているのは何かから与えられた命令だけを遂行しようとする、あまりにも空虚な眼差しだけだった。
「……対象……確認……」
掠れた声が、雷鳴の合間を縫って聞こえる。
「『不純物』……排除……」
「パラシュ……!」
ネロが一歩踏み出した瞬間、目の前からパラシュの姿が消えた。
「ネロ様ッ!」
ラダの叫びとほぼ同時に巨大な影がネロの正面へ現れ、そのまま大戦斧が凄まじい勢いで振り下ろされる。
ドガァァァァァンッ!!
刃から迸った黒紫の雷光が大理石の床を抉り、一直線にネロへ襲い掛かった。
だが、ネロは後退しない。村を出る前、ラダとルミナ、そして自分自身へ施しておいた青白い調律の層が一斉に震え、迫ってきた雷撃へ干渉した。
バヂヂヂヂッ!
耳障りな放電音とともに、黒雷の進行方向へ僅かな歪みが生じる。真正面から完全に受け止めるのではなく、その力を身体の左右へ流すことで直撃を避けたものの、それでも衝撃は凄まじく、ネロの頬を灼熱の風が撫で、背後の石壁が逸れた黒雷に貫かれて爆ぜた。
「ラダ、ルミナさん! 僕から離れないで!」
「はい!」
「分かりましたわ!」
二人の返事を聞くと、ネロは腰から木製の横笛を抜き取った。
再びパラシュが踏み込んでくる。今度は雷撃ではなく、巨大な戦斧そのものがネロの胴体を両断する軌道で横薙ぎに振るわれた。
ネロは横笛へ一瞬だけ息を吹き込み、その周囲へ青白い振動を幾重にも凝縮させる。
ガギィィィィィンッ!!
金属の悲鳴にも似た轟音が響き渡った。
戦斧の刃と木製の横笛が直接ぶつかったわけではない。横笛の周囲へ形成された幾重もの振動層が刃を受け止め、その凄まじい運動を細かな波へと分解しながら外側へ逃がしていた。
それでも、Lv.99へ到達したパラシュの力を完全に殺し切ることなどできない。余った衝撃がネロの両腕へ容赦なく伝わり、骨が軋み、足元の大理石は蜘蛛の巣状に砕けて靴底が数センチほど床へ沈み込んだ。
「パラシュッ!」
至近距離から、ネロは叫んだ。
「目を覚ませ! 僕だよ、ネロだ!」
しかし、濁った双眸は僅かにも揺れない。
「排除……」
パラシュの筋肉がさらに膨れ上がり、大戦斧へ凄まじい力が込められていく。
「不純物……排除……」
「ぐ……っ!」
押し返そうとするネロの腕が、少しずつ沈んでいく。
かつて自分の前に立ち、誰よりも頼もしく魔物を薙ぎ払っていた力が、今はそのまま自分の命を奪おうとしている。
(言葉だけじゃ……届かない)
ネロは歯を食いしばりながら、オルガン伯爵の日記と、正気へ戻った《暁の刃》の四人を思い出していた。
彼らの身体から消えていった、黒紫の異質な揺らぎ。
今のパラシュから聞こえてくる音も、それらと酷似している。ただし、その密度だけがまるで違っていた。
心臓の鼓動や魔力の流れだけではない。意識の奥底にまで黒紫の異音が幾重にも絡みつき、パラシュ自身が本来持っていたはずの音を完全に覆い隠そうとしている。
(これが……Lv.99まで積み重なった結果なのか?)
まだ断定はできない。
だが、今考えるべきなのは仕組みの正体ではなく、目の前にいる幼馴染をどうすれば救えるのかということだった。
そのために必要な音を見つけなければならない。
その時、かつてジナから投げかけられた言葉が脳裏へ鮮明に蘇った。
『調律ってのはな、敷かれた譜面に従って綺麗に鳴らすことじゃない。狂った音を暴き出し、己の音で塗り替えることだ』
そして、もう一つ。
『お前がその笛で奏でているものは、神に与えられた力なんかじゃない』
「……そうだ」
ネロは小さく呟いた。
世界から与えられた答えを、そのまま受け入れる必要などない。正しい音が最初から用意されているわけでもないのなら、パラシュを縛りつけている異音を自分自身の耳で聞き取り、それを解きほぐすための旋律をその場で作ればいい。
ネロは戦斧を受け流しながら、一瞬だけ目を閉じた。
黒雷の放電が空気を焼く音、大戦斧が振動する音、パラシュの荒れ狂った呼吸、その奥で絶えず刻まれている心臓の鼓動。そして、それらすべてへ覆い被さるように流れ続ける、冷たく歪んだ異質な波長。
ネロは無数に重なり合う音を、一つずつ拾い上げていった。
(……いた)
黒い雑音のさらに奥に、今にも掻き消されそうになりながら、それでも確かに残っている律動があった。
不器用で、力強くて、どこか真っ直ぐな音。
幼い頃から何度も聞いてきた、パラシュ自身の音だった。
(まだ、いる……!)
ネロは目を開いた。
「パラシュ!」
戦斧を受け流した勢いのまま横笛を唇へ運び、大きく息を吸い込む。そして、目の前で聞き取ったすべての音へ、自ら組み上げた旋律を重ねていった。
ピィィィィィィィン――――……。
澄み切った高音が、荒れ狂う玉座の間を真っ直ぐに貫く。
最初から完成された旋律ではない。パラシュの黒雷が揺れるたび、神紋が脈打つたびにネロの指も細かく動き、黒紫の波長が強まればそれを打ち消す響きを重ね、パラシュ自身の律動が弱まれば、その音を包み込むように旋律を組み替えていく。
青白い光が横笛から広がり、幾重もの波紋となってパラシュの身体を包み始めた。
「ガ……ッ……!? ア……ガ……ッ……!」
初めて、パラシュの表情が苦痛に歪む。
右肩の神紋が激しく明滅し、黒紫の放電が暴れ狂うように青白い波紋へ食らいついた。
バヂッ、バヂヂヂヂッ!
二つの異なる波長が激しくせめぎ合う。
ネロの額へ汗が滲み、肺も焼けるように苦しい。それでも演奏を止めることなく、黒い雑音の奥に残されたパラシュ自身の音だけを追い続けた。
(絶対に……見失わない!)
「戻ってこい……パラシュ!」
笛を吹きながら、心の中で叫ぶ。
すると、右肩の神紋へ小さな亀裂が走った。
ピキッ――。
そこからさらに細かな亀裂が枝分かれし、首筋や頬へ伸びていた黒い紋様へ次々と広がっていく。
ピキピキピキ……!
「ガアアアアアアッ!!」
パラシュが絶叫した直後、神紋が凄まじい黒紫の光を撒き散らしながら弾けた。
バヂィィィィンッ!!
物質として破片が飛び散ったわけではない。皮膚へ焼き付いていた紋様そのものが黒煙のように剥がれ落ち、青白い音の波へ触れた端から細かな粒子となって霧散していった。
それと同時に、パラシュの全身を覆っていた黒雷も急速に弱まり始める。
「……ステータスが……!」
ラダの声が上がる。
パラシュの周囲へ淡い光が集まり、その中に現在の状態を示す文字列が浮かび上がっていた。
【個体識別:パラシュ】
・Lv.0 ジョブ[選ばれし勇者]
・状態:正常
・特記事項:精神侵食反応なし/神紋反応消失
「……ゼロ……」
ネロの胸が大きく脈打った。
《暁の刃》の四人と同じだった。精神へ絡みついていた黒紫の異音が消えた瞬間、Lv.99という数字も跡形もなく失われている。
しかし、その意味について考える余裕はなかった。
ガランッ……。
巨大な大戦斧がパラシュの手から滑り落ち、大理石の床へ転がった。続いて巨躯が大きく揺れ、そのまま力を失ったように両膝をつく。
「パラシュ!」
ネロは横笛を下ろし、すぐに駆け寄った。
パラシュの全身を覆っていた黒雷はすでに消えつつあり、白く濁っていた瞳にも、ゆっくりと本来の琥珀色が戻り始めている。
「……あ……俺……は……」
パラシュは震える両手を見つめた。
だが、その顔へ最初に浮かんだのは安堵でも混乱でもなく、得体の知れない何かを目の当たりにしたような純粋な恐怖だった。
「あ……あぁ……」
唇が震え、焦点の定まらない視線が何もない虚空を彷徨う。
やがてパラシュは突然両手で頭を抱え込み、何かを拒絶するように強く目を閉じた。
「やめろ……見せるな……」
「パラシュ……?」
ネロがさらに近づこうとした、その時だった。
「母……さん……?」
その言葉を発した瞬間、パラシュの顔から完全に血の気が失われた。
忘れていたはずの記憶が、戻ってきたのだ。
七歳の頃、緑深い北方の寒村で暮らしていた幼い自分。神託の儀を終え、自らが【選ばれし勇者】であることを知ったばかりの頃だった。
そして、ずっと「魔族に襲われた夜」だと信じ続けてきた、あの日。
だが今、その記憶の奥深くへ押し込められていた別の光景が、鮮明な輪郭を伴って蘇り始めていた。
狭い家の中で、母親が怯えた顔をして自分の名前を呼んでいる。
幼いパラシュの右手には、台所にあった包丁が握られていた。
『パラシュ……? どうしたの……?』
母親の声は震えていた。
だが、少年だった自分は何も答えない。答えたくても答えられず、頭の中を正体の分からない何かに埋め尽くされながら、自分のものではないかのように身体だけが動いていく。
『パラシュ! やめ――』
次の瞬間、鮮血が飛び散った。
「……っ」
パラシュの呼吸が止まりかける。
それでも記憶は終わらなかった。
床へ倒れた母親の首元から大量の血が溢れ、その傍らでは幼い自分が包丁を握ったまま立ち尽くしている。頬を伝っていたのは涙ではなく、生温かな母親の返り血だった。
「違う……魔族が……母さんを……」
震える声でそう否定しても、戻ってきた記憶は容赦なく別の事実を突きつけてくる。
魔族などいなかった。
家を襲われた痕跡もなく、外へ出ても村は普段と変わらぬ静けさに包まれていた。
にもかかわらず、翌朝になると村人たちは母親の死を「魔族による襲撃」として当然のように受け入れており、誰一人として疑問を抱いていなかった。パラシュ自身もまた、いつの間にか「母は魔族に殺された」と記憶し、それを疑うことなく成長していた。
母を殺したのは魔族であり、その仇を討つためには自分が強くならなければならない。
誰よりも強い勇者となり、二度と大切な者を失わないようにしなければならない。
そう信じて、何年もの歳月を生きてきた。
「……嘘だ」
パラシュの指先が震えた。
「じゃあ……俺は……」
自分の両手を見下ろす。
そこへ、七歳の頃に浴びた母親の鮮血が重なる。
「俺が……?」
ネロは何も言えず、その姿を見つめていた。
パラシュの肩が大きく震え始める。
「俺が……母さんを……?」
掠れた声が漏れた直後、パラシュは両手で頭を抱え込み、大理石の床へ額を押しつけた。
「あああああああああッ!!」
絶叫が、天蓋を失った玉座の間へ響き渡る。
「母さん……! 母さんッ! 俺が……俺がやったのか……!? 俺が母さんを殺したのかよ……!」
「パラシュ!」
「ずっと……魔族が殺したって……! だから俺は……母さんの仇を討つために強くなるんだって……!」
大理石の床を叩いた拳から血が滲んでいく。
「なのに……俺自身が……俺が……母さんを……っ!」
最後には声すら潰れ、言葉にならない嗚咽だけが漏れた。
長い年月、自らの人生そのものを支えてきた前提が、根底から崩れ去っていた。
母を奪った敵への怒りも、強くならなければならないという執念も、勇者として誰よりも上へ立とうとした焦燥も、その出発点には母親を失った夜があった。しかし、その記憶自体が何者かによって歪められ、まったく別の悲劇へと作り替えられていたのだ。
「俺は……化け物だ……」
パラシュが、震える声で呟いた。
「俺こそが……母さんを殺した……」
「違う」
ネロの声が響いた。
パラシュがゆっくりと顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃになった琥珀色の瞳が、目の前に立つ幼馴染を捉えた。
「……何が違うんだよ……」
「お前が母さんを殺したことを、なかったことにはできない」
その言葉にパラシュの表情が歪む。
ネロも苦しそうに拳を握り締めたが、それでも目を逸らさなかった。
「でも、今のお前が思い出した記憶の中で、お前自身はそれを望んでなかったんだろ? 身体が勝手に動いて、頭の中には何かが入り込んでた。そのうえ、その後には記憶まで変えられてた」
ネロは、ゆっくりとパラシュへ近づいていく。
「だったら、その全部を『お前が化け物だったから』で終わらせるのは違う」
「でも……俺は……!」
「苦しいなら、苦しんでいいよ」
ネロはパラシュの前へ膝をついた。
「忘れろなんて言わない。許せとも言わないし、すぐに立ち直れとも言わない。でも……一人で全部背負って、自分まで壊す必要はないだろ」
パラシュの瞳から零れた涙が、大理石の床へ落ちる。
ネロはそんな彼へ、そっと手を伸ばした。
「僕も一緒に考えるから」
「ネロ……」
「何がお前をそうしたのか。誰が母さんを殺させたのか。どうしてみんなの記憶まで変わったのか……全部、これから確かめればいい」
パラシュは差し出された手を見つめたまま、しばらく動けなかった。
やがてその唇が小さく震える。
「俺……お前にも……酷いことをした……」
「うん」
ネロは否定しなかった。
「すごく傷ついたよ」
パラシュの顔が、さらに苦しげに歪む。
「だから、それも全部これからだよ。謝って終わりじゃなくて、ちゃんと最初から向き合えばいい」
そう告げて、ネロはほんの僅かに笑った。
パラシュの瞳から新しい涙が溢れ出す。
幼い頃、何も持っていなかった二人が貧民街で泥だらけのパンを分け合った時と同じように、ネロはただ静かに手を差し出していた。
「……帰ろう、パラシュ」
パラシュの右手が、ゆっくりと持ち上がる。
震える指先がネロの手へ近づき、あと僅かで二人の手が重なろうとした、その瞬間だった。
玉座の間の中央を切り裂くように、空間へ一本の白い亀裂が走った。
「……え?」
ネロが振り返る。
何かが砕けた音も、爆発した音も聞こえない。それにもかかわらず、それまで天蓋のない玉座の間を吹き抜けていた夜風が不自然なほど一斉に止まり、周囲を満たしていた魔素の流れさえも凍りついたように感じられた。
ラダも異変を察したのか、不安そうに周囲を見回す。
「ネロ様……?」
彼女には、まだ何も見えていない。
しかしネロには、それが何を意味しているのか分かった。
止まった風の中を漂ってきた、甘い百合の香り。
「……まさか」
白い亀裂がゆっくりと左右へ開いていく。
その向こうから溢れ出したのは、これまでネロが何度も目にしてきた柔らかな神気とは比較にならないほど強烈な、白銀と黄金の光だった。眩い光の奔流が荒れ果てた玉座の間を満たし、頭上を覆っていた黒紫の雷雲さえ一瞬だけ純白に照らし出す。
やがて無数の燐光が玉座の壇上へ集まり、ゆっくりと一人の少女の輪郭を形作っていった。
長い銀金の髪に、透き通るような白い肌。深い藍色の双眸を持ち、薄絹を纏った華奢な少女の姿。
そこに現れたのは、女神モヒーニカだった。
これまでと変わらぬ完璧な美貌を湛えている。
だが、その唇に浮かんでいる微笑みからは、かつてネロへ向けていた慈愛も、甘やかな優しさも完全に消え失せていた。




