一部最終話 出来損ないのアバター達
「……パラシュ。そして、ネロ。貴方たちには、心底失望いたしましたわ」
夜空を背負って玉座の壇上へ舞い降りたモヒーニカの唇から、鈴の音のように澄んでいながら、聞く者の体温を奪うほど冷え切った言葉が紡がれた。
その声が荒れ果てた玉座の間へ響いた直後、彼女の身体に異変が起こる。
いつもその存在とともに漂っていた甘い百合の香りが唐突に掻き消え、女神の輪郭が陽炎のように大きく揺らいだ。
「モヒーニカ……?」
ネロが訝しげに目を細める。
銀金に輝いていた豊かな長髪も、陶器のように滑らかだった白皙の頬も、身を包んでいた薄絹の衣さえも、内側から漏れ出した白い光によって細かな亀裂に覆われていった。
それは肉体が傷ついているのではない。これまで彼女を形作っていた「美しい少女」という姿そのものが、役目を終えた仮面のように崩れ始めているのだ。
表層を覆う光の皮膜が少しずつ剥がれ落ち、無数の燐光となって夜風へ溶けていく。
「な……何が……」
後方でラダが息を呑んだ。
その声を聞いた瞬間、ネロは反射的に振り返った。
「ラダ……見えてるの?」
「はい……。今は、はっきりと……」
ラダの琥珀色の瞳は、確かに壇上へ向けられていた。隣に立つルミナも青ざめた顔で同じ場所を見つめている。
これまでモヒーニカの姿を見ることも、その声を聞くこともできなかった二人にさえ、今ここへ現れている存在は認識できていた。その事実だけでも、ネロの背筋へ冷たいものが走る。
やがて最後の光の皮膜が剥がれ落ち、その中心から現れた存在を目にした瞬間、ネロは呼吸を忘れた。
「……僕……?」
そこに立っていたのは、これまで見慣れてきた少女の姿などではなかった。
華奢な体格も、顔の輪郭も、鼻筋も、唇の形も、ネロ自身と不気味なほどよく似た一人の少年だった。
しかし、完全に同じではない。
ネロが人として持っている温かな血色や、感情によって絶えず変化する表情だけを削ぎ落とし、理想的な造形のみを残したような姿だった。
色素の抜け落ちた雪のような白髪が、天蓋を失った玉座の間へ吹き込む夜風にさらさらと揺れている。透き通るほど白い肌には人間らしい温度が感じられず、その顔に嵌め込まれた真紅の双眸だけが、研ぎ澄まされた宝石のような冷たい輝きを放っていた。
まるでネロという人間から喜怒哀楽だけを完全に抜き取り、精巧な人形として作り直したような姿だった。
白銀の少年は血濡れた大理石の上へ静かに降り立つと、僅かに首を傾げた。
「出来損ないのアバターにしては、随分と私のシステムを壊してくれましたね」
「……アバター……?」
その声も、モヒーニカだった時とはまるで違う。
少女めいた甘やかな響きは完全に消え失せ、少年特有の澄んだ声音の奥には、目の前の者たちを一個の生命としてすら見ていないような無機質さが滲んでいた。
少年神はゆっくりと両腕を広げる。
「改めて名乗りましょうか、私の愛しい反逆者」
真紅の双眸が、愉しむように僅かに細められた。
「私は、この世界を美しく、永遠に『保護』する唯一の神――童子です」
その名が告げられた瞬間、床へ膝をついていたパラシュの身体が大きく震え、琥珀色の瞳が極限まで見開かれた。
「その……声……」
「パラシュ?」
ネロが振り返る。
しかし、パラシュの視線は童子から動かなかった。
「その声だ……。あの日……母さんが死んだ夜……俺の頭の中にずっと響いてた……」
荒くなった呼吸の合間から、掠れた声が漏れる。
「殺せって……母さんを殺せ、首を切れって……何度も、何度も命令してきた……!」
童子は否定しなかった。ただ、興味深い実験結果でも眺めるような眼差しをパラシュへ向けている。
その反応だけで、彼には十分だった。
「貴様だったのか……」
血に濡れた指が震える。
「俺に……母さんを殺させたのは……」
童子の微笑みが、ほんの僅かに深まった。
それを見た瞬間、パラシュの中で最後まで残っていた理性の糸が切れた。
「貴様かァァァァァッ!!」
魂そのものを削り取るような咆哮を上げ、パラシュは床へ転がっていた大戦斧を血まみれの手で掴み取った。
「パラシュ、待て!」
ネロが制止するより早く、パラシュは大理石の床を蹴った。
すでにレベルは0へ戻り、黒雷も神紋も失われている。それでも彼は、これまで鍛え上げてきた肉体のすべてを振り絞り、母親を奪った存在へ向けて大戦斧を振り上げた。
「母さんを返せぇぇぇッ!!」
巨大な刃が童子の白い首筋へ迫る。
だが、少年神の表情は僅かにも変化しなかった。
「身の程を弁えなさい、壊れた道具が」
童子は穏やかな微笑みを浮かべたまま、細い指先を横へ軽く振った。
キィン――。
澄んだ音が一度だけ響き、童子へ飛びかかっていたパラシュの巨体が、その目前で不自然に揺らいだ。
何が起きたのか、ネロには理解できなかった。
次の瞬間、パラシュの胸元から夥しい鮮血が噴き上がった。
「パラシュ……?」
ネロの声が掠れる。
肩口から胸部へ斜めに走った一本の傷が、遅れて大きく開いていく。鍛え上げられた肉も、頑丈な肋骨も、その奥で脈打っていた心臓さえも、何の抵抗も許されないまま一息に断ち切られていた。
パラシュの琥珀色の瞳が大きく見開かれ、口元から大量の血が溢れる。
握っていた大戦斧が指先から滑り落ちた。
ガランッ――。
刃が大理石へ転がるのとほぼ同時に、パラシュの身体も力を失って崩れ落ちる。
床へ叩きつけられた巨体の下から鮮血が急速に広がり、白い大理石の亀裂を赤く満たしていった。
「……パラシュ?」
返事はなかった。
ほんの少し前まで泣きながら自分へ手を伸ばしていた幼馴染は、もう動かない。
ネロはふらつくように数歩近づいた。
「おい……」
開かれたままの琥珀色の瞳には、もう何も映っていなかった。
そこでようやく、目の前で起きたことをネロの心が理解する。
「パラシュ――――ッ!!」
絶叫が、天蓋を失った夜空へ突き抜けた。
ほんの僅か前まで、二人はもう一度やり直そうとしていた。
母親の死の真相を知って崩れ落ちたパラシュへ手を差し伸べ、これから一緒に本当のことを探そうと約束した。その手が重なる寸前まで、確かにパラシュは戻ってきていた。
それなのに今、幼い頃から何度も喧嘩をし、貧民街で泥だらけのパンを分け合い、長い年月を共に生きてきた友は、一つの命として扱われることすらないまま殺された。
ネロは震える手で木製の横笛を強く握り締め、これまで見せたことのない激しい怒りを碧眼へ宿しながら童子を睨みつけた。
しかし童子は、その視線にもパラシュの遺体にも何の関心も示さない。
「なぜ、それほど悲しむのです?」
「……何?」
「あの個体は、もう正常に利用できません。貴方が余計な調律によって私の干渉を取り除いてしまった以上、残しておく意味などないでしょう」
何でもない事務処理の結果でも説明するような口調だった。
「母親を失ったという偽りの悲劇を与え、復讐心と喪失感を原動力として強さを求めさせる。やがて[選ばれし勇者]としてLv.99へ到達し、私の秩序にとって不要となった者たちを排除する。それが、あの個体へ用意した役割でした」
「……不要な、者……?」
ネロの眉が寄る。
童子は、天蓋の向こうに広がる王都を一瞥した。
「この国では少し前から、管理上好ましくない兆候が現れていましたからね」
その言葉に、ルミナが僅かに顔を上げる。
「……どういう、意味ですの……?」
童子の真紅の瞳が、初めてルミナへ向いた。
「先王をはじめ、王都を治めていた一部の者たちが、ステータスによって人間の価値を分類する現在の秩序へ疑問を持ち始めていたのですよ」
ルミナの青い瞳が大きく見開かれる。
「先王陛下と……王都を治めていた方々が……?」
「ええ。実に面倒なことに」
童子の声には、人間が自分の定めた秩序へ疑問を抱くという行為そのものを理解できないような冷淡さがあった。
「先王は私の定めた仕組みへ疑問を持ち、自らの周囲へ同じ思想を抱く者たちを集めようとしていました。神から与えられたジョブやレベルだけで、人の価値を決めるべきではないなどという極めて不合理な思想をね」
ルミナの唇が震えた。
それは、オルガン伯爵の日記に何度も記されていた言葉と同じだった。
『人は、神の与えしステータスやジョブの数値のみで測られるべきではない』
『低位のジョブを理由に理不尽に虐げられる民を救う』
日記の中で優しく、誠実だった頃の夫が求めていた改革。
あれは、オルガン伯爵一人だけが抱いていた理想ではなかったのだ。
「……まさか……」
ルミナの顔から血の気が引いていく。
童子はその反応を眺めながら、淡々と言葉を続けた。
「当然、放置するわけにはいきませんから、先王には退場していただきました」
「……っ!」
ルミナが息を呑み、ネロも険しい表情で童子を睨みつける。
「先王が急死したのは……お前が?」
「原因そのものなど、今となっては重要ではありません。管理者として不適切となった個体が取り除かれた。それだけのことです」
童子はそれ以上、先王の死について語ろうとはしなかった。
どのような方法で死へ追いやったのか。病死に見せかけたのか、それとも別の何かを利用したのか。
その真相までは、ネロたちに知る術がない。
「では……伯爵様は……?」
ルミナの声が震えていた。
「私の夫も……神とステータスへ疑問を持っていたから……?」
「ええ」
あまりにもあっさりとした肯定だった。
ルミナの肩が大きく揺れる。
「オルガンをはじめとした一部の貴族たちは、先王の思想を引き継ごうとしていました。ステータスによる差別を緩和し、低位ジョブの者にも権利を与えようとしていた。私の秩序を維持するうえでは、あまりにも不都合な存在です」
「そんな……」
ルミナの声が掠れる。
「では、日記に書かれていたことは……本当に……」
かつて貧しい領民の税を軽減し、低位ジョブの者にも仕事を与えようとしていた夫。
誰かを数字だけで判断するべきではないと訴えていた、あの頃のオルガン伯爵。
それこそが、本来の彼だったのだ。
「でしたら……どうして……」
ルミナの両手が震える。
「どうして、伯爵様をあんな方に……!」
童子は僅かに首を傾げた。
「そのまま殺してしまえば、余計な疑問が生じるでしょう?」
「……え……?」
「民から慕われる善良な改革者たちが、ある日突然神罰を受けて消えれば、人々はその理由を考え始める。中には、神の方が間違っているのではないかと疑う者すら現れるかもしれません」
薄い笑みが童子の唇へ浮かぶ。
「ですから、先に彼ら自身を民衆から憎まれる存在へ変えておいたのです」
ルミナの瞳が凍りついた。
「……変えた……?」
「欲深く、傲慢で、弱者を踏みにじり、自らの利益だけを求める支配者へ。多少時間は必要でしたが、実に上手く機能しましたよ」
「……あなたが……」
ルミナの膝から、僅かに力が抜ける。
「伯爵様を……あんな人にしたの……?」
童子の顔には、罪悪感など微塵も浮かんでいなかった。
「人間の人格など、環境と認識へ少し手を加えれば容易に変化します。思考へ不要な衝動を混ぜ、感情の優先順位を書き換え、本人にそれが自分自身の考えだと思い込ませればよい」
その説明を聞いた瞬間、ルミナの脳裏へ日記の文章が鮮明に蘇った。
『なぜだろう。あれほど愛おしかったルミナの顔を見ることが、時折ひどく不快に感じられる』
『「ここにいてはならない」「不要だ」「価値がない」という声が、私自身の考えであるかのように頭の中へ入り込んでくる』
『違う。私はルミナを愛している』
『私の頭の中から出ていけ』
「あ……」
ルミナは思わず口元を手で覆った。
「あれは……全部……」
頬を、涙が伝っていく。
「伯爵様は、本当に……ずっと抗っていらしたのですね……」
「抵抗していたことは認めます」
童子は冷たく答えた。
「想定より多少しぶとかった。それだけです」
ルミナの顔が苦しげに歪んだ。
「あの方を……人を助けようとしていた伯爵様を、民から憎まれるような人間へ変えて……私まで傷つけさせて……!」
童子は何も答えない。
「それで最後には……パラシュ様に殺させたのですか……?」
「その方が都合が良かったので」
あまりにも簡単な返答だった。
「反抗的な貴族たちは民衆の敵として死に、その処刑者となるのは神に選ばれたLv.99の勇者。人々は、勇者によって悪しき支配者へ神罰が下されたのだと解釈する」
童子は玉座の間から見下ろせる王都へ、ゆっくりと視線を向けた。
「同時に、神に逆らった者がどのような末路を迎えるのかを人々へ理解させることもできます。恐怖と救済を同時に与えれば、人間は自ら進んで秩序へ従うようになる」
ネロの脳裏へ、避難民たちの言葉が蘇った。
『あれは天罰なんだ』
『神様がお怒りになったんだ』
『勇者様が腐った貴族へ裁きを下しているんだ』
あの時、恐怖に震えながらも童子の正しさへ縋っていた人々の反応まで、すべて計算されていたのだ。
「……最低だ」
ネロの声が低く震えた。
童子は気にする様子もなく続ける。
「それに、パラシュ本人にも都合が良かったでしょう。母親を魔族へ殺されたという偽りの記憶を与えておけば、魔族への憎悪を糧として迷うことなく力を求め続ける。王になるためLv.99を目指し、その過程で精神も容易に調整できる」
その真紅の視線が、足元に横たわるパラシュへ向けられた。
「本来なら、貴族たちの粛清を終えた後は、新しい秩序を象徴する王として利用する予定でした。神に選ばれ、悪しき支配者へ裁きを下したLv.99の勇者が玉座へ就けば、民衆はそれを神意の証として受け入れたでしょう」
童子の冷たい視線が、今度はネロへ戻る。
「ですが貴方が余計な調律を行い、神紋も精神への干渉も取り除いてしまった。私の制御から外れた王など、残しておく価値はありません」
「価値が……ない……?」
ネロの指が横笛へ深く食い込む。
「だから殺したのか……? パラシュは物じゃない……!」
「私にとって、大した違いはありません」
童子は冷然と言い放った。
「そして、貴方についても同じです」
「……僕?」
「仲間たちから無価値と断じられ、絶望の底へ突き落とされる。そこへ私が『モヒーニカ』として現れ、貴方だけを肯定し、愛し、必要として差し上げる」
少年神の薄い微笑みが深くなる。
「そうすれば、誰からも必要とされなかった[選ばれし勇者]は、私だけを信じ、今度こそ従順な私のアバターになるはずだった」
「…………」
「そして私の望む通りに戦い、世界へ生じた不都合な歪みを処理していく。実に単純で、美しい構成でしょう?」
ネロの脳裏へ、あの荒野で聞いた言葉が蘇った。
『愛しい我が子』
『貴方は選ばれた勇者』
『私だけは、いつでも貴方の味方です』
あの時の自分が、何より欲しかった言葉だった。
誰かに必要だと言ってほしかったし、自分にも価値があると認めてほしかった。誰にも見放されたあの瞬間、たった一人でいいから自分だけを見てほしいと願っていた。
その弱さまで、最初から利用されていた。
「……最初から……」
ネロの声が震えた。
「最初から全部……僕を操るために……?」
「操る、という表現は適切ではありませんね。貴方には、私が用意した役割を果たしていただくだけだったのです」
童子はそこで初めて、僅かに不快そうに眉を寄せた。
「もっとも、想定より遥かに面倒な結果となりましたが」
真紅の視線が、ネロの木製の横笛へ落ちる。
「どうやら、前世から残ったバグを完全には除去できなかったらしい」
「前世……?」
「女達への過剰な憐憫、仲間への執着、そして用意された正解よりも、自分自身の感覚を優先しようとする無意味な自我」
童子は吐き捨てるように言った。
「そうした不純物が、また貴方を設計通りに動かない欠陥品へ変えた。せっかく私自身に似せて作ったアバターだというのに、本当に残念です」
ネロはその言葉の中に含まれていた一語へ、僅かな違和感を覚えた。
また。
まるで以前にも、同じことがあったかのような言い方だった。
だが、問い返すより先に、これまでの出来事が脳裏へ次々と浮かび上がる。
消えかけたルミナを見捨てろと言ったモヒーニカ。人格を失っていった《暁の刃》。奴隷として生きることを強いられてきたラダ。
母親を殺させられ、その記憶まで書き換えられていたパラシュ。そして、ステータスへ疑問を抱いたがために人格を壊され、愛する妻すら傷つける悪徳貴族へ変えられたオルガン伯爵。
「……ラダのことも?」
ネロの声音が低くなる。
童子の赤い瞳が、後方へ向けられた。
ラダの身体が僅かに強張る。
「……かつて私のアバターを狂わせた女。あなたの一族も、随分昔から管理上好ましくない思想を受け継いでいましたね」
「……私……?」
ラダは意味を理解できず、困惑したように眉を寄せた。
だが、童子はそれ以上説明するつもりなどないらしい。
「数字で人間の価値を測ることを拒み、私の定めた秩序とは異なる古い音へ耳を傾け続けていた。放置しておけば不要な疑問を広げる可能性があったため、王国側へ処理させました」
ラダの顔から血の気が引いていく。
炎に包まれた故郷、騎士たちに殺された父と母、大勢の前でステータスを晒され、商品として売られた幼い自分。そのすべてが、ラダの脳裏へ鮮明に蘇っていた。
「……処理……?」
琥珀色の瞳に涙が滲む。
「私のお父さんも……お母さんも……里のみんなも……ただ、それだけの理由で……?」
「理由としては十分でしょう」
童子はそれ以上ラダへ興味を示さず、今度はルミナへ視線を移した。
「そして、そちらの二十歳を迎えた個体も、本来ならすでに正常な手順に従って消失しているはずでした」
ルミナが息を呑む。
そこで童子は、何かを思い出したように薄く微笑んだ。
「そういえば、オルガンが最後まで最も強く抵抗したのも、その女に関する命令でしたね」
「……!」
ルミナの瞳が見開かれる。
「彼は貴方を排除するよう何度調整しても、深層では拒絶し続けていました。最後には命令そのものから貴方を逃がそうとしていた。実に非効率な執着でした」
「伯爵様……」
ルミナの頬を、また涙が伝っていく。
しかし、今度の涙に宿っていたのは悲しみだけではなかった。
自分を確かに愛していた夫。その愛情を壊し、自分を殺させようとし、それでも最後まで抗い続けた彼の人生すべてを弄んだ存在が、今まさに目の前に立っている。
「……あなたが……」
ルミナは震えながらも、逃げずに顔を上げた。
「あなたが、あの方から全部奪ったのですね」
童子は何も答えなかった。
その沈黙こそが、何より雄弁な肯定だった。
ネロの中で、何かが切れた。
「……ふざけるな」
低い声が漏れる。
「何です?」
「ふざけるなって言ってるんだ……!」
ネロの全身から、黄金色の光が爆発するように噴き上がった。
それはルミナやパラシュを救った時に用いた、神気へ依存しない青白い調律ではない。かつて「女神モヒーニカ」から力を授かった時、自分の中へ流れ込んできた神聖な力だった。
「人の命も、心も……!」
ネロは大理石を蹴る。
「全部お前の思い通りになると思うなァァァッ!!」
神気によって身体能力を一気に引き上げ、童子へ肉薄する。
激情へ呼応するように黄金の光が右腕へ集中し、空間そのものを断ち切る斬撃となって放たれた。さらに横笛を振り抜けば、その先端へ集束した神聖光が巨大な奔流となって炸裂する。
轟音とともに白亜の床が砕け、黄金の閃光が玉座の間を埋め尽くした。
「ネロ様!」
ラダが叫ぶ。
光の奔流は真正面から童子へ殺到した。
しかし、それらは少年神の身体へ触れることすらなかった。
童子の眼前、僅か数センチほどの場所で黄金の光が不自然に静止している。
「……え?」
ネロの表情が凍りつく。
空間を裂くはずの斬撃も、圧倒的な熱量を孕んだ神聖光も、見えない境界へ触れた端から少しずつ輪郭を失い、雪が温かな水へ溶けるように音もなく消えていった。
爆発も起こらず、余波も風も、焼けつくような熱さえ残らない。ほんの数秒後には、ネロが放った力のすべてが、最初から存在していなかったかのように消失していた。
童子の白髪一本さえ揺れていない。
「……そんな……」
「忘れたのですか、ネロ?」
童子は退屈そうに小さく息を吐いた。
「今、貴方が私へ向けて振るった神気は、私が『モヒーニカ』として貴方へ貸し与えたものです」
真紅の双眸が冷たく細められる。
「私から切り分けられた力を、造物主である私自身へ返したところで、何が起こるというのでしょう?」
「くっ……!」
ネロは歯を食いしばった。
あれほど圧倒的に感じていた黄金の力が、童子には何一つ通用していない。それどころか、攻撃として認識されているのかすら分からないほど完全に消し去られている。
「所詮、それは貴方自身の力ではありません」
童子の一言が、鋭く胸へ突き刺さる。
そして少年神は、今度こそネロから興味を失ったように視線を逸らした。
その先にいたのは、ラダだった。
「まずは、余計なものから消しておきましょう」
「……え?」
ラダの表情が強張る。
童子が細い指を持ち上げると、白銀の指先へ、目を開けていることさえ困難なほど眩い光が急速に集束し始めた。
「ラダ!」
ネロが叫んだ瞬間、白銀の光が放たれる。
一本の細い光線となったそれは、凄まじい速度でラダの胸元へ一直線に伸びていった。
何の術なのかを考える暇などなかった。
あの光へ触れれば、ラダが死ぬ。
それだけは、理屈ではなく直感で理解できた。
ネロの身体が反射的に動く。
「ラダ――ッ!!」
手にしていた横笛を放り出し、全身の力を振り絞って床を蹴った。
恐怖で身体を強張らせていたラダへ飛びつき、その華奢な身体を胸元へ強く抱き寄せると、そのまま自らの背中を迫り来る白銀の光へ向けた。
「ネロ様――!?」
ドッ――!!
重い衝撃が、ネロの背中を突き抜けた。
「……がっ……!」
身体が大きく跳ねる。
何が起こったのか理解するより早く、胸元から鮮血が噴き出した。
白銀の光は背中から身体へ入り込み、骨も臓器も区別することなく胸部を貫いて、そのまま前方へ抜けていった。
「ネロ……様……?」
ラダの白い頬へ、温かな血飛沫が散る。
ネロは何とか彼女を抱いたまま立っていようとしたが、膝から急速に力が失われていった。
「が……はっ……」
口元から大量の血が溢れる。
呼吸をしようとしても胸が上手く動かず、肺へ空気を送り込もうとするたび、喉の奥から湿った音だけが漏れた。
「ネロ様ッ!?」
ラダが悲鳴を上げる。
崩れ落ちたネロの身体を必死に抱き止め、そのまま二人で大理石の床へ膝をついた。
「嘘……嫌……嫌です……!」
「ラ……ダ……」
「ネロ様、しっかりしてください! お願いです、目を閉じないでください!」
ラダは震える両手でネロの傷口を塞ごうとする。しかし胸元から流れ出す血は止まらず、細い指の隙間から次々と零れ落ちていった。
「お願い……止まって……! お願いだから……!」
ラダの白い頬も、黒髪も、亜麻色の衣服も、瞬く間にネロの血で赤く染まっていく。
そのすぐ後ろでは、ルミナも青ざめた顔で立ち尽くしていた。
夫が長い間苦しめられていた真相を知った直後、今度は自分たちを救ってくれたネロまで目の前で倒れている。
「ネロ様……そんな……」
震える両手で口元を覆ったまま、ルミナは目の前で起きている出来事を受け止めることができない。
「ネロ様、目を開けてください! 私を置いていかないでください……!」
ラダの絶叫が、崩壊した玉座の間へ響き続ける。
「……ラダ……」
ネロの視界が霞んでいった。
ラダの顔さえ、少しずつ輪郭を失っていく。身体から急速に熱が逃げていることが分かり、このままではもう長く保たないことを、ネロ自身が誰より理解していた。
それでも、泣き崩れるラダだけは最後まで見ていたかった。
ネロは震える右手を、ゆっくりと持ち上げる。
血に濡れた指先が、ラダの頬へ触れた。
「……よかっ……た……」
「何を……何を言って……!」
「ラダが……無事で……」
途切れかけた呼吸の合間から、ネロはどうにか言葉を絞り出した。
「……逃げて……早く……」
「嫌です……!」
ラダは首を激しく横へ振る。
「そんなこと言わないでください! ネロ様がいなくなったら、私は……!」
しかし、その続きをネロが聞き取ることはできなかった。
頬へ触れていた手から力が抜け、ラダの肩を伝うようにゆっくりと滑り落ちていく。
「ネロ様……?」
反応はない。
ラダは震える指先を、その胸元へ触れさせた。
「……ネロ様?」
脈動は感じられなかった。
「……いや……」
掠れた声が漏れる。
それまで必死に堪えていたものが、一気に崩れ落ちた。
「嫌ぁぁぁぁぁぁッ!! ネロ様ぁぁぁぁぁぁッ!!」
ラダの慟哭が、天蓋を失った玉座の間から夜空へ響き渡った。
血に染まったネロの身体を胸へ抱き締め、何度名前を呼んでも、もう返事は戻ってこない。
少し離れた場所ではパラシュの遺体が血溜まりへ沈み、その傍らではルミナが涙を流したまま立ち尽くしている。
ルミナの目の前にいるのは、愛していた夫の人格を壊し、パラシュの人生を歪め、さらに今、自分たちを救ってくれた少年までも平然と殺した存在だった。
先ほどまで胸の大半を占めていた恐怖の奥から、やがてそれとは異なる激しい感情が込み上げてくる。
ルミナは震える身体を必死に支えながら、涙に濡れた青い瞳で童子を睨み返した。
そんな彼女たちを前にしても、童子の表情には何一つ変化がなかった。
「……呆気ないものですね」
少年神は冷ややかに呟いた。
「愛などという不確定なバグを優先するから、そうして設計された役割すら果たせずに終わるのです」
血に濡れたネロを一瞥しても、そこに哀れみはない。
ただ一つの不具合を処理し終えたように興味を失い、その真紅の視線をラダとルミナへ移していく。
「さて、残った不純物の掃除を終わらせるとしましょうか」
童子が再び白銀の指先を持ち上げると、その先へ眩い光が急速に集まり始めた。
ラダはネロの亡骸を胸へ抱き締めたまま動かず、そのすぐ傍ではルミナが涙に濡れた顔を上げ、夫を壊した神を真正面から睨み返している。
二人の頭上へ、今度こそ逃れる術のない死が静かに降りようとしていた。




