第8話 レベル0の理由とエルフの奴隷
ネロはギルドプレートを持ち上げる。
「勇者としての力は戻ったんだよね? それに、この数日でオーガも飛竜も倒した。だったら、普通ならレベルが上がってもいいはずなのに……」
言いながら、胸の奥へ再び不安が湧き上がる。
「僕は今もLv.0のままだし、筋力も魔力も表示されない。やっぱりどこか、おかしいんじゃ……」
その言葉を聞いた瞬間だった。
モヒーニカの柔らかな微笑みが、ほんの僅かだけ止まった。
ほんの瞬きほどの時間。
俯いてギルドプレートを見つめていたネロが、その変化へ気づくことはなかった。
「……それも、魂へ残された傷の影響でしょう」
「傷の……?」
「ええ」
モヒーニカはいつもと変わらぬ優しい声音で答えた。
「勇者として戦う力が一部戻ったことと、その力をこの世界の法則が正しく認識できることは、必ずしも同じではありません」
「どういうこと?」
「あなたの魂は今もなお、現世を満たす神託の法則と完全には噛み合っていないのです」
モヒーニカはネロが持つギルドプレートへ指先を重ねた。
「魔物を倒し、経験を重ねたことそのものが消えているわけではありません。ですが魂の傷が深すぎるため、それをこの世界が正常に読み取り、『レベル』という数字へ変換できていないのでしょう」
「じゃあ……僕が戦ったことは、ちゃんと意味があるの?」
「もちろんです」
即座に肯定が返ってくる。
「あなたが経験したことも、戦いの中で身につけたものも、確かにあなたの魂へ刻まれています。ただ、それが数字として表へ出ていないだけ」
「そう……なんだ」
ネロは少しだけ安堵したものの、プレートへ刻まれた『0』を見つめる瞳には、まだ僅かな不安が残っていた。
「じゃあ……いつか魂の傷が治ったら、僕にも普通にレベルが表示されるようになるのかな」
「ええ。いずれは」
モヒーニカは微笑みながら、ネロの頬へそっと触れた。
「魂が完全な姿を取り戻せば、レベルも、神紋も、かつて失われた勇者としての力も、きっと本来あるべき姿へ戻るでしょう」
「……本当に?」
「私があなたに嘘をついたことがありますか?」
穏やかにそう問われ、ネロは一瞬だけ目を瞬かせる。
それから小さく首を横へ振った。
「……ないよ」
「ならば、何も心配する必要はありません」
モヒーニカの細い指が、優しくネロの髪を撫でる。
「それに、数字だけを見て再び自分を卑下する必要などないのですよ。あなたはLv.0のままでも、すでに普通の冒険者では到底敵わない魔獣を倒しているではありませんか」
「うん……」
「焦らず、私とともに歩んでください」
藍色の瞳が、吸い込まれそうなほど優しくネロを見つめている。
「私は誰よりも、あなたの魂を知っているのですから」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥へ残っていた不安が少しずつ溶けていった。
自分は本当に何も持っていなかったわけではない。
誰にも見つけてもらえなかっただけで、ずっと自分の中に勇者の魂が宿っていたのだ。
そして今、その価値を知っている存在がすぐ傍にいて、自分を必要としてくれている。
「モヒーニカ……僕、もっと強くなるよ」
ネロは横笛を胸元でぎゅっと握り締め、振り返って彼女の澄んだ瞳を見つめた。
「君が目覚めさせてくれたこの力があれば、どんな魔物だって退けられる。だから……待っていて。必ず僕が魔王を倒して、奴から君の実体を取り戻してみせるから」
不器用ではあるが、混じり気のない純粋な決意だった。
かつて仲間を守るために必死に笛を吹いていた頃と同じ、誰かの力になりたいという一途な光が、ネロの瞳に宿っている。
その真っ直ぐな眼差しを受け止め、モヒーニカは静かに目を細めた。
ネロの視線から僅かに外れた角度で、形の良い唇が冷徹で底知れぬ弧を描く。
己の敷いた筋書き通りに、何ひとつ疑うことなく刃として研ぎ澄まされていく少年。
そのひたむきな熱意を心底から愉しむかのような、甘美な嗤笑だった。
だが、ネロが瞬きをした次の瞬間には、その昏い影は跡形もなく消えていた。
「ふふ……ええ。信じていますよ、私の誇り高き勇者様」
モヒーニカはいつもの慈愛に満ちた柔らかな笑みを浮かべ、ネロの頭を優しく撫でる。
透き通るような指先が、ネロの髪をふわりと揺らした。
「けれど、決して焦ってはいけません。あなたはその優しい心のまま、私の導きに従っていればよいのです」
「うん」
「……さあ、少し休みましょう。温かいお茶を淹れましたから」
実体を持たないはずの彼女が差し出した手元から、湯気を立てる陶器のカップが、吸い込まれるようにネロの手のひらへ収まった。
芳しい香りとともに伝わってくる、確かな温かさ。
ネロはその不自然さへ疑問を抱くこともなく、はにかむように小さく笑ってカップへ口をつけた。
自分を必要としてくれる存在が、すぐ隣にいる。
その揺るぎない安心感だけが、少年の孤独な世界を優しく満たしていた。
◇ ◇ ◇
その後、旅に必要な物資を買い揃えるため、ネロが再び街の中央へ出た時のことだった。
広場へ近づくにつれ、殺気立った罵声と、肉を打つ生々しい鞭の音、そして見物人たちの下卑た歓声が風に乗って響いてくる。
「……何だろう」
石造りの目抜き通りを抜け、人だかりを掻き分ける。
やがてネロの目へ飛び込んできたのは、広場の中央に設けられた処刑台だった。
豪奢な白狐の毛皮外套を羽織り、ルビー色のワイングラスを手にした小太りの貴族商人ガルドが、屈強な武装用心棒たちを従え、下卑た笑みを浮かべている。
そして処刑台の冷たい石床へ引きずり出されていたのは、一人の少女だった。
泥と鮮血に塗れ、粗末な貫頭衣を無残に引き裂かれた、黒髪のエルフの少女。
細い首には、魔力を強制的に遮断し、激痛を神経へ流し込み続ける黒鉄の【重層隷属環】が深く食い込んでいる。
遠目からその姿を捉えた瞬間、ネロの胸の奥で、カチリ、と何かの歯車が噛み合うような奇妙な疼きが走った。
理不尽な暴力に対する義憤。
王都で切り捨てられた自分自身の境遇を重ねた同情。
もちろん、それもあった。
しかし、それだけでは説明できない何かが、魂の奥底から強く湧き上がってくる。
なぜなのかは分からない。
初めて会ったはずの少女だ。
名前すら知らない。
それでも、理屈を超えて一つの思いだけが、ネロの胸を強く締めつけた。
(……あの子を、死なせちゃいけない)
それは単なる同情と呼ぶには、あまりにも強い衝動だった。
「聞け、愚民ども!」
ガルドがワインを一口煽り、広場を取り囲む群衆へ傲慢な声を張り上げる。
「この忌まわしき黒髪のエルフ奴隷めは、我が家宝である『天界石の魔導杯』を不注意で粉砕しおった! 弁済金は金貨五百枚! 払えぬ以上、この場で四肢を切り落とし、見せしめとして魔物の餌にしてくれるわ!」
群衆から残酷な歓声が沸き上がった。
だが、その真実はあまりにも醜悪だった。
前夜、酒に酔ったガルド自身が手を滑らせて杯を割ったにもかかわらず、その罪を口答えの許されない奴隷の少女へ擦りつけ、自らの歪んだ欲望を満たすための見世物処刑へ仕立て上げたに過ぎない。
ビシィッ――!
容赦なく振り下ろされた棘付きの鞭が、少女の華奢な背を裂き、赤い飛沫を散らした。
「そうだ! 不吉な黒髪の亜人なんて殺せ!」
「手足を切り落とせ! 生かしちゃおけねえ!」
取り囲む群衆は誰一人として異を唱えず、むしろ血の匂いに飢えたような狂乱の笑声を響かせる。
低位のジョブ。
低いレベル。
亜人という種族。
自分たちよりも社会的な価値が低いと見なされた存在を踏みにじることで、日頃の鬱屈を晴らそうとする歪んだ熱狂が、広場全体を覆い尽くしていた。
「……あ、ぐ……っ」
少女は助けを求める声すら上げず、冷たい石床の上で震えながら身を丸めている。
エルフ特有の長い耳を力なく伏せ、琥珀色の瞳からは完全に生気の光が失われていた。
逃げ場のない理不尽と暴力の前で、少女はただ、死が訪れる瞬間を諦念の中で待っている。
「さあ、まずはその生意気な右腕からだ! 叩き落とせ!」
ガルドが残忍に顎をしゃくる。
巨漢の処刑人が下卑た息を吐きながら、分厚い大ナタを両手で天高く振り上げた。
重厚な刃が、無防備な少女の肩口へ狙いを定める。
その刃が振り下ろされようとした刹那だった。
考えるよりも先に、ネロの手が動いていた。
木製の横笛を唇へ運ぶ。
ピィ――ン……ッ!
空気を凍てつかせるほど鋭利な、一筋の笛の音が広場を貫いた。
直後、処刑人の手元で爆発的な衝撃音が炸裂する。
振り下ろされるはずだった分厚い大ナタが、目に見えぬ超高周波の刃によって、火花すら散らすことなく粉々の鉄屑となって爆散した。
「が、あッ……!?」
刃の破片とともに生じた不可視の衝撃が処刑人の巨躯を容赦なく弾き飛ばし、その身体を処刑台を支える太い石柱へ激突させる。
石柱に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、処刑人は白目を剥いたまま崩れ落ちた。
それまで広場を包んでいた狂乱の歓声が、一瞬にして凍りついたような静寂へ変わった。
「な、なんだぁ……!? 何が起きた!?」
ガルドが思わずワイングラスを取り落とす。
割れたグラスから飛び散った赤い酒が、白狐の毛皮の裾を濡らした。
用心棒たちは慌てて剣の柄へ手をかけ、殺気立った視線を周囲へ巡らせる。
ざわめく群衆が、何かに押し退けられるように左右へ割れていく。
その中央。
処刑台へ続く石段を、素朴な木製の横笛を手にした一人の少年が、ゆっくりと上ってきた。
ネロだった。
その碧眼には、胸の奥から湧き上がる抗いがたい衝動と、弱い者をいたぶり嘲笑う者たちへの静かな怒りが宿っていた。




